川の中

D・Ghost works

川の中

 僕の村にある川。

 その川は狗流川いぬるがわと呼ばれていた。幅の広い、深い川だ。

 翡翠ひすい色をした水が静かに流れ、きらめく水面に水鳥や魚の影が泳ぐ。流れに運ばれた養分が土を肥えさせ、川の周囲は草木が満ちている。


 台風が来るたび、狗流川いぬるがわは荒れた。

 山からの土が翡翠色の川の水を赤く濁らせ、跳ねた飛沫しぶきが土手を越える。土手の内側にしげる草、木々、そして田んぼや畑は泥水に飲まれて姿を消すのがつね。村の大人たちは台風が来る度に、土手の上から川の様子を眺めては顔に皺を作っていた。


 ※ ※ ※


 夏休みは終わったのに、台風一過が連れてきた残暑の続く日。学校が終わってから、僕は釣竿を担いで狗流川いぬるがわの河原へ向かった。土手の下には大きな水溜りがたくさん出来上がっていて、泥水の中、汚れたフナの死骸が浮いていた。あたりには生臭い空気が留まっていて、浮いたフナの白っぽい腹に小バエが群がっていた。

 僕は生臭い空気を体に入れないように、ふー、息を吐きながら農道を進んだ。流されてきたビニールハウスの残骸が路肩に転がっていて、砂や泥にまみれた大きなビニールは巨大なフナの腹みたい。

 視界に入ってくる木々の幹や葉には、固まった泥がへばりつき、それは僕の身長よりずっと高いところにまであとを残していた。濡れた木々、濡れた草花の青々した生臭さから逃げるように僕は狗流川いぬるがわへ向かう。


 河原に着くと釣竿に糸を通した。静かな翡翠ひすい色の川の流れ。流れは、かすかに風を抱いていた。運ばれてくるムクドリの羽ばたき。自然の音だけが周囲に響いている。釣り針にミミズと通し、川へ放ると、僕は河原に座り込んで振れる竿の先端を眺めながら川の音に耳を傾けていた。

 しばらくすると川の中洲の方から声がした。中州には大きなクヌギの木が数本生えていて、その脇には小さな祠。祠は台風の度に水に浸かるから泥に汚れ、至る所が朽ちている。

 中洲では村の学校に通っている知った顔が数人遊んでいた。水泳着を着た彼らがクヌギの木に登ったり、枝を揺らすたびに葉の中に隠れていたムクドリが空へ逃げた。


 川面で水が跳ねる音がした。顔を上げると中州で遊んでた連中が、釣り針を落とした辺りに石を投げている。


「やめれ、釣れねろ」

「なら、こっちまで来てみ」


 そう言うと連中は僕の方にも石を投げてくる。


「やめれよ」


 僕は中州に向かって石を投げ返した。石は放物線を描いて川を超え、一人の体をかすった。石をかすめた子は怒鳴った。


「おめ、やったな」


 その子は泳いでこっちに向かってきた。他の連中もそれに続く。川は深くて足がつかないから、僕は竿やタモを担ぐと連中が手間取っているうちにそこから逃げ出した。


 来た道とは別の、木々が深く生い茂った農道を僕は走った。高く伸びた雑木が地面に斑な影を落としていて、ぬかるんだ道が靴を汚していく。連中が追ってくる気配はなかったけれど、日の光の届かないこの道が不気味で僕は走り続けた。

 しばらく走ると農道の真ん中に知った顔がしゃがみ込んでいた。彼は地面に転がったたぬきの死骸を覗いている。


「おう、雄太ゆうたか」

たく?」


 狸の死骸を両手で抱えて、拓は顔を上げた。狸の腹はバックリ裂けて、はらわたがはみ出していた。生臭さと、蠅の羽音。拓は抱えた死骸をあやす様に振って蠅を追い払った。


「軽トラに轢かれたんろな」


 拓は狸を抱えたまま林に入った。


「雄太も手伝ってくれや、こいつ埋めてやろ」


 拓は高く伸びた雑草を踏み倒しながら林の中を進んで行く。僕は彼の後をついて行って、林の中に少し開けた場所を見つけると二人で穴を掘った。葉を透かした太陽の光が土の上に青々と模様を作っていた。滴になった汗が土の上に落ち、点々と染みていく。

