大遅刻です、大杉くん

白里りこ

Too Late.


「ひょえ……」


 大杉おおすぎくんはベッドの上で、情けなくも尻餅をついていた。


 壁にかけていた漫画のポスターから、キャラクターである勇者とは似ても似つかない化け物が、にゅっと顔を出していた。

 漆黒の禿頭、飛び出た頬骨、渦を巻いた大きな角、銀色に光る瞳。


「どうも悪魔です。おはようございます」


 そいつは丁寧にお辞儀をして、ポスターの中から全身を現し、ストッと部屋の中に着地した。


「な、何で悪魔が……」

「昨日キミは、初デートに寝坊しないようにこのポスターに向かって一生懸命にお祈りしていたでしょう? だからです」


 よく分からないことを言う。なにゆえ早起きの願掛け程度のことで、超常的なモノが姿を見せる事態になりうるのか。そもそも世間的な通念からすれば、悪魔とはむしろ人間が惰眠を貪ることの方を悦びとする存在では……。こう考えたところで、大杉くんはハッと時計を見た。

 針は午前八時五十五分をさしている。


「まさか……お前は僕が寝坊するさまを見物に来たのか!?」

「さて、どうでしょう。とりあえず、速井はやいさんはあと五分で待ち合わせ場所に到着します」

「なっ! 待ち合わせ時間は十時ではなかったのか! しくじった!!」


 大杉くんはパジャマを破かんばかりの勢いで脱いで床にかなぐり捨てると、黒いシャツとモスグリーンのジャケットを引っ掴んで階段を駆け下りた。ダイニングでは大杉くんの妹が、食パンにマーマレードを山盛りに塗りたくっているところだった。


「ちょっ! ズボンくらい穿いて来やがれ、バカ兄貴!」

「ああ忘れていた」


 ズボンを身につけて再びダイニングに駆け込む。何故か先程の悪魔が大杉くんの席に座っていて、打ち解けた様子で妹と談笑していたが、そんなことを気にかけている場合ではない。正直、朝食を摂る時間も惜しかったが、腹が減っては戦はできぬ。大杉くんは食パンを袋から引っ張り出して口に咥え、もぐもぐやりながら洗面所に向かった。急いで歯磨きをしようとして、すんでのところで、口がパンで塞がっていることを思い出す。仕方がないので先に髪を梳かそうとしたところ、歯磨き粉のついた歯ブラシをぼさぼさの髪に突っ込んでしまった。


「フガフガ」


 絶望して膝をつきそうになる大杉くん。とにもかくにも、これを食べ切らないとどうすることもできない。食パンを無理矢理喉に押し込み、胸をドンドン叩きながらコップに三杯の水を飲み干した。ふう、と息をつく暇もなく、サッと髪を洗ってドライヤーで乾かし始める。

 鏡を見ていると、悪魔が翼をバサバサさせてやってくるのが確認できた。


「もしもし。速井さんは待ち合わせ場所に着きましたよ」

「マジかよ」

「マジです。ホラ」


 悪魔はスマートフォンで時計台の風景を映し出した。昨今は悪魔も近代兵器を駆使する時代になったのか……いや、そんなことはどうでもいい。時刻は九時きっかり。時計台の下では、おめかしした速井さんが腕時計をチェックしている。


「フギャーッ」


 大杉くんは大慌てで歯磨きを済ませた。水道の栓を全開にして口をゆすぐと、乱暴に顔を洗い、顎にカミソリを当てた。次いでBBクリームを掌にぶっかけ、顔に塗りたくる。少しでも背伸びしたいという、年頃の男子の意地である。


「行ってきゃーッス」


 挨拶もそこそこに、疾風怒濤の勢いで玄関を後にする。自転車に跨って坂を下った。ブレーキをかけずに猛スピードで進んでいるはずなのに、悪魔は余裕綽々しゃくしゃくで大杉くんの背後を飛んでついてくる。


「お前、どこまで来るんだよ! その姿で速井さんを驚かせたら承知しないからな!」

「おやまあ。速井さんを既に五分も待たせている男の言う台詞ではありませんねえ」

「やかましいわ!」


 久方の光のどけき春の日の朝を楽しむ余裕もなく、シャカリキで車輪を回す。まもなく駐輪場に漕ぎ着けた。そこから駅までダッシュ。是が非でも、五分後の九時二十分に発車する地下鉄に乗るのだ。


 サッカー部で培った機動力をフルに活かして、駅前の商店街を疾走する大杉くん。その後ろにピッタリとくっついて飛ぶ悪魔。二メートルばかりもあるその黒い巨躯は隠しようもない。朝早くから買い物に出ているおじさまおばさま方からの注目は集まり放題だ。


