後
夏休みに入ったというのに、その初日の朝から、私の気分は冴えない。布団からもぞもぞと這うように起き出すと、壁の姿見に顔を映した。
「ひっど……」
随分と泣き腫らしたから、こんな顔になるのも当然か。でも、私が泣いたのって、いつ以来かな。少なくとも最近はなかったはず。
「ねえ、いい加減に起きなさいよ!」
一階から、お母さんの声が響いた。かなりイライラしているみたい。こんな時は、変に逆らうのはよくないと思い、部屋を出てまずは洗面所に向かった。
なのに顔を洗っている間にも、「受験生なんだから――」「夏休みだからって――」といった具合に小言が止むことはない。言うだけ言って、お母さんは慌ただしく仕事に出かけた。
お母さんが、大変なことぐらいわかっている。だから基本は、いい娘でありたいと思っていた。
だけど、あんな風にイライラされたら、こっちにだって伝染しちゃうよ……。
「あ、あの時か」
不機嫌なお母さんの様子を見て、思い出していたのは、私が昨日以前に泣いた場面。確か一年くらい前のこと。思い出したけど、詳しく思い返したくない。今の私には、そんな心の余裕はなかった。
あの時と違って、今回の涙は自分でも原因不明。鈴木くんにあんな態度を取った自分を酷いとは感じていても、ではどうすれば正解だったのだろうか。それが、わからない。
もちろん私だって、もう小さな子供とは違う。身体が大きくなれば、嫌でも性を自覚させられることばかりだ。胸が膨らめばブラジャーをするのが当たり前だし、定期的に訪れる辛い日のことだって……。
それでも「好き」という気持ちを、理解できるわけではない。家族や友達に抱くものと、どう違っているの?
わかんない……わかんないよ。
休み中は鈴木くんと顔を合わせる機会もないだろうから、その間ずっとこの気持ちを引きずるのだろうか。
そうして、夏休みに入り一週間が過ぎたころ。杏奈から連絡があってクラスの何人かで花火を見に行こうと誘われる。地元の花火大会は例年、近くを流れる河川の中州で行われていた。
あまり乗り気でもなかったけど、断る理由もないので行くことにする。でも、どうせいつものメンバーだろうと、他に誰が来るのか聞かなかったのは失敗だ。当日、集合場所の橋の袂に赴き、私は思わず面食らってしまう。
「え……?」
そこには友達以外にも数人の男子がいて、その中に鈴木くんの姿を見つけたから。
「同じ部活の男子に頼んで、連れて来てもらったよ」
呆然と立ち尽くす私の耳元でささやくと、杏奈は意味ありげに笑っていた。そればかりか、私の手を掴み鈴木くんの前に引っ張っていこうとしてる。
なんて余計なことをするんだろう。ついカッとなって、私は言った。
「わっ、私――やっぱり帰る!」
河川の堤防道路は花火を求める人の列が、ずっと先まで続いている。その流れに逆らうと、私は人波が途切れるまで無我夢中で走る――ううん、逃げていたのだ。
なにから逃げ出すのだろう。答えの導けない自分の中のモヤモヤから?
