一章 萌え出づる春③

「ただいま、戻りました」

 典薬寮の女医処へと戻った小春は書き物をしていた雪路へと声をかけた。しんさつの時間が終わりへと近付いているからなのか、どうやらかんじやはいないようだ。

「ああ、おかえり。迷わなかったか?」

「はい、だいじようでした。女官のいなさんが雪路さんの薬で胃の調子がすっかり良くなったとおつしやっていましたよ」

「それなら良かった。彼女は責任感が強いから、精神的が胃にかかっているんだろうね」

 患者の調子が良くなったことを知り、雪路は少しだけ表情をゆるめていた。やはり、ている患者の身体からだの調子が良くなっていくのは嬉しいのだろう。

 小春は雪路の前へと腰を下ろし、彼女が書き物を終えるのを待ってから、そっと訊ねた。

「あの、雪路さん」

「ん?」

「雪路さんは、呪禁というものを知っていますか」

「っ……」

 一瞬だった。それまでおだやかな様子だった雪路の表情が強張っていき、しかめたものへと変わっていく。その反応を受けて、小春は心の中で確信を得た。

 ……雪路さんも知っていることなんだ。

 そして、自分だけが知らないのだ。まるで取り残されたような気分にさびしさを覚えた。

 しかし、雪路の視線は鋭いものとなり、小春をたしなめるように目は細められていく。

「……どこで呪禁のことを知ったんだ」

「えっと、だいの中で母様と知り合いだった人と会いまして、その方が仰っていました」

「他に聞いていた者はいないな?」

「い、いないと思います……」

 それまでとはちがった雪路の厳しい態度におどろいた小春はごくりとつばを飲み込み、彼女の口から次の言葉が発せられるのを待った。

「小春。呪禁のことはだれにも話さないようにしなさい。聞いたことも忘れてしまいなさい」

「……何故なぜですか」

「話すべきではないからだ。そして、知るべきではない。……知らない方がいいこともある」

 雪路はじゆうを飲まされたように顔を顰め、小春の視線からのがれるように顔をそむける。

 かたくなに話そうとしない雪路に対して、小春はめ寄るようにひざを進める。知らない方が良いと言われて、そうですかとなつとく出来るわけがなかった。

「……どうして、私は知ってはならないのですか。雪路さんは知っているのに……」

「小春……」

「呪禁というものが母様に関わりのあることならば、私は知りたいです」

 冬次は呪禁を母に教わったのかと言っていた。それならば、母と呪禁には絶対的な関わりがあったはずだ。胸のつかえは大きくなるばかりで、治まる気配はない。

 小春がすがるように雪路を見つめていると彼女は小さくくちびるみ、やがて深いためいきいた。

「……やはり、お前と小竹さんはよく似ているよ。顔立ちだけじゃない。……大人しそうに見えて、意外とごうじようなところもそっくりだ」

 二度目となる深い溜息を吐いてから、雪路は言葉を続ける。

「どうせ、このままはぐらかしても、また訊ねて来そうだからな。……分かった、呪禁について教えよう」

 雪路は深呼吸を何度かしてから、ゆっくりと口を開いた。

「呪禁とは……口に出すことさえもはばかられるほどに危険なものなんだ」

「危険なもの……?」

 予想していなかった言葉に、小春は思わずまゆをひそめてしまう。

「そうだ。これはのろいの力だ。……人を苦しめ、害する力を持っている。最悪の場合、死に至った者がいるほどだ」

 世間では「呪い」とは、うらみがある相手に不幸をあたえるしきこうだと言われている。

 呪禁が人を傷付けるものだと聞いた時、重ねていた両手の指先が少しだけ冷えていく気がしたが、ここで聞くことをめるのは出来ずにいた。

「だからこそ、ぞくとうりつって禁じられているんだ。──誰も傷付かないために」

 賊盗律がほんや殺人、えんなどの犯罪に対してばつそくを規定するものだと知っている。つまり、呪禁というものは律の中で、犯罪の一つとして禁じられている対象なのだろう。

「そ、の……。もし、呪禁について話したり、力を使っているところを見られた場合はどうなるのでしょうか……?」

 ふるえそうになる声をおさえて、小春はおそる恐る訊ねてみる。雪路は苦いものを食べたような表情をかべ、小春から再び視線をらした。

ろうに入れられるだけならばまだ良いが、場合によってはざいもあり得るだろう。罪が重い事件の際には、親族もいつしよに配流された場合があったらしい」

 流罪は最も重いけいばつだ。唾を飲み込もうとしたが、上手うまく飲み込むことが出来なかったのはのどに何かがつかえたからかもしれない。それでも小春は話の続きをこうと耳をかたむけ続けた。

