番外編

雪の日

 年末晦日前から降り始めた雪は、正月三日になってようやく止んだ。

 それまでに積もっていた雪は根雪となって地表に貼り付いて固まり、新たに積もった雪の重みがそれをさらに押し固める。


 年始の五日ほどは閉めることになっている剣道場は、人の行き来がないだけ雪が積もり、秋生修之輔は毎朝の雪かきが日課になっていた。人が来ないとはいえ道場の正門はもちろんのこと、住居と往来に繋がる勝手口を結ぶ小道だけは雪を退けておく必要がある。

 今朝も雪かきはしたのだが、昼を過ぎてから日が差してきて、朝に割ることができなかった根雪が多少は緩んだようにも見えたので、午後もまた少し、雪を退かした。

 大晦日前からこっち、祭礼行事の手伝いに佐宮司神社に呼ばれはしたが、丸一日拘束されるようなこともなく、年が明けて師範夫妻の住居に年始の挨拶に行けばそれでもう今年の正月に修之輔のやることはなくなった。

 仕官しているわけではないので上役への挨拶もなければ、雪道をわざわざ下って道場に挨拶に来る者も例年いない。時折、山からの風に吹かれた小さな雪片が、白く光りながら辺りを舞う久しぶりの晴天に、午後の雪かきが捗った。どうせまた雪は降って積もるのだからと思いはしても、しばらく雪を運べば道場の正門前の地面が見えてきた。

 佐宮司神社の神主から、正月の間はこれを正門に張っておけ、と寄越された縄の張り具合や、そこから下がるいくつかの紙垂の様子を確かめていると、坂道の上から下りてくる人影があるのに気が付いた。一人はゆっくりと歩いているようだが、もう一人の人影は時折道端に積まれた雪の影に見え隠れしていて、どうやら凍った道に足を取られて何度も滑っているようだ。体の大きさにどうも思い当たる節があり、修之輔が道の真ん中にまで出て人影を確かめると、一人は柴田大膳、もう一人、雪道を転がりながら降りてくるのは本多弘紀だった。


 最後の下り坂、弘紀は修之輔の姿に気づいて自分の襟首を掴んでいる大膳の手を振り切って、ひと息に道場に向かって駆け出した。が、やはりすぐに滑ってよろけて道場の門の手前、道脇の雪が深いところに勢いそのまま、手に持った風呂敷包みごと突っ込んだ。

 弘紀の小柄な体を雪から掘り出してやると、雪まみれの弘紀は姿勢を正して頭を下げた。

「あけましておめでとうございます」


 追いついた大膳とも簡単な年始の挨拶を済ませ、どうやらここが目的地だったらしい二人を住居の座敷に通した。


 住居の入り口、黒河で生まれ育った大膳は慣れた手つきで羽織から軽く雪片を払い落とし、さすがに雪に湿った足袋は脱いでその辺りに適当に干し掛けたが、雪に慣れていない弘紀は玄関で戸惑っている。

 大膳に聞くと、弘紀はここに来るまでに何度も転び、何度も雪だまりに突っ込んだという。弘紀の着物は雪にまみれて濡れてしまっていて、修之輔が手を貸して、まずはいちばん上の羽織から一枚ずつ脱がせていったのだが。


「弘紀、いったい何枚着ているんだ」

 いちばん上の羽織の下には袷の羽織をもう一枚、その下に兎の毛皮の胴あてに、そこまで取ってようやく小袖の襟が見えたがその下にも単衣を何枚か着ているようだった。これでは雪に足を滑らせなくてもうまく動けずすぐに転んでしまうだろう。

 兎の毛皮の下までは濡れておらず、羽織二枚を囲炉裏の火の近いところに、袴を取らせてそれも火の近くに広げて乾かすことにした。

 修之輔の手になすが儘、というより、世話をされて当たり前の顔の弘紀を大膳は横目で眺めてからかう。

「お前はそんなに寒さに弱かったか」

「雪は氷のようなものではないですか。それがあんなにあるのだから、寒くて当然です」

「今年の冬は、これでも寒くないほうだ。修之輔を見て見ろよ」

 弘紀があらためて修之輔の姿を眺め、眉を寄せた。

「修之輔様の恰好も何かおかしいと思うのです」

 雪かきをしていた修之輔は、羽織もなく、小袖袴にしかも襷がけの恰好で、確かに福良雀の様に着ぶくれた弘紀とは対照的ではあった。薄着過ぎるよな、と大膳がどちらの味方か分からないことを言う。

 囲炉裏の火を熾して弘紀に体を温めるよう言うと、弘紀は早速冷えた手足を火に近付けた。

「ああ、弘紀、お前それ」

 呆れた顔の大膳が全てを言い切る前、弘紀が足の指先を抑えて床に転がった。

「……痛い」

「手も足も雪に濡れて冷え切っているんだ、それをすぐ火にあてれば痛くなって当然だろう。なに、しばらくそのままにしていれば痛みは直に治まる」

 囲炉裏の傍に座り込んでいる大膳はそう言ってそのまま弘紀を放置しているので、襷を取った修之輔が涙目になって痛みを我慢している弘紀の傍らに膝をついた。

「弘紀、一度手を離せ」

 弘紀は修之輔を見上げてから爪先から手を離した。修之輔は真っ赤になっているその爪先を手の平で包んでやった。

「あ、痛くない」

「冷え切った指先は、まずひと肌で温めないと。急に温めるとさっきのように痛い思いをすることになる」

 修之輔の手で温めてもらって痛みのとれた爪先の感覚に、弘紀の顔が明るくなる。そのまま、もう片方も、と寄越す爪先を同じように手で温めてやっていると、大膳がぼそりと言った。

