終章
長い冬が終わり、春が微笑んでいる。小川は雪解け水で満ちあふれ、村はずれに
その早春の安息日に、村人らはみな長老の家に集っていた。来客が訪れたのだ。
村人らは皆、居間の床に座ったまま黙っている。人形を胸に抱いた幼子から、深いしわに慧眼を隠した老人まで、みな呆けた表情で、宙を見つめていた。
部屋の暖炉の火が、音を立てて
その音にはっと
「それで……魔物は助かったのか」
長い話を語り終えたばかりの青年に、長老が尋ねる。
村人らの視線が、いっせいに青年へと集まった。皆の興味は、青年の答えに他ならない。彼が語った、
「……魔物は、死から逃れた」
青年の低い声が響くと、そこかしこから安堵の溜め息が漏れた。
「使徒の種子が宿る少女の右腕を食べた魔物は、命の危機を乗り越えた。……話はそこで終わりじゃない。魔物は少女の腕を食べてから、不思議なことに、あれだけ苦しめられた飢えが癒えていくのを感じたそうだ」
「……人を食べずに、生きていけるようになったの?」
おそるおそる口を開いたそばかす顔の娘に、青年はゆっくりとうなずいた。窓硝子から差しこむ日差しが、青年の黒髪を淡い光で照らす。
「使徒から種子を授けられた者、それが
「……だとしたら、
そばかす顔の娘が、吐息を漏らすようにつぶやいた。娘の表情は明るかったが、村人たちの大半は顔を見合わせ、戸惑いの表情をあらわにしている。
それも当然だった。復讐は醜いと言って、
語り手である青年は、幼子の前で
「──それは、本当にあった話なのか?」
長老が青年に詰め寄った。
青年は立ち上がり、借りていた膝掛けをていねいにたたんで預ける。
「これまでの話を聞いて分かると思うが、俺は語り手としては、あまりに不器用だ。作り話を語れるほどの腕はない。信じるかどうかはお前たち次第だが、真実だと受けとめてもらえたなら、嬉しく思う」
青年の瞳が、やわらかく細められる。
「信じるわ」
そばかす顔の少女が、無邪気に答えた。大人たちは戸惑い視線を泳がせたが、やがて何人かは静かにうなずいた。
娯楽のない村を訪れた語り手には、すでに前金として十分な報酬が払われていたが、村人の数人は青年に近づいて、追加で硬貨を手渡した。話に満足したという証だ。
「……少女はどうなったんだ?」
銅貨を数枚青年の手に乗せながら、長老が尋ねる。
青年がそっと唇を持ち上げるのを見て、長老は口を
語りを終えた青年は、村人らに礼を言い、居間の扉に手をかける。
「──魔物は」
長老が再び口を開く。
「魔物は、飢餓の呪いだけが解けたのではないのだな? 陽の光も恐れる必要がなくなった。そうだろう?」
背に投げられた問いに、青年は振り返った。
彼は微笑んでうなずく。
陽の光を浴びて、真紅の瞳を明るく透かしながら、はにかむような表情で。
〇
「嘆いても、
青年の隣を歩く女性──はじめて会った時は、その黒髪をふたつ括りにしていた少女だったが、今は淑女らしく髪をひとつに結い上げている──が、まなざしを前方へと向けたまま、ひとりごちるようにつぶやいた。
「あの子たちは、憎んでいた魔物の話を聞いて、今は混乱してとても苦しいでしょう。それでもあなたの話は、これからあの子たちが考えていくべき問題の確信を突いている。あなたはいつも強い気持ちをぶつけられて、つらい思いをするでしょうけど……」
村から村へと渡り、語り手として旅を続けていた青年が最後に立ち寄ったのは、フォルモンド王国に帰属する、
「……俺はただ思い出を語るだけだが、それが魔物に傷つけられた者の心を
青年が淑女に微笑むと、彼女は端正な眉をそびやかして、ぴたりと足を止めた。
「そういう文句は、ただ一人にだけ
はねのけるような声音で言い切って、淑女は長いスカートを蹴って、また歩きはじめる。青年は思わず苦笑して、彼女のあとを追いかけた。
「そうだな。気をつけよう」
「そうしなさい。……それと」
淑女が庭長室の前に立ち、扉を軽く叩く。なかから応答の声が返ってきた。彼女は扉を押しあけながら、軋む音にまぎれさせるように、言葉を紡ぐ。
「……あなたはあの子たちを
青年は思わず淑女の顔を見た。けれど彼女は聡明な青い瞳を、まっすぐに部屋の主に向けていた。
彼女が庭長の名を呼ぶ。部屋の最奥にしつらえられた執務机、その前に置かれた椅子にもたれる庭長は、温和な笑みを彼女に返す。年若い庭長は見目に反して、箱庭の結界を維持するだけのちからを持つことを、青年は知っている。
