第4話 最終話

「そういえば修之輔様、どちらに行かれるつもりだったのですか」 

 木蓮の木陰から出て門に向かいながらようやく、弘紀は修之輔にそう尋ねてきた。

「羽代に行くつもりだった」

 なんとは無しに弘紀に会いに、とは言い出せなかったが、弘紀の中では同じ意味のようだった。

「修之輔様の方から、私に会いに来てくれるつもりだったのですか」

 うれしい、と素直に笑って喜ぶその返事の代わり、弘紀の躰を引き寄せて抱き締めた。一瞬の戸惑いの後、すぐに弘紀の手は修之輔の背に回されて、そのまま労わる様に優しく撫でる。その手の温かさにこの三月みつきのわだかまりが溶けていくのを感じ、そんな自分の単純さが可笑しかった。


 生まれ育った黒河を去り、弘紀とともに羽代へ。

 以前の自分ならば思いもよらぬことだったが、紛れなく、それは修之輔が自分で選んだ道だった。


 つま先立ちで顔を寄せてくる弘紀と頬を摺り寄せ、鼻先を触れ合わせる。そうして互いの目を見ながら重ねる唇は変わらず柔らかく、手の平に感じる弘紀の躰は思い描いていたよりしなやかだった。

「私が欲しいのは貴方です。貴方のすべてが欲しい」

 そういって華やかに笑う弘紀に、修之輔は自分の意思の全てが秋の稲穂のように垂れて緩やかに服従していく気配を感じ、しかしそれは同時に限りなく甘やかな陶酔をもたらした。

「貴方は私のもの」

 そう嬉し気に囁く弘紀の唇にもう一度、承諾の意をもって自分の唇を重ねて、ふと気づいた。

「弘紀、馬はどうした」

 

 門を開けて外を見ると、坂を下った先の道端に鹿毛の馬体が見えた。逃げる様子はないので歩いて近づくと道端に生える草を一心不乱に食べている。餌をちゃんと与えているのかと弘紀に訊くと、もちろん、と答えて、黒河の草が好きなんですかね、変なやつ、などと呟きながら馬に歩み寄って手綱を取った。修之輔には分からない信頼関係が彼らの間にはあるようだった。

 

 翌朝からの羽代藩への道中、弘紀はその鹿毛の馬に騎乗し修之輔は徒歩だった。馬を用意させると弘紀は言ったが、慣れていないので断った。持つべき荷物は大小の二本だけであったし、持って行こうと思っていた紫藍の振袖は弘紀に返していた。街道は黒河藩内の高地を通るので吹く風も涼やで、歩いていて気持ちが良かった。

