第43話 救いの御手
その言葉を最後に、リィリエはハイネに向かって駆けた。
彼の懐に飛び込み、
ラウレンツは高く跳躍してそれを
その隙にリィリエはハイネの武器の一つ、矛の柄を足場にして跳躍し、
金属音の余韻が響くなか、ハイネとリィリエは後方へと飛び
「……私に刃を向けるのですか? あなたの命を取り戻したのは私なのに。あなたと同じ時を生き、
「誰かと同じということが、そんなに大切だとは思えません。わたしは、わたしと違うラウが大好きです。それに、わたしの孤独はわたしだけのものです。ハイネ神父さまの孤独も、ハイネ神父さまだけのもの。──わたしはドロテアにはなれません」
「……やっと会えたのに?」
靴音が響く。ハイネがリィリエのもとに歩み寄る。
「三百年待って、やっとあなたが目を開けて、動き、喋り、微笑むすがたを見られたのに……私を拒絶するのですか? ドロテア」
ハイネの口調から穏やかさが剥がれ落ちていく。
「わたしはリィリエです。たとえ器が、ドロテアという少女のものであっても。わたしはわたしの家族を、村のみんなを殺したあなたを赦せない……!」
リィリエは飛翔し、ハイネに向かって
高い金属音が響く。彼女の拒絶の斬撃を受け止めた、ハイネの顔が歪む。嵐の前に吹く風にも似た、不穏で荒い呼吸が、彼の唇から漏れる。心の乱れにともなって、ハイネの武器の硬度が
リィリエはハイネの武器を振り払い、
交差した武器の音、その余韻が天へ抜けきり、堂内が静まり返る。
神父に刃が届く間際、リィリエは武器を止めた。
──赦せないはずなのに、どうしても
家族や村の人たちを皆殺しにしたハイネ。けれどドロテアという少女を愛し、幼いころからずっとリィリエに、やさしく神の教えを
「……お願いです」
リィリエの唇が、かすれた声を生んだ。
「もう、魔物も、誰も、殺さないで。わたしのことは……忘れて」
涙をこぼす彼女を見て、ハイネの薄紅色の目が透き通った。
白いまつ毛がこまやかに震える。
「……できない」
今までとは異なる無垢な声音が、ハイネの口からこぼれた。
彼はリィリエに手をさしのべる。
思わず身を引こうとしたリィリエの頬に手を添え、彼はそのまま彼女を引き寄せる。
「忘れるなんて、できるわけない。やっと会えたんだ、もう二度と離さない。ドロテア、ぼくたちはずっと一緒だ。今度こそ、ぼくと一緒に遠くへ逃げよう。魔物も、人も、誰の手も届かないところまで」
ハイネが、
リィリエは悲鳴を上げた。ハイネから逃れようと身を
ハイネの
ハイネの武器が近づくさまが、引き絞られた彼女の虹彩に、ゆっくりとした速度で映った。
リィリエの目の前で鮮血が咲いた。
ハイネの手が離れていく。彼の身体がリィリエから遠ざかる。心臓から
彼の腕を引いたのは、ラウレンツだった。
「……お前も愛していたんだな」
ハイネをリィリエから引きはがしたラウレンツがつぶやく。
「それでも、リィリエは渡せない」
ハイネが床に這いつくばる。たちまち彼を中心として、赤い血だまりが広がっていく。ハイネは頭を持ち上げてラウレンツを見た。彼の唇が震える。
「──彼女を返して」
鈍い音がして、リィリエの前に立つラウレンツの大きな体が震えた。彼の足もとに赤い雫が落ちて、石造りの床が濡れていく。
「ラウ……?」
リィリエが小さな囁きを落とすと同時に、ラウンツの身体が
視界を遮るものがなくなったリィリエの目に映ったのは──ハイネの
リィリエは、言葉にならない微かな声を漏らした。
耳に音が届いて、現実だと思い知らされる。
リィリエは悲鳴を上げた。自身の声を呼び水として、喉を枯らして、絶叫する。
三日月の輝きが閃く。リィリエの右腕、
ハイネは驚愕の表情を浮かべ、澄んだ目をリィリエに向けた。
「ドロテア……」
ハイネが伸ばした血まみれの手は、リィリエには届かなかった。
神父の瞳から、光が消える。
〇
ラウレンツの傷口を押さえた白い手の隙間から、次々と血がこぼれていく。
リィリエはかぶりをふって涙を払い、聖具である外套の端を噛んで、繊維を引き裂いた。裂いた布で、ラウレンツの傷を縛って止血をする。白い布がたちまち赤く染まっていく。
腰帯に下がる鞄から針と糸を取り出し、糸を通した針を、彼の患部に突き立てる。ラウレンツのねじれた雄叫びが堂内に響き渡り、建物を震わせた。
「ラウ、ラウ……。大丈夫、傷は浅いわ。きっと助かるから」
彼のごわついた毛を撫で、リィリエは傷を縫合していく。ラウレンツの毛に覆われた大きな手を握り、苦痛に耐える彼を励ます。
ひゅうひゅうと笛の根に似た呼吸が、ラウレンツの
「……血を失いすぎた。俺は、もう……」
息も絶え絶えにつぶやいた言葉を聞いて、リィリエの表情が凍る。
「──死なないで」
……本当は知っている。傷を縫い合わせるために触れた時に……いや、抱きしめられるたびに感じていた。ラウレンツの身体が百年前と比べて、驚くほど痩せ細っていることに。
飢餓期に、人間の肉を口にしなかった代償だ。こんな体では、大量に失血した肉体を維持できない──
白い長衣を赤く染めたリィリエは、血の海のなかで静かに立ち上がった。
彼女はおもむろに長衣の右袖を裂き、白い腕を
「ラウ」
リィリエの右手が、ラウレンツの頬に添えられる。
血に汚れた毛並みを撫でて、彼の赤い瞳を覗き込む。
「……わたしをたべて」
ラウレンツは目を見開いた。
「リィリエ、何を……! 俺は食べない! 絶対に……!」
「ちがうの」
声をふりしぼったラウレンツにかぶりを振って、リィリエは彼に微笑みかける。
「わたしの右腕を、食べて」
ラウレンツが絶句した。
今は彼を撫でているリィリエの右手。使徒から与えられた種子で補われ、魔物を屠る武器、
「
静かながらも意志のこもった声を耳にして、ラウレンツが
リィリエはラウレンツを見つめる。
「お願い。わたしを、魔物狩りの
願いが天へと昇っていく。薔薇窓から光が滲み、リィリエの白金の髪が白く輝く。
彼女の琥珀の瞳が、光を受けて月のようにきらめいた。
「──生きよう、一緒に」
ラウレンツは身体を震わせながら、
言葉の代わりに、彼はリィリエの細い身体をかき抱く。
リィリエもラウレンツの身体を両腕に抱いて、
使徒の種子は宿り主の感情に呼応する。ラウレンツに恐れも憎しみも怒りも持たないリィリエは、武器を具現化せず、右腕を肉のままにしておける。
ラウレンツが牙の先をリィリエの腕にあてがった。
彼女はそっと、まつ毛を伏せる。
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