ナガアシ様

放睨風我

ナガアシ様

翔はそっと天井に手を伸ばして、新聞紙ごしにアシダカグモの身体を掴んだ。もぞもぞ動く八本脚の気配を手に感じつつ、翔は椅子の上から降りる。


この大きな平屋に住むのは翔と祖母のふたりだけである。時刻は夜九時を回った頃で、翔は、自分の部屋の天井で見つけた蜘蛛を捕まえたのだった。


小学生低学年の頃から自分だけの部屋を持っているクラスメイトは少ない。翔は部屋がいくらでも余っているところだけは、この家がちょっと好きだった。引っ越してただ、父方の田舎にある翔の家はたいそう古く、すぐそこに草木の生い茂る裏山があることも相まって、蜘蛛や昆虫が無数に湧いて出た。都会育ちの翔は、父母から離れてこの家に預けられた当初こそ小さな生き物たちに怯えていたが、すぐに慣れた。もともと好奇心旺盛なタチだから、いちど克服してしまえば、娯楽の少ない山間における格好の遊び相手となった。


翔は、新聞紙からはみ出てうごめく脚を眺める。


(今日は夜だから……このままでいっか)


ぎゅっと手を握りしめた。翔の手の中で柔らかい組織がぷちんと潰れ、汁が溢れてくる。何度経験しても背筋がぞわりとなる。その感触にささやかな高揚を覚えていた翔は、ふすまの向こうから注がれる視線に気が付かなかった。


「翔!あんた何やっとんの!」


そう叫んだ祖母は、ずんずん翔の部屋に入ると、手の中から新聞紙の塊を奪い取った。


「夜に蜘蛛殺したらあかんって言うたやろ!」

「……みっくんは朝って」

「なんや?」


翔は、言いつけを破る現場を抑えられた罪悪感からか、いつもより元気なく釈明らしきものを口にする。さらに詰め寄る祖母に対して、翔は、顔を背けてこう付け加えた。


「どっちに殺すのが悪いか調べてた」



◆◆◆◆◆



翔がこの家に預けられた当初、虫たちに怯える翔を助け出すのは祖母の役目だった。祖母は「情けないで、男の子やろ」と叱責しながら、毎夜のようにしわしわの手でパチンと虫を駆除した。だが、こと蜘蛛に関しては祖母は頑なにそうしようとせず、窓から外に逃がしてやるのが常だった。


「殺さないの?」

「夜の蜘蛛は殺したらあかん」


そう言って祖母は窓をパタンと閉めた。


「なんで?」

「なんでもや。夜に蜘蛛殺したら祟られる。翔も気ぃつけや」

「……」


翔は腹落ちしていない顔で、渋々ながら頷いた。



◆◆◆◆◆



それから数ヶ月が経ったある日。小学校が終わったあと、翔は友だちのみっくんと裏山で遊んでいた。


みっくんはまさにガキ大将といった存在で、元気がありあまり、騒ぎを起こしては教師の頭を悩ませる子供だった。あたり一帯の山はみっくんのなわばりであったが、翔の家の裏山だけは別だった。翔の祖父母が所有するという裏山は、値の張る野草だかキノコだかが採れるらしく、勝手に入ることが禁じられていた。だから裏山は、これまでみっくんにとって未踏の秘境のような場所だったらしい。翔が転校して来たとき、裏山のふもとに住んでいると知ったみっくんの目はきらきらと輝いた。自己紹介もそこそこに「遊びに行っていいか」と声をかけられ、家に遊びに来たていでランドセルだけ放り投げ、毎日二人して裏山に入り浸るようになるまで一ヶ月もかからなかった。そういうこともあって、翔は比較的すぐ野生の虫に慣れていったのだった。


その日、木の棒で草木をかき分けながら道なき道を進んでいくと、目の前に大きな蜘蛛の巣が現れた。


「うわあ、これ強いで!」


みっくんは嬉しそうに叫んで、手にした木の棒で巣をぐちゃぐちゃと壊し始めた。蜘蛛は我が家の崩壊に慌てふためき、翔の足元にぽたりと落ちてきた。


「翔、やれ!」

「でも……蜘蛛って、殺しちゃダメなんじゃない?」


翔は空を見上げた。既に日は沈みつつあった。夜に蜘蛛を殺していけないと祖母は言った。でも、今は、どうだろうか。


「うちのオカンが朝には殺すな言うてたけん、いけるやろ」

「朝?」

「朝はあかんのやと」


翔は足元の蜘蛛を見た。


蜘蛛は翔の足と岩とに挟まれ、逃げるべき道がわからないのか、それとも見る影もない我が家に執着しているのか、その場でぐるぐると歩き回っていた。


翔は、意を決して靴で蜘蛛を踏みつけた。何の感触もなかった。


ぐりぐりと地面を掘るように靴を擦りつける。足を上げると、平べったくなった蜘蛛の身体が靴の裏側に張り付いていた。



◆◆◆◆◆



翔は「祟り」を恐れた。だが、その夜も、翌日になっても、翌週になっても、何も祟りらしいことが起きる気配はなかった。


(あれは、夜じゃなかったからかな?)


