バス停のベンチで
真花
バス停のベンチで
しんとするもんだから俺の沈黙が浮き上がって他よりも濃く、バス停のベンチの七分の遠さで、近付く力と離れる力が拮抗してバランスを取った場所からお互いに、それ以上の接近はせず、もちろん手を伸ばしたりもせずに待っている。君もきっと同じだと思う。待っているのだけど、待ち望んではいない。いや、そう信じたい。君の沈黙だって同じ程の気配を持っている。まっさらさは白さではなくて、平らさであり、俺の把握出来る最大までを含めても、この場所を中心とした世界は音に於いてまっさらであり、それは音の可能性を秘しているからではなく、音にして伝えたいことを秘していることが、俺と君の静けさを異質たらしめている。
バス停のベンチには風も吹かない。秋の虫ももう鳴かない。俺と君だけが世界に干渉しうる、いや、干渉は始まっている。言葉にしないまま押し込められている感情が漏れて、二人の間の短い距離を侵食しようとしている。でもそれはまだ本人の息の下で機を伺っていて、相手の、こころが、他人の発したものを感知する範囲には全然届かなくて、でもそれは二人ともがそれぞれに自分の想いを積極的に隠して、気取られないように顔の筋肉の一つの動きまで統制しようとするあまりに地蔵になって、声を出せない。時間が累積すれば勇気が蓄積されたり、気持ち自体が膨れ上がったりして、何かの拍子も必要とせずに自分の決意で言葉に出来るのだろうか。考えてみても俺達には時間がない、バスは定刻を目指してやって来る。時間は限られていると言うのに、ただ静かで、まるで前にも後ろにも均一な金太郎飴のような永遠の、金太郎の表情が特に変化しない一片の中に閉じ込められたみたいに、じっと前を向いたまま。
俺にはすぐそこの君が全てで、正面に何があるのかは目に入っていなくて、だからここが漠然とした世界の中に唯一の固い、ベンチとバス停と君と俺。
ベンチの板が俺と君を橋渡すから、やっぱり、伝えたい。首だけを君の方に向ける、ぎこちない、歯車のような首の関節、君は正面を見ていた、だから、俺は行きとは比べ物にならない滑らかさで自分の前を向く。もう決して君の顔を見られないかも知れない。バスが来れば君は行く。ここで何もしなければ、きっともう会えない。それとも必要な出会いなら何度でも再会すると信じた方がいいのか、違う、あまりにも運命を信じ過ぎている。流れて来たものを受けるだけの人生で終わる選択をしたときにだけ、そう、考えるべきだ。俺は違うよ、いつだったか優しくも運命を受け入れることばかりに熱中してそれを押し付けて来た人がいた、誰だったか、俺は断った、そのことが原因でその人とは会わなくなった。運命論をゴリゴリと他人に推すこと自体が運命論的ではないし、その人のことは大切だったけど、生きることの根本に関わるところが噛み合わないなら、サヨナラは、永久のサヨナラは、それをしたからと言って俺の中のその人のために割いていたところがまっさらになることはないけれど、水に氷が溶けるように受け入れた。君とは同じようになるとは思えない。偶然やって来たものを享受するのもいいけど、自分で掴むことで必然にすることをしていたい、それは君とのことだ。手を伸ばせば触れることも出来る。でも俺の両手は縛られたみたいに体の側から動けない。本当は動けないのではない、こころを自分で押さえ込んでいるから、そのこころに体が従っている。
君が俺を見た、気配がした、視界のブレかも知れないけどほんの短い間だけ、君の公の意識が俺に向いた。そして戻った。同じ、俺と同じ。
同じだから、沈黙の濃度ばかりが強くなる。
纏った沈黙が少しずつ膨らんでゆく。俺のも、君のも。空間の縁にくるまれた、バス停とベンチの、ゼロの静けさに重なって、砂嵐のようなものを寄り目で見ると飛び出す絵のように、二つの沈黙が、寄り目でなければ見えないように密やかに在っている、認識出来ない程ゆっくりな膨張、待っていればそれらが交わると期待出来ないほどに遅い。音がない。バスはいずれ来る。音がない。俺たちは黙って座っている。