「おつかれさま」
庭長が、ねぎらいの言葉を青年にかけた。青年は黙って頭を下げる。
「もう夕刻だ、今夜こそ泊まっていくだろう? 積もる話もあるし」
「……いえ、俺と顔を合わせたくない子もいるでしょうから」
「相変わらずつれないなぁ。そんなの別室を用意するとか、どうとでもなるのに」
「あまりお引止めしては、ご迷惑かと」
淑女がやんわりと庭長を
柔和な庭長と、彼の補佐をする利発な淑女。一見ちぐはぐな二人だが、しかしその実うまく噛みあい、この箱庭を守り、
「分かったよ。でもまた近いうちに来てくれ。
青年はうなずいた。
たとえ人と魔物が分かりあえた例があったとしても、魔物は人を傷つけて、
庭長への挨拶を終えた青年は、
窓の外には、緑の庭が広がっていた。季節を問わず白い花がこぼれるように咲く、不思議な庭園が。
「どうかして?」
淑女に呼びかけられて、青年は我に返る。彼は庭を指差して、淑女と庭長に尋ねた。
「──あれを貰っていいだろうか」
〇
禁忌の森にも春はくる。朝晩の寒暖差によって霧は濃くなり、寒さがやわらいで、霧の粒子がやわらかな質感となる。
あたたかな空気に目覚めの時を知った植物が、硬質な無彩色の花を咲かせる。冬眠していた動物たちが目覚め、彼らの鳴き声で、森は雪の季節よりもにぎやかになる。
季節も年月も感じさせない、森の大半を構成する糸杉の群れも、よくよく見ると、やわらかな新芽を伸ばし始めていた。
青年は森を渡る。彼にとってこの森は、慣れ親しんだ故郷でもあり、愛する人と時を過ごした、思い出の場所でもあった。
むかし彼女がしてきたように、青年は日が高いうちは歩き、日が暮れてからは火を焚き、睡眠をとった。そうしていると、永劫の時間を持つこの森を通して、遠い日の彼女がすぐ側にいるような気がした。
数日かけて、森を抜ける。清水が流れる川を渡り、草むらに分け入り、ゆるやかな起伏のある丘を歩く。道の途中で、今はもう無人となった教会が見えた。白亜の壁はひび割れて
教会を横目に、青年は丘を下る。
やがて、草が生い茂る荒れ地のなかにぽつりと建った、小さな家の屋根が見えた。
草原が風になぶられ、波のようにうねって葉擦れの音を奏でる。その風に背を押されて、青年は草原のなかを行く。
雲の隙間から陽光がこぼれ、草原が淡く輝いた。光の草原を進む青年に併走するように、空から白い小鳥が舞い降りて、くるりと旋回し、
小鳥の喉から愛らしい鳴き声が漏れた。青年は隣で遊ぶ小鳥を見て微笑む。
小鳥は青年にじゃれるように舞い、無軌道な飛翔を楽しんだのちに、彼が目指す家の屋根にとまった。しばらくして青年も、家の前へと辿り着く。彼は息を整えて、身なりを正し、質素な木製扉を軽く叩いた。
しばらくして、家のなかから軽い足音がして、玄関扉がそっと開かれる。
扉の向こうに、女が立っていた。
白金の長い髪をさらさらと風になびかせて、白い頬を薔薇色に上気させて。
大きな琥珀の瞳が、彼のすがたを捉える。大人になった彼女は、少女のころと同じように、目を細めて微笑んだ。
「おかえりなさい、ラウ」
腕を広げた女が、青年の身体に飛び込む。青年もまた、彼女を受け止めて抱きしめる。右の袖が遊んでいる、不均等な女の身体を守るように。
「ただいま」
青年はそう応えて、ずっと手に持っていたものを彼女の前に差し出す。
箱庭で貰った蕾は、数日の旅のあいだですっかり開いていた。
その花を目の前にして、女はすこし驚いたように目を見開き──はにかむように声を立てて笑った。遠い昔に、彼女を踊りへ誘った時に手渡したものと同じ花。女と同じ名を持つ花に、彼女の細い指が伸ばされる。
「ただいま、リィリエ」
長い旅のあいだ、ずっと会いたかった笑顔が、いま目の前で咲いている。
彼はもう一度、百合の花ごと彼女を抱きしめた。
二羽はやがて、草原の上を渡っていった。荒れ地を越えて、禁忌の森を越えて、フォルモンド王国の首都サリカを見下ろして、まだ雪化粧の残る山脈のあいだを、悠々と飛んでいく。
国境を越え、見果てぬ地へ。
まっすぐに羽を広げて、どこまでも。
了
サルタリスの小鳥たち オノイチカ @onoichica
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