マイトレーヤの顕現

川口健伍

1

 なんにでもなれる、と聞いて男はまだやったことのない役柄があっただろうかと考え、数多ある選択肢から地蔵に決めた。ここは誰もがなんにでもなれるとそう謳われる街だった。


 いままでずっと人に見られていたので、今日からは逆の立場になれることを、男は喜んだ。


 街の、十字路の片隅で人の往来を眺めていると、誰にも見向きもされない事実に打ち震えた。これは、おもしろい。


 それでもなかには足をとめ、こんなところにお地蔵様が、と気がつく信心深い衆生がいないわけでもなかったが、男に近づくとそれがいけず石の大きなものであることに気がついて離れていくのだった。その時、衆生の浮かべる落胆と羞恥が同居した顔を眺めるのが男はたいへん好きだった。


 男が地蔵になったという噂を聞きつけて、かつての信者ファンがやってきた。


 男の目前に、往来のまんなかに座り込んで、男を一心に拝んでいる。しかし拝んでいるのが地蔵なのか男なのか、信者ファンには区別がついているのだろうか。


 そもそも区別が必要なのか、男にはわからなかった。ここにいるのは地蔵であり男だ。働いていた頃と変わりはない。男はどちらでも構わなかった。


 数百年の歳月が流れた。


 訪れる人がなくなり、人通りすらなくなって、街が滅んでも男は変わらず鎮座していた。


 動くものがなくなった世界でも、男は退屈しなかった。元来、自分にも他人にも興味がなく、乞われるままに空っぽの自分に役を流し込んで人前で演じて見せていただけだ。監督や演出家の意図を汲み取り、望む演技を行った。それだけでも、いや――、それゆえに男は重宝され、評価された。


 己の中に伝えるものがないからこそ、男はなんにでも、誰にでもなれた。


 だから、男が地蔵になるのは、地蔵であり続けることはさして難しいことではなかった。


 まぶたを閉じて目を開けると、五十五億年が経って寿命の尽きる太陽が肥大化し、炎熱が地表を焼けつくした。


 地球はすでに生物の住む星ではなかったが、男は地蔵だったので、そのまま発火し燃え続けた。

 赤色巨星となった太陽はガスを放出し続け、ついにはきらめく惑星状星雲となった。


 男は絶対真空のただなかで、ひとつの小天体だった。太陽系の重力圏はずたずたに引き裂かされて以前の面影はなく、天の川銀河とアンドロメダ星雲は衝突し融合していた。星々の見え方は大きく様変わりしていた。


 男はすでに思考も意識も手放してはいたが、それでもまだ男であり、地蔵であった。この宇宙には祈る者も救う相手もいなかったが男は地蔵であり続けた。


 不意に虚空に裂け目が生まれ、閃光が走った。


 裂け目からは音楽が溢れ出し、ついで半跏思惟の弥勒マイトレーヤが現世に顕現した。


 男は自分の役割が終わったことを悟った。


 ときに釈迦の入滅より五十六億七千万年の日のことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マイトレーヤの顕現 川口健伍 @KA3UKA

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