 大きな穴が掘れると拓は中に狸の死骸を置いた。彼は足で掘り返した土を穴に戻した。彼の白いシャツには土と、死んだ獣の色がついていた。

 僕は近くに転がっていた大きめの石を少し盛り上がった土の上に置いた。


「良い石、見つけたな」


 拓は鼻の下に溜まった汗を腕で擦った。顔に泥の跡が付く。


「今度お供え物でもたがいてこ持って行こう


 拓がそう言って手を合わせた。なんだか儀式っぽかったけど、安っぽい仕草にも思えた。咽返す木々の香りが辺りに漂っていた。



 翌日、僕は拓と一緒に釣りをした。拓はせっかちだったから、あまり釣りがうまくない。まだ餌に喰らいつく前に竿を上げて魚を逃がす。たまに釣れたと思えば、小さなハゼが釣り針を喉の奥まで飲み込んでいたりする。始末が悪い。

 しまいに拓は釣りに飽きて、服とズボンを脱ぐと少し離れた場所で泳ぎ始めた。


「雄太、すげえな。また釣ったか」


 泳ぎから戻ってきた拓は西瓜すいかを抱えていた。近くの畑から盗んで、川の水で冷やして置いたものだ。彼は適当な石で西瓜すいかを割ると欠片を寄こした。甘味は無くて種ばっかり。けど、喉の渇きを癒すには十分だった。

 拓は西瓜にかぶり付きながら、川に浸したタモの中で泳ぐ魚を覗いていた。まだ元気なふなが一匹、腹の中の浮き袋が潰れて、ひっくり返った鮒が二匹、釣り針に腹の中を引っ張り出されて死んだハゼが一匹タモの中にいる。


「すげえな、このふなまだ生きが良い。家の生簀いけすで飼えっかな?」

「拓、この鮒持ってくか?」

「いいんか?」

「代わりに、このハゼくれ。じいちゃんが揚げたハゼを酒に浸すのが好きなんさ」


 帰り道、二人で作った狸の墓に行った。タモの中で死んだ二匹の鮒を墓の前に置いてから、何の気なく二人で手を合わせる。それから肩を並べて家に帰った。



 学校が終わると毎日のように拓と釣りへ行った。拓は相変わらず下手で、飽きると川を泳いで川蟹かわがにやヤゴを取って釣り餌を用意してくれた。魚の釣れた日は二人で狸の墓に寄って、お供え物をした。前の日に供えた魚が墓の前からなくなる事がよくあった。


「狸が墓の中で食ってんかな」


 と僕が言うと拓は笑った。


「野良猫が持って行くんだろ」




 夕日で赤く輝く狗流川いぬるがわが見える。河原に伸びた二人の座った影。拓の服から、生乾きの臭いがする。魚の鱗が付いた僕の手は、生臭い。


「雄太、泳げねんか?」


 中州のクヌギの木でムクドリがギャアギャア鳴いていた。だいだいに煌めく川の上を黒い群れが飛んでいく。


「いや、泳げっさ」

「じゃ、なんで泳がねん?」

「じいちゃんに狗流川で泳ぐなって言われてんさ。じいちゃんが子供の頃、ここで子供が一人いねなったいなくなったんよ。だすけだから大人が集まって川潜って探したら、子供の死体咥えた、でっけ亀が出てきたんだて」


 拓はその話を聞いて笑った。笑う度、手に提げたバケツの中で魚が跳ねた。


「雄太、おめお前、騙されてるわ。んな亀いねって」

「わかってっけど、川じゃ泳ぎたくねんだ」


 拓は相変わらず笑っていた。


暑っちすけ暑いから、泳いでから帰るわ」


 バケツを置くと、拓はシャツを脱いで川へと歩いていく。


「もう遅っせっけ、帰ろてば」

「先にけえってれ帰ってれ、すぐ俺もけえるわ。明日また魚釣ろうや」


 彼はざぶざぶと川に入っていく。


「すぐ上がって、けえれよ」


 僕は拓の背中に怒鳴った。それから釣竿とタモを持って先に家に帰った。



 翌日も学校が終わると、拓と釣りをしに河原に来た。

 河原に向かう途中、拓は畑から西瓜すいかを一つ盗んだ。釣りの途中に食べた西瓜は珍しく甘かった。拓の釣りの調子も良くて、彼は数匹のハゼの他に、大きなこいを引っ掻けた。鯉は拓の体を揺さぶりながら岸に近づいた。僕は岸に近づく鯉をタモで捕まえると拓と一緒に河原へ上げた。


