深夜ラジオ ~B面~
プラナリア
♪♪♪
♪ラジオネームかざはなさん(13)のお便りです。「隣の席のT君はクールな学級委員です。その彼が珍しく授業中居眠り。案外可愛い寝顔を見ていたら、突然『きなこ……』と呟いてました! 何、その寝言? 夢で和菓子でも食べてたの? 目覚めた彼が何事も無かったようにノート書き始めたのが可笑しくて、笑いを堪えるのに必死でした」……T君、可愛い! ぜひ、T君に何の夢だったか聞いてみて下さいね~♪
「……本当かよ」
思わず呟いた。Tはつまり、俺の苗字である椿なのだろう。机に突っ伏し、さっきのラジオを反芻する。
かざはな。風花。……相沢風花。
ナオーン。声がして、足元に柔らかな温もりを感じた。クリーム色の背中。喉元を撫でてやると、愛猫は嬉しそうに瞳を細めた。
「きなこの、おかげだな」
金曜深夜。相沢はどんな想いでラジオを聞いただろう。隣の席になっても距離が縮まらない彼女との、初めての接点。見えない糸で繋がったようで、一人、ふふと笑った。
「ラジオに俺のこと投稿しただろ」
月曜日。意を決して声をかけると、相沢はみるみる顔を強張らせた。しまった。もともと仏頂面な俺は、緊張でいつも以上に凄んでいるらしい。
「ご……ごめん!」
本気で謝罪する相沢に、焦りが加速。気持ちと裏腹に冷たい声が出る。
「これ以上、他の奴に言うなよ」
自分に溜息をつく。こんな筈じゃなかったのに。
「え、言ってないよ!居眠りしてたとか皆に言うの悪いなと思って、ラジオに投稿したんだよ」
「……投稿は拡散だろ」
「言えないけど言いたいから、ラジオに言ったんだよ。まさか、身近であの番組聞いてる人がいると思わなくて。ごめん」
言えないけど、言いたかった。既視感を覚えた。
相沢はもう一度頭を下げて、ポニーテールがぴょこんと揺れた。そのままちらりと俺を見上げ、悪戯っぽく笑う。
「何で『きなこ』?」
「うちの飼い猫」
「じゃ、猫の夢見てたの?」
「覚えてないけど、たぶん」
いつもの屈託の無い笑顔が返ってきた。ホッとする。
「ラジオ、いつも聞いてるの?」
「勉強の合間に。テレビよりラジオの方が邪魔にならない」
「分かる。無音よりBGMある方がいいよね。あの番組、私たまに投稿してるんだ。椿君、投稿したことある?」
「……一度だけ」
途端、相沢の瞳が輝いた。
「ほんと!? ラジオネームは?」
「随分前だから、きっと分からない」
「いいから教えてよ」
「……camellia」
「は? カメ?」
「椿。名字の英訳」
「なんだ」
「相沢のラジオネームだって下の名前そのままだろ。
相沢は不意に黙った。怒らせたかと焦ったら、次の瞬間叫んだ。
「camelliaって、『天使の
何故。俺は口元を押さえた。自分でも、真っ赤になっていくのが分かった。
それから、相沢が話しかけてくるようになった。
数学が苦手なこと。お気に入りのケーキ屋。陸上部で自己ベストを更新した快挙。
想像するしか無かった彼女の、一つ一つのピースが嵌まっていく。
金曜深夜。俺はラジオのダイヤルを回す。馴染みのラジオパーソナリティの声。
ラジオは不思議だ。音だけだから余計に、想像した場面が鮮やかに刻まれる。見知らぬ人の投稿を、身近なことのように感じる。夜の中で、みんな繋がっているような気がするのだ。
彼女の秘密の名前が呼ばれて、どきんとした。リクエスト曲は、初めて聞くナンバー。いつも笑顔の彼女はポップな曲を好みそうなのに、意外にもバラードだった。透き通るような声が、片恋の切なさを歌う。
♪君は気付かないけど 世界は時々輝くんだ 見上げた教室の窓 小さな君を見つけた時なんかに♪
彼女の声が重なる。俺に向けて歌うように。