「小竹さんは……」

 そこで雪路は一度、言葉をつむぐことを止めた。口に出すことを苦しんでいるように。その言葉をくことを罪としているように。そしてゆっくりと、ただ重く、静かに呟いた。

「……小竹さんは、じゆごんだったんだ」

「呪禁師……」

「呪禁をあつかう人のことをそう呼ぶ。あの人は世間で禁じられた危険な術を使っていたんだ」

「……っ」

 雪路から告げられた言葉を小春はなおに受け止めることが出来ずにいた。まるで、後ろから頭をなぐられたようなしようげきが自分へと降りかかっていた。

「じょ……じようだん、ですよね……? だって、母様は……っ!」

 くすだった、そう告げようとした小春の言葉はちゆうで途切れてしまう。

うそではない。人を傷付ける力をあの人は確かに使っていた。……そして、自身も呪禁のせいでくなったんだ」

 ひと呼吸を置いてから、続けられた言葉に小春は動けなくなっていた。自分以外のすべての時間が止まってしまったように、息も心も何もかもが動かなかった。

「……呪禁は本当に危険なものなんだ。それにその危険性がお前にも宿っている」

「どういう……ことですか……?」

「おまじない程度の単純な呪禁であれば、学べば身に付けられるだろう。だが、一部の呪禁はそうではない。強力な呪禁は血筋によって遺伝するもので、特に小竹さんは強い力を持った呪禁師だった。……つまり、小春にも同じ呪禁の力が宿っている可能性があるということだ」

 どくん、と心臓が大きく脈を打ち、小春はまさかと言わんばかりに目を見開く。

「小竹さんが呪禁師であるということを知る者はごくわずかだ。だが、小竹さんのむすめであることがけんすれば、小春を利用する者が現れるかもしれない。だからこそ決して、呪禁に関することを他言してはならないし、知ろうとしてはならない。……いいね?」

 雪路の顔を真っぐ見ると、彼女は険しい表情を浮かべていた。雪路という人は、このような表情を浮かべながら冗談を言える性格ではないことを小春は知っている。

「そんな……」

 背筋をばして座っていた身体は力がけてしまったように、じくを失っていく。

 信じたくはなかった。母が人を傷付ける力を持っており、そして使っていた事実など、受け入れたくはなかった。何故ならば、自分の母は痛みや苦しみから救ってくれる医師であるはずだからだ。それなのに母が人の命をおびやかす呪禁師という存在だったことに衝撃を隠せず、いだいていた母へのあこがれと現実の間に大きな差異が生じ、頭が混乱していた。

 自分にも母と同じ危険な力が宿っているなんて信じられないし、ましてや、母が呪禁によって亡くなったなど、受け入れられるわけがない。

 ……母様の死の原因が、呪禁……? 呪禁師だったから、死んでしまったということ?

 喉の奥から吐き出してしまいそうになる何かを抑えるために小春は両手で口元を押さえた。

 全身にめぐっていくのはかんにも似たもので、いつの間にかとりはだが立っている。小春の身体全てが、母が呪禁師だった事実と死の真実を受け入れることをきよしていた。

 ……母様は、医師だった。やさしくて、立派で、憧れの医師──。

 だが、それがいつわりだったならば、自分が信じて目指していたものは一体、何だったのだろうか。大きかった背中は最初から存在していなかったというのか。そう思ってしまえば、今まで抱き続けてきた強いおもいが大きくらぐ。

 がらがらと何かがくずれ去っていく音が頭の中でひびき、優しいみを浮かべている母の姿が、ぼやけていく気がした。

「……だいじようだ。つうにしていれば、呪禁を使うこともかかわることもない」

 目の前からづかうような雪路の声が降り注いだが、小春はすぐに顔を上げることは出来なかった。きっと、今の自分の顔は青ざめてしまっているだろう。

 くらやみの中でもがくように呼吸をしてから、小春がゆっくりと視線を向けると雪路は痛ましいものを見るような瞳でこちらを見ていた。そんな彼女に小春はかろうじてうなずき返したが、それでも心の中は思考の整理をすることさえ難しいほどに乱れていた。

「……小春。お前が医師になりたいと思ったきっかけはどうであれ、今の道を選んだのはお前の意思だ。……その気持ちを大事にしなさい」

 雪路は知っている。小春が母に憧れて、医師を目指していたことを。小春と母がわした約束のことを。だからこそ、その言葉を告げるのだろう。

「……はい」

 雪路にそう答えつつも、小春の心は今までのように強固なものにはなれなかった。

 母のような医師になりたいとそれだけを望んでいた。だからこそ、父に見つかる危険を承知で、典薬寮までやってきたというのに。

 ……私は、これから──どうすれば良いのだろう……。

 目標だった存在を失った今、何を目指して、どこに向かえばいいのか、分からなかった。

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