「……修之輔、お前、弘紀にだいぶ甘くないか」


 爪先が温まって機嫌の良くなった弘紀が、そうそう、こちらをお持ちしたのです、と風呂敷包みを修之輔に寄越した。

「本多の家の者を介して私に届けられたのですが、他にもいろいろあって捌ききれないので、修之輔様にお持ちしました」

 受けとって風呂敷をほどくと中の木箱には手の平ほどの小ぶりな干し鯛が何匹も入っていた。皮の桜色も鮮やかで、これはかなり値の張る慶賀の献上品だった。

 いいのか、と弘紀に聞くと何の気負いもなく、はい、と答える。

「むしろそれ、どうやって食べるのですか」

 箱の軽さから、弘紀はこれが菓子だと思って下げ渡しせずに手元に置いていたのだが、開けてみたら干し鯛で、食べ方が分からないからここに持ってきたらしい。大膳も干し鯛の箱を覗き込んできた。

「まあ、炙って酒の肴にするのがいちばんだな。修之輔、酒を持ってきているぞ」

 大膳は大膳で、正月の酒を自宅から持ってきていた。弘紀が身を寄せている本多家に劣らず由緒のある柴田の家に送られてきたという酒は、京の灘からの下りものでこれも高級なものだった。だが弘紀が、酒が飲めない、という。

 それならば、と修之輔は座敷から土間に下り、佐宮司神社で手伝った繭玉づくりの余りの餅と、師範の自宅である城下の料亭に年賀の挨拶に行ったとき貰った昆布の欠片、そして塩を持ってきた。餅を串に刺して焼くのを大膳と弘紀に頼み、昆布と水を入れた鍋を囲炉裏の鉤に掛ける。


 鍋に湯が沸く間に、どうしてこの二人連れになったのかを聞いてみた。

「なに、柴田家の名代として本多様のところに年賀の挨拶をしに行ったら、ちょうど弘紀が出かけるところに出くわしたんだ。どこに行くのか聞いたら、ここに来るというから、じゃあ俺も行くと」

「修之輔様に年始の挨拶をしに伺おうと本多の屋敷を出たところを大膳様に羽交い絞めにされて、同行することを強要されたのです」

 互いの言い分を聞いて何故か睨み合う二人に、手元の餅を焦がすなと、釘を刺した。言い方に差はあるが状況は分かった。

 鍋は次第にぐつぐつと煮立った音を立て始め、修之輔は干し鯛の皮を軽く炙って数尾、鍋に入れた。鯛の身が解れてきたころに塩を一つまみと大膳が持ってきた酒を少々その鍋の中に垂らすと、沸き立つ湯気に鯛の香りが混じって辺りに広がる。餅の串を囲炉裏の灰に落とす勢いで鍋の中を覗き込んでくる弘紀を制して、まずは焼けた餅を椀に入れさせた。そしてそれぞれの椀に鍋の中身をよそうと、尾頭付きの干し鯛一尾が丸のまま入った正月にふさわしい雑煮が出来上がった。


 いただきます、とひと言、さっそく箸をつける弘紀と大膳が一口汁を飲んで、美味しい、とか、うまい、だとか言った後は無言で食べ続ける姿を見つつ、修之輔も椀を口に運んだ。桜鯛の薄紅色に白い餅。昆布の出汁もしっかり出ていて、簡素な仕立てではあったが雑煮としては充分に豪華なものだった。

 

 おかわりをめぐって弘紀と大膳が少し揉めたが、そのうち鍋も空になり、窓の外の日も夕暮れに近付いてきた。暗くなると今日溶けた雪がまた凍って危ないからと大膳が弘紀を急かして、二人揃って帰り支度を始めた。弘紀は乾いた着物を次々と着込み、来た時と同じように、またころころとした福良雀の姿になった。

 その弘紀の姿を見て思い出したことがあり、修之輔が土間の隅を覗くと、探した目当ての藁沓わらぐつがすぐ、見つかった。弘紀が雪に慣れていないのなら、いくら足袋を履いていても草履の足ではまた足先が冷えるだろう。履いて見ろ、と促すと、弘紀は素直に藁沓の中に足を入れて、乾いた藁の温かな感触を気に入ったようだ。

「弘紀、俺は普段、それを使わないから弘紀がそのまま使ってもいいし、邪魔になるなら次の稽古の時に持ってくればいい」

 そういうと、弘紀は嬉しそうに華やかに笑った。

「ありがとうございます。では、黒河に雪が残る間、こちらをお借りします」


 新年の冷えて澄んだ空気に夕焼けは映えて、夕日に照らされた雪は橙色、影は群青色に染まっている。

 修之輔は道場の正門から雪の坂道を弘紀と大膳が帰って行くのを見送った。藁沓を履いた弘紀の足取りはしっかりと、滑って転ぶことなく坂道を上っていく。姿が見えなくなるまで見届けて、住居に戻ると土間に弘紀の草履が残されていた。

 藁沓を履いてそのまま、忘れて行ったようだった。

 呆れて思わず笑みがこぼれて、そして誰かがここに訪れた正月は久しぶりだとそんなことを思った。


 今日の天気に溶けた屋根の雪は今夜一晩でつららを作るだろう。外の空気は真冬の厳しさに戻りつつある。春はまだこれから先の事。框にはまだ干し鯛が数匹残る木箱に青海波の風呂敷。


 明日はこれで鯛飯を炊いて神社に持って行こうかと、修之輔は考えた。


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通う千鳥の鳴く声に 葛西 秋 @gonnozui0123

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