♪夜に焦がれ君を想う 辿るは夢の恋路 どうか微笑んで 声を聴かせて♪
思わず呻いて机に突っ伏す。
深い意味など無いのだろう。好きな曲だからリクエストしただけ。
俺がどんな想いで同じラジオを聞いているか、相沢は知らない。
**
1学期の初めだった。先生に頼まれ、休み時間にプリントを配っていた。
「あっ……」
刷ったばかりの紙の端で、右手中指を切った。一瞬白くなった指先に、赤い血が膨らむ。
「大丈夫?」
カットバンを差し出したのが、相沢だった。左手でうまく剥がせない俺に笑って、代わりに巻いてくれた。
「用意いいな」
「商店街で配ってたから貰っちゃった」
「オバサンみたいだな」
「ひどっ」
他愛ないやりとりの間、彼女は丁寧にカットバンを巻き、俺はその手の温もりを感じていた。「ごめん、ちょっと歪んだ」と笑った彼女にお礼を言って、立ち上がったら世界が変わっていた。
振り返った時、もう相沢は別の誰かと笑っていたけれど。
教室の中で彼女にだけ、あたたかな光が零れていた。
夜、カットバンを剥がす時に小さな痛みを感じた。
指先ではなくて、胸の奥で。
それだけ。たったそれだけだ。
相沢はもう、忘れているだろう。
知らず相沢を目が追った。光は消えなかった。自分一人のものだった筈の世界に、相沢が入り込んでいた。心許なくて、どうしようもなくて、見上げた空に息を呑んだ。
きらきらと、真っ白な光が天から零れていた。雲の動きに合わせて、ベールは儚く揺れた。誰かの優しい眼差しを感じた。俺の世界は変わってしまった。けれど、そこはうつくしい光に満ちていた。
「おぉい、椿」
前を行く友達の声。想いは言葉にならず、俺はそのまま歩き出した。揺らめく光が離れず、調べてその空の名前を知った。
初めてラジオに投稿した。音の波の中に、手紙を入れた小瓶を投げ込むような気持だった。きっと届かない。それでも、伝えずにはいられなかった。
♪「学校の帰り道で、見上げた空が忘れられません。雲の間から零れ射す光が、静かに地上を照らしていました。雲が風に流れて、光はベールみたいに揺れました。今この瞬間、天と地上は清らかな光で繋がっているのだと思いました。立ち止まっていたら、友達から呼び掛けられました。この想いを伝えたくて、でもどう言えばいいか分からなくて、結局何も言えませんでした。帰宅後、調べて『天使の梯子』と呼ばれる空だと知りました。揺らめく光が離れなくて、やっぱり誰かに伝えたくて、初めて投稿しました」♪
「椿君だったんだ……」
相沢は呟いた。知っていた。俺の秘密の名前を。届くはずの無い手紙を。
「なんで覚えてるんだよ……」
「だって」
知らぬ間に彼女に告白したような心境だった。俺は恥ずかしさに呻いた。
「忘れてくれ。頼む」
「嫌だ」
強い口調に驚く。顔を上げると、相沢はまっすぐ俺を見ていた。
「忘れられないよ」
そんな筈は無いのに、想いが届いたような気がした。泣きたいのか笑いたいのか、どんな顔をしたらいいか分からない俺の横で、相沢は晴れやかに笑った。
**
月曜日。俺は早速相沢に尋ねた。
「リクエスト曲、初めて聞いた」
「マイナーだよね。でも、好きなんだ。歌声がすごく綺麗。皆知らないから、友達とカラオケ行っても歌いにくいんだけど」
嬉々として語る相沢に、余計な含みは無かった。翻弄されるは俺ばかり。
「……いい曲だな」
俺の言葉に、相沢は花開くように笑った。なんだかそれだけで、いいような気がした。
「椿君、カラオケとか行く?」
「誘われれば行くけど、あんまり。歌うの下手だし」
「あ、下手なの分かる」
「あのな」
「いや、何というか……マイクしっかり握って一生懸命歌ってそうだなって。聞いてみたい」
聞きたいって……誘ってるみたいに聞こえるぞ?
