死を思う

 イレーネと初めて出会った日、バルブロは手ずから熱いコーヒーを出しながら、彼女にこう断った。

「せっかく来ていただいて悪いけど、僕が特別お話しできるようなことがあるかどうか、わかりません。引退したと言っても僕には守秘義務があるし、例の事件についても特別色々な事情を知っているわけじゃない。あなたがすでに資料を見て知っているようなことしか、お答えできないかもしれません」

 その言葉を聞いたイレーネは、意外にもがっかりした様子は見せず、小さくうなずいた。

「それでもいいんです。ただ、お会いできるのならこうしてお会いしておかないと、なんていうか、誠実ではない気がして」

「誠実ではない?」

「はい。あの事件の当事者であるゴーエンさんに対して、誠実ではないと思いました」

 いくらか血色を取り戻した顔で、彼女はそう言った。

 その後、イレーネは三度彼の家を訪れた。そのうち二回は、彼女がバルブロの話を聞くのではなく、彼が彼女の原稿を読み、発表内容のチェックとプレゼンテーションの練習をすることで終わった。

 三度目の訪問の際、イレーネはバルブロに、定例発表会の招待状を押し付けるようにして渡した。期待のこもった目で「よければいらしてください」と言われ、彼は(行かなければ後生が悪いな)と思いながら、それを受け取った。




 最初にちょっとしたトラブルがあったものの、その後のイレーネの発表は順調に進んだ。中盤を越え、いよいよ例の個所がくる。バルブロは客席でそっと唾を飲んだ。

『今から五年前、中央広場で起きた処刑台爆破事件は、ムルジャン全土に大きな衝撃を与えました』

 壇上のイレーネはそう言うと、視線を泳がせた。きっと自分の姿を探しているんだろう、とバルブロは思った。発表のこの部分こそ、彼女が彼に対して「誠実でありたい」と願ったところだった。

『この事件の犯人が、犯罪歴の一切ない、まだ若い女性であったことも、多くの人を驚かせました。彼女はこの日斬首されるはずだった死刑囚が起こした事件の、被害者の遺族でした……』

 バルブロは知らず知らずのうちに、両膝の上に置いた手を固く握り合わせていた。

 犯人の女性には、一度だけ面会したことがあった。彼女は強化ガラス越しに、バルブロのまだ包帯が巻かれた顔を見据えて言った。

「どうしても許せませんでした。どうしてあの男を、あんなに優しい方法で死なせなければならなかったんですか? 私の家族は苦しんで死んでいったのに」

 彼女の大きな瞳から次々と涙があふれて、痩せた顎の先から落ちるのを、バルブロはかける言葉もなく見ていた。

「ごめんなさいゴーエンさん。あなたが悪いんじゃない。けどあの男が許せないのと同じくらい、あなたの処刑が優しいことが、どうしても許せなかったんです」

 そう言って泣いた犯人の青白い顔が、イレーネの緊張した面持ちとどうしても重なってしまう。

 バルブロは目を閉じた。

『およそ七世紀ぶりに、処刑の方法に関して様々な議論が行われました。たとえ遺族に納得のいかない思いが残るにせよ、残酷な刑を復活させるわけにはいかない、という意見が主流でしたが、それでも石打刑に戻すべきだという声は、今日まで消えることがありません。この潮流の中で注目されたのが、キケ・ビジャールなどの作家たちです……』

 瞼を閉じた闇の中で、イレーネの声が聞こえる。緊張に慣れてきたのか、彼女の発表にもう淀みはない。

 爆破事件の犯人は、事件から五年が経った今も勾留されている。その裁判はムルジャン司法にしては異例の長引き方を見せ、未だに終わる気配がない。イレーネは彼女にも会って話をしたという。

 いずれ犯人の首が斬り落とされる日が来るのかどうか、バルブロにはわからない。


 もしも処刑台が爆破されたあのときに、自分が死んでいたとしたら。

 バルブロは何度もそのことを想像した。あのときはふっと意識が途切れて、気付いたら病院にいたのだ。もし命を落としていたら、自分が死んだこともわからないまま、永遠にこの世から消え失せていたのかもしれない。

 生粋のムルジャン人であるバルブロは、公開処刑制度に疑問を持ったことがない。諸外国から非難を受けていることは、知識として知っている。しかしこの制度にも、そして自らの首斬り役人という仕事にも、彼自身は納得と誇りを持っていた。

 今でもこの制度と、首斬り役人という役目に対する意見は変わらないはずだ。しかし、かつて囚人の首に刀を振り下ろしていた自分自身のことを思い出すと、なぜか、どうにも座りの悪い気持ちに襲われる。

(俺が法律の下で与えていた「死」は、果たしてあるべき形の死だったのだろうか)

 少なくとも、爆破事件の犯人はそれに納得していなかった。だから処刑台を吹き飛ばしたのだ。

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