第3話

 梅雨が明けかけて夏の日差しが雲の合間にさすようになった七月中ごろ、修之輔は大膳にこの屋敷を出ることを伝えた。


「修之輔、ここを出てどうするというのだ」

「とりあえず行くところが決まったからそこに向かう」

「どこだ」

「羽代の、寅丸のいる道場だ」

 すでに師範に道場への紹介状を書いてもらい、黒河藩からの許可も下りた。剣術の修行並びに指導が目的の訪問という名目だ。

「ここを、黒河を出ると、そう心を決めたのだな」

 修之輔が目を伏せて頷くと、大膳が修之輔の肩を抱いた。大膳の逞しい腕に引き寄せられる感覚に、過去の記憶が蘇り反射で体が小さく震える。その震えを大膳は感じ取ってすぐに修之輔から体を離した。唇を噛み、痛さに耐えるような大膳の顔をこれまで何度も見た、と修之輔は思った。

 大膳は友人であり、そしてそれ以外ではなかった。しかし得難い友であることに変わりはなかった。もっと早くに二人の間にあるこのわだかまりを解けば、大膳にこのような苦しい顔をさせずに済んだのかもしれない。口には出さず、心の中で大膳に詫びた。


 黒河を発つ日を翌日にひかえ、修之輔は道場に足を向けた。時折、大膳の屋敷を抜け出して埃を払うぐらいの掃除はしていたので荒れてはいないが、最早閉めると決められている道場は既にどこかよそよそしい雰囲気だった。住居も道場も、どちらも出入り口を釘で止めると感慨もあまり残っていなかった。今日はこれから師範に挨拶に行ってそのまま一晩泊めてもらうつもりで、最後、道場の門を背に中を振り返り一礼した。


 すると門の外、なにか坂の下が騒がしい。危ない、とか、避けろ、だとか怒声が聞こえて、門を開けると、目の前を鹿毛の馬が一頭、すごい勢いで武家屋敷の立ち並ぶ一角に走り去って行く。後ろから既に見知った顔、田崎の他数人がやってくるのが見えた。


「修之輔殿、うちの若様、いや弘紀様を見なかったか」

 鹿毛の馬の尻尾を見た気がする、と答えると田崎の肩が下がった。

「ああ、だから馬から降りた方が良いと言ったのに。まあ、大膳殿のところでまた戻ってくるだろう」

 それはそうと、またお目にかかったな、そう田崎が挨拶を寄越した。羽代藩の騒動になんとか目途がついて、色々と迷惑をかけたこの藩に報告をしにきたという。

「やはり先の御家騒動の余波は大きく、実は弘紀様の兄君の改易が決まり、幕府重臣ゆかりの方が藩主としておかれる運びになった」

 それは田崎の謀が無に帰したということではないのか。それにしては田崎の顔はどこか晴れがましい。

「しかし現在、後任としてわざわざ地方の小藩への赴任を引き受ける方がおられぬ。多くの藩が内部にいざこざを抱え、あるいは幕府に対して反発するところもある。全国に広がっている動揺が収まるまで、朝永家の領地召し上げは猶予され、弘紀様を繋ぎの当主として据えることが許された」

 結局、弘紀が羽代の正当な後継者として幕府の公認を得られた、という。


「その際の条件として、もし将来弘紀様がお子をもうけられても出家させるか他藩の家臣として降格させることが決められた。そもそも縁組を幕府が認めるかも難しい。朝永家による藩の存続を願うなら、弘紀様がなんとか長く藩主の座にあって藩領統治の実績を上げ、その上で養子を貰って跡を継がせれば朝永の名字は残るのだが」

 ただ弘紀様はまだ十七歳、これから如何様にでも状況を変えることはできるだろう、と田崎は続けた。


「前にも言ったが、身内、家族と呼べるような親しい人間が弘紀様の傍にはいない。加えて、今後の藩の在り方によっては弘紀様の身辺の警護はより厚くする必要がある。沙鳴きづかいの修之輔殿、その腕を見込んで伺うが、いかがかな、羽代に仕官されるのは」

 修之輔の目を見てそう言ったあと、田崎はその目元を微かに緩めた。

「仔細は弘紀様から聞かれるのが良いだろう。ここで待たれてはいかがか。万が一すれ違っても弘紀様に修之輔殿が道場にいることを伝えよう。」

 そう言って武家屋敷の方へ足を向ける田崎たちを見送って門の前、しばらく待つと田崎の言葉通り、坂の上から、さすがに先ほどよりは速さを減じて、それでも駆け足で鹿毛の馬が下りてきた。


「修之輔様、お待たせしました」

 馬上からそのまま、修之輔の腕の中に身を投げるように降りてきた弘紀を受け止める。すこし背が伸びたようだった。浅葱の小袖に藍の袴、裾に流水紋、夏の装いは目にも爽やかだが、弘紀の顔に出来たばかりらしい怪我がある。これはどうした、と弘紀の顔を手で包むと頬を摺り寄せる仕草が懐かしい。