「すげえ、こんなでっけでかいの釣った事ない


 僕は河原に上がった鯉を見て興奮していた。拓は意外と落ち着いていて、タモに入れた鯉を川の水に浸した。鯉は浮き袋がねじれたらしく、横向きになって浮かんでいた。


「この魚、お供え物にしていいか?」

「拓が釣ったんだっけ。拓が決めれ」

「ありがとな」


 そう言うと拓はタモから鯉を出して、狗流川いぬるがわの流れに乗せた。横を向いて、口をパクパクと動かす鯉は下流へゆっくり流れていく。剥げた鱗が夕日を浴びて水面にキラキラ漂った。


「お供えにすんろするんだろ? なんで川に流したん?」

「これでいんさ良いんだ。こっから流すだけで十分」


 拓は一人納得して、流れていく鯉を眺めていた。

 それから釣りに行くと、拓は毎日魚を捕った。拓は捕った魚のほとんどを川に流した。魚を川に流すようになってから、僕たちは狸の墓には行かなくなった。



 ある日、釣りを終え、拓と別れ、一人で歩いている時、タモを河原に忘れたことに気付いた。まだ日は高かったから、僕は小走りで河原へ向かった。林を抜けると川のせせらぎの他に人の声が聞こえた。

 中州で同じ小学校の子供が数人、岸に向かって口を尖らせている。


「おめら、そこで遊ぶな!」


 河原に拓がいた。拓は中州で遊んでる連中に向かって怒鳴っていた。


危ねすけあぶないから、そこで遊ぶな!」


 中州で遊ぶ連中は野次を返した。そのうち一人が石を投げた。石は拓の額にぶつかり、血が一筋垂れた。

 それから拓は少し上を向いて、鳴いた。

 甲高い獣みたいな声で。その音はよく響き、木の影に隠れていた僕にも聞こえた。ムクドリがギャアギャア鳴きながら一斉に飛び立ち、空が真っ黒に染まった。拓は鳴き終えると林の中に姿を消した。中州で遊んでいた連中は青い顔して、すぐに中州から出た。