「もうすぐ、バスが来るね」
君が唐突に、滑らかな声を空間に放る、それが俺に向けての言葉とは分かるけど、もっと、この認識しうる世界の全部に言ったよう。音を忘れた世界に、くっきりと浮かび上がる君の声は、しかし、俺に届いた。君の言うバスは、終わりの使者だ。君はそれに乗る。それが俺たちの終わりなんだ。突き付けられた現実は場違いな程に無機質で、理性的に手術をして患部を切り取るみたいで、どうして君がそんなことを言うんだ? 残り時間が少ないことと、君がもしかしたらそのバスに乗ることを願っているかも知れないと言うことが、同時に、マーブルに胸を占拠する。何かを言わなくちゃ。すぐに言わなくちゃ。俺の気持ちを言わなくちゃ、でも、焦っているだけで言葉なんて出て来ない。これまでの沈黙がまだ俺の体中にへばりついていて、切り開くのに、マーブルを土台にして全霊の力が必要だ。貫こうとする声が、辛うじて体の外へ開通する。
「……来るんだね」
一切の想いを隠した音。でもそれは想いがない声とは明瞭な違いがある。その下に隠れているものが何かを断定出来なくても、何かがあることは容易に伝わるだろう。君がそれを拾い上げるときに俺の声に何を認めるのか、俺には決められない、たとえそこに沈んでいるものが確固たる想いであったとしても、隠しているなら、君に委ねるしかない。自分の想いの形を保ったままで渡すなら、言葉自体が孕む曖昧さからは逃れ得ないけど、伝えるならば言葉に、自分の言葉にしなくてはならない。実際と空想の理想には、言葉一つで隔てたその二つには、過去と未来くらいの落差がある。だからか、意気地が無いのか、気持ちが足りないのか、俺の最大がこの声だ。
君の言葉が俺に届いてから応じるのに掛かったのと同じだけの時間、君の言葉を待ったが、応答はない。君は俺と同じように何もない正面を見続けている。沈黙。まっさらな音の中にきりりと二つの沈黙。
光が右側から視界をかすめる、ヘッドライトだろう。
それでも俺たちは正面を向いて、エンジンの音が静けさの中に滑り込んで来る、模糊に始まったそれは扇状に強まっていき、いずれその角で静寂を切り裂いて、まるで唯一の物質が立ち現れるかのようにバスを俺たちの眼前に連れて来た。
ああ、来た。
ロコモーションを内包したまま、バスは、キッと進むことを休止して、運命で塗り上げられたドアを、何か大切なものが含まれていて一緒にそれが抜けてゆくような脱空音、煌々と眩しい車内には誰も居ない。運転手すら居ないような。
君は立ち上がって、バス停の立て看板のところまで歩いて、俺に小さく手を振る。俺も、手を振る。
君がバスに乗る。
俺も乗れば、いや、だとしても今まで言葉に出来なかったのだ、隣の席にすら座れない。でも、それでいいのか。俺は。俺は。
君は後ろの、一番後ろの席、バス停からよく見える左側の窓際に、正面を向いて座る。だから今は君の横顔が見える。さっきまでずっと見ようと思っても見られなかった君の横顔が見える。君は前を向いたまま。今は俺の前に君が居る、君はそのためにその席に座ったのか、君の想いも俺に向いているのか、鼓動が急き立てられるかのように早まる、さっきまで音なんかなかったのに、外に内にうるさい、拳を握り締める。
バスは俺が乗らないことを確認し終わったようにドアを閉める、進む。
最後になってやっぱりなんて惨めったらしいけど、でも。
俺は立ち上がる。何をしようとしたのか分からない、何も思い付いてもいなかったのか、それでも、叫ぶくらいはしようと、そしたら、君がこっちを向いた。目が合う。君は少し微笑んで、手を振った。俺の勢いの全てが吸い取られて、進むバスに合わせて俺を追う君の目に、俺は手を振って、想いが自分の顔に映った。君はもう少し笑って、バスに二人の視線が千切られるまで、それは刹那のことで。
俺は一人バス停のベンチの前。背後だけになったバスを、その中の君を、見送る。
(了)
バス停のベンチで 真花 @kawapsyc
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