手袋

 質疑応答も恙なく終わり、イレーネの発表は拍手の中で幕を閉じた。そして今バルブロは、その会場を後にしようとしている。

 外階段を下り、中央広場に降り立った彼は、義足のきしむ音をたてながら、ゆっくりと広場の中心、青いタイルでできた円の縁までやってきた。

 そこから深海を覗き込むように、彼は青い円を見下ろした。

 今、そこに処刑台はない。その必要があるときだけ、都度新しいものが設置されるのだ。

 ふたたび強い風が吹いて、バルブロは首をすくめた。今年は暖冬だと聞いていたが、寒いものは寒い。

 寒いのはいいことだ、と彼は口の中で呟いた。凍えるような風を受けていると、自分が生きていることがよくわかる。死んでしまえば寒いも暑いも、何もない。

 首斬り役人を引退してからというもの、バルブロはそれまでの貯蓄と、国から支給される年金だけで慎ましく暮らしている。仕事はもちろん、ちょっとした娯楽のために出かけることもなくなった。事件以来刀を握ったことはなく、愛用していた一振りは銀行の貸金庫に預けっぱなしになっている。

 あれ以来彼はずっと、心の一部をもぎ取られたような気がしている。

 五年間、ほとんどただ過ぎていくだけの日々を過ごした。年齢的にはまだ人生の半ばにも差しかかっていないのに、彼はこれからの自分の人生はもう「余生」だと感じている。

(もしかして俺は、すでに死んでいるんじゃないか)

 目に染みるような青いタイルを眺めながら、彼は心の中で問いかけた。

 まだ肉体は死んでいない。風は冷たいし、放っておけば喉が渇くし腹も減る。自分は紛れもなく生きている。それでもどうかすると(これでは死んでいるのと同じだ)という気持ちが湧き上がってくることがある。

 背後から、軽やかな足音が近づいてきた。イレーネが上着も羽織らず、発表時そのままのスーツ姿で、バルブロを追ってきたのだ。

「ご来場、ありがとうございました」

 彼が振り返ると、思いのほか落ち着いた様子で、彼女は礼を述べた。

「招待してくれてありがとう。発表、聞きました。お疲れ様」

「ありがとうございます。すみません。恥ずかしいです。グダグダになっちゃって……」

「いや、そんなことはないよ」

「ゴーエンさんに色々手伝ってもらったのに、すみません」

「大丈夫。要点がわかりやすかったし、特に後半は落ち着いていて、とてもよかったと思います」

「でしたら、それはゴーエンさんのおかげです。本当にありがとうございました。あの、ご迷惑でなければ」

 これ、と言って、イレーネがきれいに包装された箱を差し出した。

「本当にお世話になったので、心ばかりのお礼なんですけど、受け取ってもらえますか?」

「いいんですか? そんな大したことをした覚えがないけど」

「あの、ほんと、ご迷惑でなければでいいので」

「いやいや、全然迷惑じゃないです。ありがとう」

 バルブロは両手を出し、箱を受け取った。平べったくて軽い。

「手袋です」とイレーネが言った。

「あの、祖父がですね、ムルジャンの騎士へ贈るのは革手袋に決まっとると申しますので……一応自分や父の手と比べて、ゴーエンさんのはこれくらいの大きさかな、と思って買ったのですが」

 イレーネが不安そうな顔をしているので、バルブロは彼女の目の前で包みを開けると、薄紙に包まれた手袋を取り出した。真新しい革の匂いがする。どんなサイズでも適当にごまかして「ぴったりですよ」と言うつもりだったが、実際手にはめてみると、彼女の目測がなかなか正確なものだったことがわかった。

「ありがとう。ちょうど古いのを捨ててしまって、困っていたところでした」

「そうですか! よかったぁ」

 イレーネは赤みの戻った頬を綻ばせた。明日咲く花を思わせるような笑顔だった。それを見たとき、バルブロにはふと、彼女に尋ねてみたいことができた。

「イレーネさんは、自分が死ぬことを考えたことがありますか?」

 彼女の顔に驚きが浮かぶと共に笑みが消え、それから真剣な表情になった。片手を口元に当て、少しうつむく。

「……あります。十歳のとき、同級生が事故で亡くなって。それまで死ぬのはお年寄りだけだと思ってたんですけど、自分と同じ年頃の子でも死んじゃうんだなって実感があって、じゃあ自分が死んだらどうなるんだろうって、よく考えてた時期がありました」

 でもよくわかりませんでした、と彼女は言った。

「そうですか。急にすみません。ありがとう」

 バルブロはイレーネの答えに満足して、礼を言った。「引き留めて悪かったね。どうぞ戻ってください。寒いから」

 言われて初めて外の寒さを思い出したらしく、彼女は身震いをした。

「じゃあ、失礼します! 本当にありがとうございました」

「いや、こちらこそありがとう。手袋も」

 パンプスを鳴らして走っていく背中に、彼は手を振った。

 公会堂の中に戻っていったイレーネの姿を見送ると、バルブロもまた、何人もの死を見てきた青い円に背を向けた。そして、広場の出口のひとつに向かって歩き始めた。

 新しい手袋をはめた手は暖かい。やはり自分はまだ生きている、と彼は思う。

 死はいつか訪れる。どういう形かはわからないが、バルブロのところにも、爆破事件の犯人のところにも、イレーネのところにも必ずやってくる。

 でも皆、今はまだ生きている。


 腕を振り、少しだけ足早になって、バルブロは家路についた。


〈了〉

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手袋 尾八原ジュージ @zi-yon

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