 僕はタモを忘れたまま、その光景を眺めていた。拓が林の中に消える直前、彼のシャツの下から大きな丸い尻尾が見えたような気がした。



 次の日、拓が学校を休んだ。久しぶりに一人で通学路を歩く放課後。同じように家へ帰る学校の生徒たちの足音に交じって、息を切らして走る大人の気配を感じた。

 振り帰ってみると気配の主は僕のお母さんで、僕を見つけるなり泣き崩れた。


「良かった、雄太。生きてた。良かった」


 そう言ってお母さんは僕を抱きしめるのだけれど、僕は何がどうしたのかわからない。学校帰りの知った顔が周囲にチラホラいるから恥ずかしいって感じる方が強かった。


「なに? なにがあったん?」

「雄太、今日どこ行ってた? 狗流川いぬるがわには行ってねえな?」

いがねよ行かないよ。学校あるもん」

「そうか。そうか、良かった」

「それで、なにがあったん?」


 お母さんは家に着くまで僕の手を離さなかった。それから茶の間に座って少し気を取り戻してから「落ち着いて聞いてな」と前置きして、


「おめの友達、拓君が狗流川で死んでしもた」


 お母さんの言葉を咀嚼するのに時間が必要だった。


「さっき駐在さんと拓君のお母さんから電話があってな、おめお前も一緒に川に行ってないか聞かれて、だすけだから慌てておめのこと探しに行ったんだわ」


 言葉の意味を考えているうちに耳の奥がキーンと鳴っているような気がしていた。


「昨日も拓君と遊んだんろ? お巡りさんが話聞かせて欲しいって」


 しばらくすると駐在所のお巡りさんが家に来た。お母さんが淹れたお茶を啜りながら、駐在さんは神妙だけど優しそうな眼差しで僕を見た。


「お母さんから話は聞いたか?」


 僕は頷くと、駐在さんは軽く咳払いをしてから言った。


「昨日、石関いしぜきさんとこの拓君に会ったか?」

「一緒に狗流川で釣りしたよ」

「何時くらいまであってた?」

「……日が暮れる前には家に帰ったよ」


 中州に向かって鳴いている拓の姿を思い出した。まだ耳の奥がキーンって鳴ってる。あの光景が夢で見た景色のように感じる。


「特に変わった事はねがったかなかったか?」


 鳴いていた拓の事を黙っていようと思った。


「ねがったよ。駐在さん。拓、本当に死んじゃったん?」

「……ああ」


 小さく駐在さんは頷いた。彼の息から、煙草の臭いが漏れた。


「明日、焼き場に持ってくから、ちゃんと最後の挨拶しに行け。友達だったんろ?」


 駐在さんの言葉に頷くと、年老いた彼の手が僕の頭を撫でた。



 翌日、両親に連れられ拓の家に行った。拓の親戚や同級生が集まっていた。拓のお母さんは暗い顔をしていて、子供心に話しかけてはいけない気がした。

 周囲の大人の話に耳を傾けると、拓の遺体は腐敗が進んでいて一週間以上前に死んでいたらしい、と眉をしかめていた。

 拓の入った御棺は蓋が閉じられて顔を見る事は出来なかった。御棺の前で手を合わせても、なんで自分がこんな事をしているのかわからなかった。


 坊さんがやってきて御経をあげ始めると、僕は退屈でその場から抜け出した。拓の家の庭には大きな生簀いけすがあって、軒先から生簀の中が見える。その中をふなこいが何匹も泳いでいた。しばらく木魚の音を聴きながら生簀を眺めていると、庭で獣の声が響いた。甲高く、とても長い間、鳴いていた。

 顔を上げると、庭先に狸が一匹いた。目が合うと狸は家の外へ駆けて行った。僕は立ち上がり、玄関まで走った。


「どこいぐ行く?」


 お父さんが声を掛けてきた。


「ちょっとそこまで、すぐ戻っけ」

「ダメだ。ここで待ってれ」


 僕はお父さんの声を無視して玄関に向かった。玄関先で後ろを振り返った狸が待っていた。靴を履き外に出る。お父さんが怒鳴っている。


 狸は狗流川いぬるがわまで走って行った。何度となく通った道は日が暮れて暗くなっていく。明るい時とは違う狗流川いぬるがわに変わっていく。やぶの中で虫が鳴き、いたる所でやかしいほどカエルの声が響いている。

 林を抜けて河原に着くと、ムクドリの群れが向こう岸から、わっと飛び上がった。ギャアギャア喚きながら、紫色に変わった空に黒い塊が飛んでいく。翡翠ひすい色の水面は今は真っ黒くて月の明かりが揺れていた。


 河原のどこにも狸の姿はなかった。中州に生えたクヌギの木から、ムクドリの喉を鳴らす音が響いているだけ。

 置きっぱなしにしていたタモが河原に転がっていた。僕はそれを拾うと道を戻った。林の中は真っ暗くて一人で歩くのは心細かった。ムクドリの鳴き声に何度も肩が跳ねた。

 甲高い獣の声が聞こえた。ちょうど拓と狸の死骸を見つけた場所だった。

 林の中で、もう一度、獣が鳴いた。狸の墓の方から聞こえた。僕は暗い林に入って墓まで歩いた。

 墓の前に最後には置いた魚が転がっていた。魚は腐っていて、うじが湧いていた。僕は腐った魚を蹴り飛ばして、代わりに墓の前にタモを置いた。それから墓の前にしゃがんで、一度手を合わせた。

 その時、本当に拓は死んだんだって感じた。



 土手の上を歩く頃には日が暮れていた。

 月と星が空に広がっている。焼き場の方向から煙が昇っていた。煙は風に流され、僕から遠くへと運ばれて行った。土手の下の狗流川いぬるがわは煙と同じ方向へ流れている。

 林からはムクドリの声が響いている。不思議と、もう、その声は恐ろしくなかった。

 その時、土手の下からムクドリが一斉に飛び立った。僕は狗流川いぬるがわに目を向けた。

 中州にあるクヌギの木からムクドリの塊が飛び立つ。

 クヌギの木がゆっくりと斜めに倒れる。

 地震のように中州が揺れ、川から持ち上がる。

 中州のすぐ横、真っ暗な川面が泡立ち、歪む。そこから巨大な亀が顔を出した。

 亀はスッと首を伸ばして、空を飛ぶムクドリの一匹を食らうと、また狗流川の中に潜って行った。

 僕は潜って行く亀の頭を眺めながら、川の流れと、煙の流れと共に土手を歩いた。


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