カラオケ、個室、二人きり。暴走する本能を理性で止め、平静を装う。
何も知らずに相沢は、いつもみたいに笑っている。
月明かりの中で、切ない旋律が響く。
レスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア第三組曲」。
相沢に好きな曲を聞かれ、誤魔化せなくて答えた。クラシックなんて敬遠されるかと思ったけれど、相沢は「貸してよ」と言った。自分自身を手渡すような想いで、CDを差し出した。
翌日、相沢は「本当に綺麗だった」と呟いた。一瞬見せた切ない横顔。今まで見たことのない彼女に、胸を衝かれた。
アリアに彼女の面影が宿る。
「また何か貸して」と相沢が言ったので、それに乗じて俺も言った。
「あのリクエスト曲、貸して」
頷いた相沢は嬉しそうに見えたけれど、俺の願いが見せた錯覚だろうか。
楽章は湖面を滑る小舟のように、静かに進む。揺らめく水面、煌めく月光。二度と還らぬ時間。
俺は密会をしているような気持でダイヤルを回す。
夜の中で君を想う。いつもみたいに頬杖をついて、微笑んでいるだろうか。想像する度、見えない君が深く刻まれていく。
その日、俺は夢見が悪かった。
目覚めると布団にきなこが潜りこんでいて、俺の右手は柔らかな腹毛に埋もれていた。
「……お前のせいだぞ、あんな夢」
胸の中の相沢に気付かれぬよう、夢の破片に蓋をした。
教室で、相沢と目が合わせられなかった。勿論、相沢はそんな俺に気付かない。
「お前さぁ、最近、相沢とやたら仲良くね?」
放課後の教室で、声をかけられた。
「隣なんだから話くらいするだろ」
動揺する自分を戒める。相沢は誰とでも仲がいい。不自然ではないと思ったが、たむろしていた男共に捕まってしまった。
「今まで女子と殆ど話さなかったじゃん。なんか楽しそうじゃん」
「何が言いたいんだよ」
「お前ら、付き合ってるの?」
「そんな訳ないだろ!」
「あれ、なんかムキになってない?」
暴走しかける本能。静かな湖面を思い浮かべる。理性を総動員する俺に、陸上部の高野が追い討ちをかけた。
「椿もやっと目覚めたか~。でも、なんで相沢? 相沢はいい奴だけどさぁ。あいつ、胸が月面じゃん」
「月面?」
「クレーター。ペチャパイ通り越して、エグレてるレベル」
相沢の胸。単語の破壊力で、湖面は沸騰し小舟は転覆した。
今朝の夢の破片が疼く。俺は必死で蓋をする。
「……お前らな」
「冗談だって。貧乳が好みなんだろ」
「だから何でも無いって。何もやってないよ」
「やってる? え、やっちゃったの!? どこまでやったんだよ、相沢と!」
夢が甦る。
相沢のポニーテール。戒めを解くと、黒髪は生き物のようにふわりと広がった。目の前の相沢は、とてもやさしい瞳をしていた。俺は魅入られるように、艶やかな髪を撫でた。そのまま、手を滑らせる。初めて触れた頬の温もり。相沢はそっと瞳を閉じた。
俺の邪心に怯えるように、胸の中の相沢が瞳を見開く。
「いい加減にしろよ」
自身に言い放つ。違うんだ。俺は。
「相沢のことは何とも思ってない。二度と下らないこと言うな」
君に触れることはできない。
壊してしまいそうだから。
「ちょっと、椿君? ……マジギレ?」
「帰る」
「椿?」
逃げるように教室を出た瞬間、走り去る足音がした。揺れるポニーテール。思わず息を呑む。
見えない相沢の顔が、嫌悪に歪むのが見えた。身体中の血が凍りつく。俺はただ、立ち尽くした。
翌日。夜通し言い訳を考えていた俺の前に、相沢はいつも通り現れた。
「おはよ!」
満面の笑顔。
何も無かったみたいに。
拒絶するみたいに。
挨拶を返そうとして、けれどうまく声が出なくて、俺は彼女から目を逸らす。
「……おはよう」
相沢はそのまま席に着く。会話のきっかけを見つけられない。焦る俺を置き去りにして、日常は流れ去る。最初から何も無かったみたいに。