ちょうど夕方から夜に切り替わるようなタイミングで、見逃されたのかも知れないと翔は思った。それとも、みっくんが言ったように朝の方が祟りがあって、祖母が間違っていたのだろうかとも疑った。


だから翔は、みっくんにも祖母にも内緒で、あるをしてみることにした。


月曜日。朝ゴハンを食べたあとこっそり裏山に入り、枯れ木に巣を張っていた蜘蛛を一匹潰した。何も起こらなかった。

火曜日。夜に祖母の眼を盗み、物置部屋でダンボールの奥に隠れていたアシダカグモを見つけた。丸めた広告紙で叩いて殺した。何もなかった。

水曜日。朝に殺してみる予定で山をうろついたが、巣を見つけられなかった。仕方なく、夜になって家のトイレで見つけた小さな蜘蛛を殺した。やっぱり何も起こらなかった。二匹見つけたので、一匹は翌朝のために捕まえておいた。

木曜日。朝起きてすぐ、昨日捕まえた小さな蜘蛛をティッシュペーパーで潰して殺した。夜、廊下でアシダカグモの親子を見つけたので二匹とも捕まえた。その日も一日何もなかった。

金曜日。遊びに来たいと言うみっくんの提案を断って、夜、捕まえていたアシダカグモの子供を殺した。親が暴れて逃げようとするので、脚をぜんぶもいでおいた。平穏な一日だった。

土曜日。朝に見ると親グモがかなり弱っていたので、枝で腹を突いて殺した。残りは一日遊んで過ごしたが、相変わらず何も起こらなかった。


そうして日曜日。夜に部屋の天井で見つけたアシダカグモを新聞紙に包んで潰したところを、祖母に目撃されたのだった。



◆◆◆◆◆



翌日の月曜日。いつもしっかり朝食を作ってくれる祖母が食卓に並べたのは、バナナ一本だった。抗議する翔に、祖母は「反省するまでご飯は作ってやらん」と言い捨てる。翔はふくれっ面で靴を履き、学校に向かった。


その日、家に帰りたくなかった翔は、みっくんたちを誘って日が暮れるまでサッカーをした。みっくんのお母さんがみっくんを迎えに来た。みっくんのお母さんは「そろそろご飯だから翔くんも帰りなさい」と言ったが、翔は、今日は祖母の帰りが遅くて晩ごはんがないのだと嘘をついた。みっくんのお母さんは、じゃあうちで食べていかないかと翔を誘い、翔は二つ返事で承諾した。


みっくんと晩ごはんを食べるという非日常的なイベントのせいだろう。時間は、飛ぶように過ぎた。そろそろ夜九時に迫ろうという時間になり、ようやく翔は帰宅の意志を固めた。みっくんのお母さんは家まで送っていくと主張したが、翔は首を横に振り「祖母が近くまで迎えに来てくれるから」とこれも嘘を憑いて、一人で帰路を歩くことにした。


(……帰りたくない)


翔は、とぼとぼとあぜ道を歩いていた。あたりは街灯一つなく、月と星の光だけが道をほのかに照らしている。両親と住んでいた東京に比べて、ここの星は空一面に広がっている。それでもやはり翔が足を進める道は暗く、翔は、ほの暗い道を注意深く進んだ。ウシガエルだろうか、グコグコという太い声がずっと響いている。


……と、翔はその声が左右の田んぼからではなく、道を歩いている翔のから聞こえることに気がついた。


翔は足を止める。


――すると、真後ろで鳴っていたその音もぴたりと止まった。


「……」


翔はゆっくりと振り返り、を見た。


は最初、青白い肌をした裸の人間が四つん這いになっているみたいに見えた。ただしが明らかに人間でないとわかるのは、その異常に長い手足だった。二、三メートルになるかという細い手足を蜘蛛のように折り曲げて、そこだけは人間に似る青白い胴体をぶら下げている。全身の毛はない。顔に当たる部分にはつるんとした丸い頭部が乗っかっているが、その「顔」は伏せられていて目視することができない。


永遠に等しい時間が流れた。


「……」


は、グコ、と声を上げて、棒のように長い手足を動かし――たった一歩、翔に接近した。翔は息をするのも忘れ、の動きを凝視している。


また一歩、は、グコ、と鳴いて進んだ。


翔の足は無意識に、後ずさりして、ざり、と靴が土を擦る音が響いた。


――その瞬間は弾かれたように走り出した。ゲゲゲゲゲと笑い声のような音を上げながら四本の長い手足を蜘蛛のように動かして翔に迫ってくる。


「――っ!!?」


翔は、悲鳴を上げることすらできずに一目散に逃げ出した。後ろからはゲゲゲゲゲとの声がずっと鳴り響いている。


翔は走った。肺は燃え上がり足は千切れそうに痛かったが、それでも全速力で走り続けた。


とっさに山に逃げ込んだ翔は、木の根に足を取られながら逃げ続ける。ゲゲゲゲゲという声は真後ろではなくから聞こえてきた。――木々を飛び移りながら、追いかけてきている。


誰も助けてくれない山道で、星の光も届かぬ森の中、翔は命を振り乱して走っていた。



◆◆◆◆◆



その後、どうやって帰ったかは覚えていない。


家の玄関でへたり込む翔を抱きかかえ、翔、翔、どうしたのと呼ぶ祖母の声を聞いて、翔は我に返った。


祖母はみっくんのお母さんから電話を受け、翔が嘘を憑いて一人で歩いて帰ったことを聞いていたらしい。祖母は烈火の如く怒ったが、同時に翔が無事帰ってきたことに心底安堵しているように見えた。


翔は、あの恐ろしいについては何も言えなかったが、背中にべったりと張り付いていた恐怖の残滓は、安全な家にたどり着いたことで徐々に薄れていった。ひとしきり怒ったあと、祖母は心配し疲れたのかコトンと寝入ってしまった。


「……」


翔は部屋に戻って、息をつく。部屋の電気を点けると、古びた蛍光灯がチカチカと点滅しながら空間を明るく照らした。だが、その時、何か……


「……?」


翔は――何か背筋を立ち上る恐怖を感じて、天井を見上げた。

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