「やっぱり降りて歩こうかな」

 弘紀がそうつぶやくとまわりの者が一様に慌てた。田崎は先行して今この場におらず、直接弘紀に何か言えるものは修之輔だけだった。

「いや弘紀はそのままその馬に乗っていて欲しい」

「でも修之輔様と一緒に歩いてみたいのですが」

 甘えを含んだ弘紀の声音に心が揺らいだが、周りの期待を裏切るわけにはいかない。

「その馬の手綱、しっかり取れるのは弘紀だけだ」

「こいつのせいですか」

「今朝の出立前、この馬の世話をしていた者が髷を喰われた。かなりざっくり髷がなくなって坊主にするしかないと嘆いていたぞ」

 弘紀が振り返る列の後方には、剃り跡が青々しい禿頭の者が見える。確かめて手綱を握り直したところを見ると降りるのは止めてくれたようだ。

「出立のとき、大膳様は見送りに来られると思いましたが」

「持ち場を離れることができないらしい。着いたら便りを寄越せと言っていた」

「そうですね、便りを出しましょう、私からも。修之輔様の身元、確かに私が預かりましたのでご心配なさらぬよう、と」

 何か含むような声音の弘紀に視線を向けると、そういえば、と話を逸らされた。

「道中はともかく、羽代藩城下に入ったら修之輔様のことは名字でお呼びします。秋生、でよかったか」

「はい、弘紀様」

 面白がって口調を変える弘紀に付き合って、修之輔も普段とは違う呼び方で弘紀を呼んだ。弘紀がくすぐったそうな顔をした。

「なんか変な感じがしますね。私はこのままで大丈夫だと思うのですが、人目があるときはせめて名の呼び方に慣れないと」

 でも、と馬上から身を寄せて修之輔に囁く。

「二人でいる時はどうぞこれまでのように呼んでください、修之輔様」


 羽代藩に入る前夜、修之輔に割り当てられた宿の入り口近くの小部屋に、弘紀は一人でこっそりやって来た。

「羽代にはどうやって来るつもりだったのですか」

 互いが互いの躰に触れて、会えなかった期間の想いをその肌に直接伝えた後、そう弘紀が尋ねてきた。白い単衣一枚をまとった弘紀の体は交わりの余韻にまだ火照っていて、抱いた腕の中、その温かさが心地良い。

「師範に紹介状を書いてもらった。もちろん、藩からの許可も得ている」

 紹介状とは、と尋ねる目線の弘紀に説明する。

「この間の御前試合で羽代の寅丸と知己になって、寅丸の道場にまずは身を寄せようと。師範の紹介状はそこに宛てたものだ」

「寅丸、ですか。主将を務めた者ですね。この間、長崎に行ってもらいましたが、修之輔様はいつのまに寅丸とそんなに仲良くなったのですか」

「御前試合の後の宴席で話をして、一月ほど前に手紙を受け取ってそれから何回かやり取りをした。しばらく寅丸の自宅に逗留することになっている」

「寅丸が自分のところに来いと修之輔様に言ったのですか」

「そういう言い方ではなかったが、そういうことになるのか」

「必要ないです。城中に部屋を用意しますよ」

 弘紀がどこかむきになる理由は分からないが、様子は年相応、というより少し子どもじみている。整然と羽代の藩政について語る弘紀とも、先ほどまで修之輔の指と穿たれた熱さに喘いでいた弘紀とも別人のようで、その差がより可愛らしく思えた。

「それではなかなか身動き取れないだろう。名目は剣術修行だ」

「通えば良いではないですか。馬も使ってください」

「着いてから考えよう。兎にも角にも、寅丸には挨拶に行かねばならないし」

「私も行きます。修之輔様を一人では行かせません」

「どうした弘紀、やけに強情だな」

 さすがに呆れて体を起こし、傍らからこちらを見上げてくる弘紀の頭を撫でた。

「もう二度と離れていたくないのです。どうかずっとそばにいると、約束してください」

 自分も起き上がって修之輔の手を頬に押し当てながら弘紀が言う。腕を回し、弘紀の躰を強く引き寄せ耳元に囁いた。

「それは俺が弘紀に願いたいことだ」

 もう一度、唇を重ね胸を合わせて指を絡める。肩、背、腰、脚。一つ一つ確かめるように撫でていく。

「この三か月、随分と走り回ったのか」

「分かりますか」

「弘紀くらいの年なら、動かせば動かすほど体が作られる」

 会えなかった間の変化は弘紀の成長を物語っていたが、これからはずっと、この腕の中でその変化や成長を感じていくことができる。修之輔は弘紀の躰を強く、抱き締めた。


 街道が羽代藩に入って最後の峠を過ぎると、風の匂いが変わった。木々の莢かな香り漂う黒河とは違い、生きる力の豊かな気配が色濃く感じられる匂いに気を取られていると、馬上の弘紀がひらりと身軽に馬から降りて修之輔の手を取った。

 そのまま走り出す弘紀にあわてて附いて走れば坂道を上がった先、弘紀が振り返った。

「ほら、海です」

 華やかな笑顔で示すその先は沁みるような青。

 初めて見る、目の前一杯に広がる海は夏の日の光を映して強く輝いていた。

 傍らには髪を海風になびかせる弘紀。その姿は異国の地に生きるという黄金の毛皮を持ったしなやかな若い獅子を思わせた。近いうち、この気高く美しい主に仕えることになるであろう喜びは既に修之輔の胸を満たして溢れている。

 共に行こう、行けるところまで。いや、どこへでも。


 羽代藩藩主の居城まで続く海沿いの道を行く彼等の頭上を越えて、白く翼の長い海鳥が二羽、翼を並べて飛ぶその先には、光輝く水平線が広がっていた。

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