わたしたちはくうそうじょうのいきものです。

鯨ヶ岬勇士

わたしたちはくうそうじょうのいきものです。

「就活ってもう終わった? 」


 彼女は流行りのドラマの話題でも話すように問いかける。彼女は——院生とはいえ、学生の私からすれば先輩だ。無視というわけにもいかない。ゼミの空気を壊さないためにも、なんとかそれっぽい言葉を捻り出す。


「ええ、まあ、何とか」


 奥歯に何か挟まったような物言い——こんな言葉しか出せない自分が、自分でも嫌になる。しかし、そうとしか返せない。就職活動という経験は戦争体験に近いものがあり、後世のことを想って悲惨さを語ることはあれど、娯楽として楽しんで話すものではない。


 かくいう私も、その悲惨な戦いを経験した。セクシャル・ハラスメントやパワー・ハラスメント、アルコール・ハラスメントといった社会構造的な暴力を乗り越えて、戦奴として前線に立った。その後ろでは督戦隊が引き金に指をかけている。


 逃げ道はない——それもこれも、この奴隷市場を維持するためだ。私たち奴隷は、自らを虐げる者のために戦い、そして栄光と名誉を——恩着せがましく——感じるように迫られる。そして、幸福ですと叫けばされる。


 そのわずかばかりの抵抗が、歯切れの悪い回答だった。


 しかし、その真意も、散っていった仲間たちの悲痛な叫びも、どれ一つとして彼女の耳には届かない。


「そっかあ。私まだしてないんだよねえ。のんきーって感じ! 」


 もう遅い——喉元まで上がってきた言葉を無理やり飲み込む。熔けた鉛を飲み込むような、喉元を焼くそれは私の顔を歪めさせた。だが、彼女はそんなことに興味はない。


 彼女がこんな——就活戦線に立たされる者ならば、遅すぎる選択であることは火を見るより明らかである——時期まで、を取らなかったことは彼女の甘えが原因ではない。いや、まだ甘えの方がましだったかもしれない。


 前述の通り、彼女は院生——つまりは研究者の端くれなのだ。故に彼女は社会を知らない、人の痛みを知らない。


 これは過激な言葉かもしれないが、多くの学生が経験する事実だから仕方がない。教授だとか、そういった研究者の多くが社会の実情を知らない。そういった社会を知る学者や研究者は偉くなれず、ゼミといったものを持たずに非常勤講師や在野の研究者として生涯を終えることが多い。教授職になれるのは幸運なものか、もしくはコネクションがあったり、家に余裕のあるたちだけだ。

 

 そのため、多くの研究者——それも大学に残り続けるような貴族たちは、の気持ちを理解しようともせずに、無神経にも、就活はどうですかと話しかけてくるのだ。


 それも心配からではない。多くの教授たち——ベテランとされ、盤石な地位を築いているような、65歳を超えた人間にとって若者の不幸は最高の娯楽なのだ。私たちの不幸を聞き、得意げに自分の政治論を語る先人たち——そこで語られる政治論の中に、私たちはいない。どこにもいない。


 彼女は何人かの学生に同じ質問をすると、それから教授と政治論に花を咲かせていた。それは遠くはなれた国の大統領選挙の話。そこに私たちはいない。いつもそうだ。研究者が取り上げる議題の中に私たちはいない。


 彼らが救うべきとする人々の中にも、変わるべきだと糾弾される人々の中にも、どこにも私たちはいない。


 彼女が以前、LGBTを救うべきだと叫んでいた。それはもっともだ。私もそう思うし、そのための活動を支援する気持ちも持っている。


「普通の人は初対面で性の話なんてしないのに、LGBTだけは性の話をするなんておかしい」


 それは私と友人の馴れ初めを思い起こさせた。私と友人の出会いは性の話から始まった——それは「あの女を抱きたい」とか、「あの女の顔の点数はどうだ」といった暴力的なものではない。今でもはっきり覚えている。


「男のからレーザービームが出たら便利じゃないかな? きっと世界を救えると思う」


 友人は少し驚いた顔をして、変なことを言うなという表情で話した。


「尻の穴にブラックホールがあった方が便利だろ」


 それは最低の馬鹿話だが、誰も傷つけず、お互いの弱みをさらけ出しあって打ち解けあった最高の馬鹿話だった。だが、その性の話の存在は救うべき人々の中にも、糾弾される人々の中にも、それをまとめた論文の中にもいない。


 そもそも、彼女の描く世界のLGBTには性欲がなく、まるで童話の妖精かのように扱われている。彼女——いや、大学でジェンダー論を研究する多くの学生の論文を読むと、LGBTが架空の存在かのように思えてしまう。それもそのはず、彼らの中に心の底からその問題に向き合おうとしているものは少ない。


 真摯に向き合うものたちがいないわけではないが、彼らはそのような評価が高そうだとか、今の社会的風潮を鑑みてだとか、そのような理由で書かれた薄っぺらい論文に埋もれ、心を折られていく。

 

 それらを書いているものたち当人は向き合っているつもりなのだろうが、参考文献もろくに集めず、結論ありきで書かれたその論文の中では、人間は空想上の生き物だ。


 そんな論文を当事者の人々が読んでどう思うか聞いてみたいと思ったが、それも無駄だ。インタビューの一つすら載っていない、参考文献といえばインターネットの記事程度の学生の論文を読めば、誰でも理由はわかる。書いた人の中では当事者は遠く離れた異郷の存在——果てしなく空想上の生き物に近い存在なのだ。


 しかし、それらの評判は良く、大学の乱立と少子高齢化のよって学生の奪い合いの激しい昨今では、それは社会を斬ったものだと褒めそやされる。幼稚園の先生のように甘い教授たちからは高い評価を与えられ、評価だけが欲しい学生たちはその題材に飛びつく。


 そうして残るのは教授といった権力者にすり寄った論文——本気で社会的弱者を救おうとはしない、ポーズだけの偽善と欺瞞の悪書だ。


 それらに埋もれる中で、論文を書き、そして社会と必死に向き合って就活やハラスメントに耐える自分とは何者なのか。彼らの論文や、そこで語られる社会の中から抹消された私たちは誰なのか——


「——わたしたちはくうそうじょうのいきものです」


 その声が頭の中で何度も反芻された。しかし、声を上げる勇気はない。


 空想上の生き物に、社会を変える力はない。そう痛感させられる。


 私は声高らかに社会を語る研究者や学者を見るたびに思い出す。彼らの論文の中に私たちはいない。社会から削り取られた存在——私たち人間は学問において空想上の存在だ。誰にも救われず、いなかったことにされる存在だ。


「お前たちの論文は何も社会を変えない。お前たちの論文にはが登場しないからだ」


 胸の奥に、その爆弾を抱えながら私は今日もゼミに参加する。

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わたしたちはくうそうじょうのいきものです。 鯨ヶ岬勇士 @Beowulf_Gotaland

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