「大膳様に殴られました。でも私も大膳様を殴ったのでおあいこです」

「何があったんだ」

「私は何があろうと三月ほどで一度は戻るからその間、修之輔様を頼むと大膳様に言い置いたのですが、修之輔様はそのことを大膳様から聞きましたか」

「いや、聞いていない」

 だからです、と弘紀の語気が荒い。忘れていたのではないか、と言うと、三月と聞いていたら修之輔様は今そのような姿でしたか、と修之輔の旅装を目線で指した。

「なぜ大膳は俺にそれを言わなかったのだろう」

 隠そうとしていたのか。なぜ。けれど大膳の屋敷にいる間、大膳は今までと変わりなく修之輔の身を気遣い、こちらを騙すような悪意など終始微塵も感じなかった。

「分かりませんか」

「弘紀は分かるのか」

「――私からは言えません」

 弘紀はちょっとの間、なんともいえない複雑な顔で修之輔の顔を見つめた後、独り言のようにそう言って、それ以上そのことについて何も答えようとしなかった。


 既に道場も住居も戸口を締め切っているので、せめて日差しを避けるため、中庭の葉の茂る木蓮の陰で、今の弘紀の状況について話を聞いた。


「弘紀、先ほど田崎殿から弘紀が次の藩主として認められたと聞いた。いったい、どういうことになったんだ」

 えっと、と少し言葉を選んでから弘紀が話し始めた。

「まず、羽代藩内の混乱は、私が自分の立ち位置を明確にしてこなかった事に原因があったのです。家中で意見が二つに分かれようと、上に立つ者が二つの意見の間を取り持つことで均衡は保つことができるのですが、兄上が改易されるかされないかという状況にあって、羽代には、揺ぎ無く家中を統率するべき者の姿がなかった」

 羽代の領主である朝永家としての失態です、と弘紀が云う。

「なのでまず私が、私自身の言葉で、自分が当主の座に就く用意があることを表明しました」


 反対も賛成も、分かれた意見を向ける対象があれば、ひとまず人の気持ちはそちらに向かう。どこへ向かうか分からない争いの混乱の中に、一定の流れが生じるようになる。統治する者はその流れを見極めて、意見を集約し、まとめていけばよい。

「実際、私が当主となることに反対か賛成かという議論一つに収束はしたのです」

 それは羽代家中の批判や攻撃の全てを弘紀が担ったということに他ならない。一言で済むような簡単な話ではないはずで、思わず大丈夫なのかと尋ねたくなったが、その間を修之輔に与えずに、弘紀は話し続けた。


「次に私は、自分が羽代でどのような事ができるのか、しようとしているのかについて家中に開示しました。これは私が当主を継ぐことに賛成する者達に向けて、というよりは、反対する者達の意見を集約する為です」

 弘紀の置かれていた状況は、修之輔が想像するより過酷なものであったはずなのに、今、修之輔にそのことを語る弘紀の表情には、暗さも陰りも皆無だった。


「礼次郎に算術を習っておいて良かったのです。そもそも羽代藩には海や山があり特産品が多いのです。茶畑も焼き物の窯もありますし。今まで放っておかれたそれらの品に藩で改めて価格をつけ、全国に流通させたらどのくらいの儲けが出るかを試算したのです。流通の手段も確保し、それを私が管理することで藩の財政を立て直すと、家中に、そして幕府にも説明しました。実現はまだしていなくて、試行と試算だけなので三月あればなんとか」

 そうはいっても藩の内部について熟知し、また物の流れについて知識がなければ打てない手だろう。


「弘紀はどうして、羽代の内情をそんなに詳しく知ることができたんだ」

 そう聞くと、弘紀は、藩の内情については前に田崎に叩き込まれていましたから、と眉をしかめた。田崎が黒河に戻ってきてしばらく、弘紀が忙しくしていたのは、羽代の内政に関する猛勉強を田崎に課されていたからだという。

 その猛特訓を思い出したのか、弘紀の声が一瞬暗くなったが、すぐに弘紀は顔を上げ、その黒曜の瞳には木蓮の葉から漏れる夏の日の光が煌めいた。


「それでなんとか繋ぎとしてですが羽代の統治を認められたのですが、財力が今、幕府との交渉の大きな切り札になっています。家中にもそのことを知らしめて、対立する意見の解消は私が間に立って少しずつ、それよりもまずは共にこの藩の立て直しをしていこうと協力を求めました。ただ、出る杭は打たれる、で、おそらく今後幕府は羽代藩になんらかの圧力をかけてくるでしょう。なのでこっそりとですが、攘夷派と呼ばれる上方に与する者達とも連絡を取っています」

 この世情、世の流れがどちらに転ぶか未だ明らかではないが、上方の意見も一理ある、弘紀は言った。藩に様々な者を招いて話を聞いたらしい。


「そして、私が後継となる事を望まず、羽代と黒河の密談を阻止しようと貴方を狙った者達ですが、私が正式な後継者として認められた以上、これ以上表立ったことはできないでしょう」

 むしろ黒河に貴方の身があって、それを盾にされる懸念もあるのです、という弘紀の言葉は、黒河藩の庇護を待たずに自立することにした羽代藩と黒河藩の間に、微かであっても何らかのわだかまりが生じた事を示唆していた。


 これから弘紀はかぎりなく続くそのような政治の渦に身を投じることになるのだろうし、それは弘紀にとっての運命であったろうが悲壮さはなかった。己の持てる力でその運命を切り開こうとする強い意志が弘紀にはあった。


「藩主の座を退いて江戸にいる私の兄上も、これで養生に専念できるとほっとしていました」

 そう云いながら笑みを浮かべ、こちらを見上げてくる弘紀と目を合わせ、けれどその時、修之輔は先程田崎が云っていたことを思い出した。


 ――羽代には、弘紀様の身内と呼べるような親しい者がいない


 自分は、いや、自分が、羽代の風浪の前に一人さらされる弘紀の側にあって、その支えとなることができるのだろうか。


 それは、疑問ではなく。修之輔の身の内に、心の内に、明確に表れた自分自身の願望だった。


「今日これから田崎たちは黒河で世話になったところに挨拶回りに行き、明日の朝にはここを発ちます。修之輔様も私たちと一緒に羽代に参りましょう」

 弘紀が黒い瞳をきらめかせてこちらを見上げてくる。

 これまでの話はこの三月、まったく修之輔が思いもしなかった内容だったが、弘紀のその勝気な強い目は、剣の指導をしている時に何度も見た懐かしいものだった。

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