「何あれ……」

「コスプレ?」

「キャッ、危ない」

 

 彼らの奇異の目線などお構いなしに駅前を駆け抜けた大杉くんは、見事、地下鉄に飛び乗ることができた。座席に腰掛けて、ようやく一息つく。全身から汗が噴き出た。


「制汗スプレーを持ってくればよかった……」

「意外と細やかな気遣いをするんですね、大杉くん」

「お前は黙っていろ。今から速井さんに連絡を入れるんだから」


 大杉くんはポケットに手を入れて、スマートフォンを忘れたことに気がついた。


「ぬああーっ!!」


 よりにもよってデートにスマートフォンを忘れるとは。これでは遅刻の連絡もできないばかりか、デート中にフォトジェニックな写真を撮ってSNSに上げることすらできない。輝かしいデートプランは音を立てて崩れ落ちた。最悪だ。何という失態。一生の不覚。悪魔ですらスマートフォンを持っているというのに。悪魔ですら!


「もうやだ、泣きたい……」

「私の胸で泣きますか?」

「黙れと言っているのが聞こえなかったのか」

「キミが私に話しかけているんじゃありませんか」

「これは独り言だ。いいからあっちへ行け」

「やれやれ……」


 悪魔はフワフワと浮遊するのをやめて、大杉くんの隣に腰掛けた。傍迷惑な奴だ。一方、車両内では乗客がスマートフォンでシャッターを切る音や動画を撮る音が鳴り響き、そのことが大杉くんをいっそう惨めな思いにさせた。


「……そうだ、悪魔お前、スマホ寄越せ」

「え? 嫌ですよ」

「頼む! お願いします!」

「さんざん邪険に扱っておいて、都合の良いことを言う人間ですね」


 そんなことを言いながらも、悪魔は案外あっさりとスマホを手渡してくれた。


「感謝する」


 短く言った大杉くんは、インターネットでSNSを開いて自分のアカウントにアクセスし、そこから速井さんのアカウントに向けてダイレクトメッセージを作成した。


『ごめんなさい、遅れます。あと五分ほどでそちらに着きます』


 無事に送信したのち、アカウントからログアウトして、悪魔の細長い手にスマートフォンを返す。


「助かった」

「はいはい」

「お前、思ったより優しい奴なんだな」

「私は最初から優しい奴でしたよね?」


 地下鉄はプシューと音を立てて駅に到着した。大杉くんは二段飛ばしで階段を駆け上り、地上へ出る。暖かい春の陽光と桜の花びらが、頭上から降り注いでいた。待ち合わせ場所まで、あと少し。時計台の下には、若草色のワンピースにベージュのトレンチコートを羽織った速井さんの姿が見えた。時計の針は九時三十五分過ぎをさしている。ああ、とても長い時間彼女を待たせてしまった。申し訳なさに顔を歪めながら走り出す大杉くんに、悪魔は言った。


「では、私はここまで。初デートの成功を祈っていますよ、大杉くん」

「サンキュー……!」

「どういたしまして」


 悪魔はドロンと煙を出して消え失せた。

 大杉くんは振り向くことなく、最後の力を振り絞って走る。タイルで舗装された道を蹴り、速井さんの元に辿り着いた。


「ぜえ、はあ……」

「大杉くん」

「ご、ごめんなさい……遅くなってしまって」


 肩で息をする大杉くんに、速井さんの口から、恐るべき言葉がかけられた。


「大杉くん、あのね。まだ、時間じゃないよ?」


 一瞬、大杉くんの頭の中は真っ白になった。


「……え?」

「あと二十分くらいあるよ。待ち合わせ時間は、十時だから」

「マジすか?」

「マジです。私は、楽しみすぎて早く出ちゃったの」

「マジすか……」


 大杉くんはがっくりと項垂れた。

 いくらなんでも、早すぎるよ、速井さん……。


「焦らせてしまってごめんなさい」

「いいえ。悪いのは全部あの悪魔です……」

「悪魔?」

「あの、人でなしの、悪魔……」


 はあーっと、大杉くんは盛大に溜息をついた。その背中を、速井さんはポンと叩いた。


「よく分からないけれど、お疲れ様。少しそこのカフェで休んで行きましょう」

「速井さん……」

「さあ、おいで」


 速井さんは、大杉くんの手を握って歩き出した。走り過ぎて上気していた大杉くんの頬が、更に赤くなる。デートは、まだ始まったばかりだ。



 おわり

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