突然現れたトンネル。プツンとラジオは途切れた。出口は見つからなくて、俺は暗闇の中に取り残される。
金曜深夜。迷った末、ラジオのダイヤルを回した。
相沢とは、話さないままだ。
ラジオパーソナリティの明るい声は、虚ろに響いた。もう元に戻れないと思い知る。繋がったと思ったのに。暗闇の中で、光は見えない。糸は途切れてしまった。
やっぱり消そうと手を伸ばした時。
♪今日のテーマは「あなたに伝えたいこと」です♪
俺の手が止まる。ラジオが丸い瞳で俺を見上げる。
♪言えなかった言葉。普段は口に出せない気持ち。皆さんの想いを、伝えてみませんか? お便り、お待ちしています♪
伝えたいこと。
コップから水が溢れるみたいに、想いが零れた。
相沢が浮かんだ。あたたかな光の中で笑っていた。俺の世界を変えた。
今は彼女を見るのが辛かった。何も無い振りで誤魔化す日々。
この先、君を想う度に胸が疼くのだろうか。後悔しか残らないのか。
花開くような笑顔。切ない横顔。君を想った幾つもの夜。
まだ、何も伝えていないのに。
全部蓋をして、無かったことにしてしまうのか。
衝動的に、スマートフォンを手にした。コール8回で出た高野に叫ぶ。
「同じ部活なら相沢の連絡先知ってるだろ。教えろ」
どう思われるかとか、もうどうでも良かった。今しかないと思った。
そのままの勢いで数字を押し、最後の通話ボタンで指が止まる。
嫌悪に歪む相沢の顔。
「くそっ……」
ラジオに祈った。頼む。俺の背中を押してくれ。
♪ラジオネームcamelliaさん(13)からのお便りです♪
♪「ずっと、ある人に伝えたいことがあります。どうしていいか分からなくて、どう言えばいいか分からなくて、ずっと考えていて、今も分からないままで。でも、このままじゃ嫌だということだけ、分かっています。もし投稿が読まれたら、神様がそうしろって言ってるんだと思って、その人に電話しようと思います。……勝手にごめん、連絡先聞き出した。相沢に、どうしても伝えたいことがあるんだ」……はい、読ませて頂きましたよ。相沢さん、聞いてくれてるかな? camelliaさん、私も応援してるよ。ラジオが、二人の中継点になれたらいいな。最後はリクエストのこの曲で、お別れしましょう。想いが、伝わりますように♪
「……本当かよ」
滲んだ視界で、ラジオが微笑む。透明な歌声が響きだす。いつかの相沢のリクエスト曲。
♪夜の中で君を想う 星の光が心に沁みて 月は君の面影を宿す♪
相沢は同じ夜の中にいるだろうか。再び、糸は繋がるだろうか。
光る液晶画面の時刻を見つめる。この曲が終わったら。
5分後。君に、届くだろうか。
♪この恋が終わったとして 遠い未来で君を想い微笑むよ 君を好きになってよかった 私の世界は変わったから♪
受けとめてもらえなかったとしても。
君を好きになってよかった。この世界のうつくしさを知った。
伝えたいんだ。
この世界に君がいてくれて、よかった。
名も無き星の光が沁みる。この煌めきを、きっと忘れない。
ラジオの魔法が解ける前に。終奏の中で君に向けた祈りは、コール5回で繋がった。
「相沢?……俺」
うん。聴こえた君の声は、生れたてみたいに素直だった。今までで一番近くに感じる。最初で最後かもしれない。細胞に刻むみたいに、君の気配を抱きしめる。
なぁ、相沢。一度だけ、俺自身を解放してやろうと思うんだ。
見つめたくて、聴きたくて、触れたくて。
君への想いを、溢れるままに。
「俺、本当は、相沢のこと……」
見上げた月は、あたたかな光に満ちていた。花開くような君の微笑が宿る。
今、心から。
君を好きになって、よかった。
<終>
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