「はあ……はあ……」
ようやく立ち止まっていたのは、花火が打ち上がる位置から随分と離れた寂し気な橋の上。この辺りにも遠目に花火を見上げようとする人の姿が、ちらほらとある。気のせいかカップルが多かった。
ひとりぼっちの自分に場違いな気がして、またその場を去ろうとした、その時。
「あの、ごめん」
背後から声がして、私は足を止めた。
「……どうして、あやまるの?」
追って来てくれた鈴木くんを振り返り、私は聞く。
夏休み前のこと。あやまるのは、こちらかもしれないのに。そう思うけど、その後でどうしたらいいのか、私の中には答えがない。
鈴木くんは欄干に手をかけると、川の流れを見下ろしながら話した。
「聞いてなかったんだ、来ること。だから……ごめん」
どうやら彼の方も、周囲のお節介に巻き込まれたみたい。告白の件を杏奈に相談したせいで、かなり噂が広がってしまった気がする。そう考えると、また少し憂鬱だけど。
「私も、同じだから」
私は言うと微妙な間隔を置いて、鈴木くんの横に並びかけた。花火の打ち上げ会場の賑わいが、ここからでもわかる。もうすぐ始まりそう。
暫くお互いに押し黙った後、鈴木くんは意外なことを口にした。
「去年の、美化委員の時に――」
「?」
なんだろうと顔を向けた私に、彼が少しはにかんだように言う。
「美化委員会で一緒だったんだ。僕がいたこと、憶えてない?」
「ううん、ごめん」
まるで記憶になかった。素直にそう答えると、鈴木くんは気にした風もなく言う。
「いいんだ。でも、ある時――僕は見ていた」
「見た?」
「窓際の席で、君が泣いているところ」
「――!」
それを聞き、私の脳裏にその時の場面が鮮明に蘇っていく。
学校の委員会活動。二年の時、確かに私は美化委員だった。定例の会合で放課後に集まったのだけど、その日は担当の先生が不在。特に議題が話し合われる様子もなく、委員会のメンバーはそれぞれが勝手に私語を楽しんでいた。
その中で一人、窓から外を眺めて、私はひっそりと泣いていたのである。
「周りの雰囲気と一線を画するように、窓際で泣いている女の子から、僕は目を離すことができなくなった」
まるで私の記憶に寄り添うように、鈴木くんは言葉を続けた。
「彼女はどうして泣いていたのだろう。僕はあの後、何度も考えることになったんだ」
あの時、私は……。
原因は、委員会のあった前日のこと。
「どうして? どうして、お父さんのこと――私には、なんにも話してくれないの!」
私は激しい口調で、お母さんに迫った。
その部分には触れてはいけないと、子供ながらに思っていたのに。あの時の私は、自分の気持ちを抑えられなかった。
会えないお父さんのこと、そして、お母さんを苦しめたことを考え、私は一人で泣いていたのだと思う。
そしてその姿を、鈴木くんが――見ていてくれた?
「この前の答えになってるか、自分でもわからないけど。ずっと、気になっていたから」
「それが――」
――好きになった、きっかけ?
口には出さずに見つめると、鈴木くんは微笑み小さく頷いていた。
その瞬間、私の中のモヤモヤが消え去り、代わりになにか熱いものが沸き上がるような感覚を受ける。
なんだか急に照れくさくなり、私はおどけて言った。
「ふ、普段は滅多に泣いたりしないからね。ホントだよ。どっちかって言うと、ふざけて笑ってる方が断然多いし」
「うん。知ってる」
「どうして?」
「だって、よく見てるし……」
彼は言ってからハッとして、その顔を真っ赤に上気させた。
「そ、そろそろ……みんなのところに戻ろうか」
「ま、待って!」
「――!?」
その時に取った行動は、自分でも理解不能だ。照れて行こうとする彼の手を、私は咄嗟に掴んでいた。
「戻っても、どうせ杏奈たちに冷やかされるし……それはイヤだから、でも……」
……ここで、こうしているのはイヤじゃない。
勢いで掴んでしまった手を放すこともできず、思っていることも上手に伝えられない。まるで、そんな私を助けるように。
ドーン!
――と、夜空に花火が上がる。
「あっ!」
「うん、始まったね」
私たちは、花火が彩る夜空を見上げた。
ゆるやかな間隔で鳴る炸裂音は、光とは幾分ずれ、大輪が大きく開ききった後で、ドーンと頬の皮膚を圧迫するように響き渡っていく。
「もう少しだけ……ここで見ていても、いい?」
二人で、一緒に。
彼は言葉では答えずに、私の手をきゅっと握り返してくれた。
……!
その時に、この胸に広がっていく気持ち。まだ正体はわからないけど、それはどこか確かなものだと感じていた。
彼と二人で見上げる夜空に、花火が次々と上がる。
この胸が高揚するのは、きっと、花火のせいだけじゃない。
【了】
二人で見上げた夜空に 中内イヌ @kei-87
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