後編
霊的なものや妖怪に耐性があったわけではない。最初は本当に、ただの迷子だと思っていた。
行動を共にするにつれ怪しさは感じたが、今さら見捨てることは出来ないと連れ立ってしまい……その時すでに、僕は取り憑かれていたのかもしれない。
「白い菊って、どんな時に使います?」と花屋で尋ねた時、店員さんは遠慮がちに目を伏せた。
「弔いの花」
一時間に一本しか通らない田舎の路線。二両編成の先頭車両、乗客は十人もいない。ロングシートに腰掛け、車窓から見える海を眺めていた。
キラキラチカチカ、太陽の光を反射して海面が輝く。
「もし私が鬼だと仮定して」
ハナオが話し始めると同時に電車はトンネルに入り、景色は闇に変わる。
「お兄さんは殺されるってわかって、私についてきたの?」
「……ハンカチ、盗られたからね」
トンネルを抜けて、陽の光が車内に差し込んだ。海は見えなくなっていた。線路は木々ばかりの山中に続いている。
頭がぼうっとする。思考がうまく纏まらない。
「僕は君に取り憑かれてるのかな?」
「取り憑くっていうより……魅了、だと思う」
「魅了か。悪くない言葉だね」
「……逃げないの?」
「逃げていいの?」
笑いかけてみたが、ハナオは僕を見てくれなかった。
再びトンネルに入った。鏡のようになっている車窓にハナオの姿は映らない。
「お兄さんは大丈夫、お客さんだから」
言葉の意味がわからず、膝の上に置いている菊の花束を見つめた。五本、と彼女は指定した。五という数字になんの意味があるのだろう。
ワンマン列車の運転手にお辞儀をしてホームに降りる。ハナオは当たり前のように僕についてきた。やはり僕以外誰も、彼女の姿を捉えていない。
恐怖よりも優越感が勝る、妙な気持ちになっていた。
「山道を行くから制服、汚れないようにね?」
舗装された道路の脇から、山の獣道へ入り込むハナオのあとを、僕はふらふらした足取りで追いかけた。
そういえば鞄はどうしたんだっけ? いま何時……学校は?
学校?
パキッ
と、小枝の折れる音が聞こえた。
顔を上げると竹藪の中だった、人里は見当たらない。電車を降りてから随分と、無意識に歩いていたようだ。
足が勝手に進む。やめろ止まれという伝令は、身体に伝わらない。
足音なく歩くハナオは振り返りもしない。
『おうちにつれていって』と、ハナオは言っていた。迷子じゃない、僕をここへ連れてくることが目的だった。
花緒地区にはある噂話がある。
大昔、災害があって町が一つ潰れた。そこに鬼が住み着き、人間を捕まえて喰らうのだと。
彼女が、ハナオがその鬼……いや、違う。だってそれならば、なぜ彼女は三駅も離れた町にいた? 人を喰いたいなら、その場で襲えばいいのにわざわざ……
『白菊は、弔いの花ですよ』
花屋のお姉さんの声が、脳に蘇った。
「ありがとう、お兄さん」
ハナオが振り返ると同時、太陽の光が視界に入り、木々がない開けた場所に出た。
瓦屋根の平家が五軒、畑の合間を縫うように建っている。一番近い民家の前に、麦わら帽子を被った三十代前後の女性がいた。彼女は顔を上げると、僕達のほうを見てにこりと微笑んだ。
「おかえり」
途端、郷愁を感じて胸が締め付けられた。花束を持っている方の掌を、ぎゅっと握りしめる。
「あ、ただい……」
「ダメ」
歩み出そうとする僕の腕を、ハナオが掴んだ。
「お兄さんはお客さんだよ」
僕を制すハナオの横を、虫取り網を持った少年が横切った。
「ただいま、母ちゃん」
薄汚れた白シャツに空色の半ズボン。ハナオと同年代の男の子は母親の元へ駆け寄ると、虫籠を掲げて笑顔を見せた。それを合図とするかのように、他の民家からぞろぞろと人が出てきた。
虫取り網の親子を囲んで談笑している。人間に見えるが現代人ではない、男性は全員が刈り上げの同じ髪型、白シャツに半パンという服装。女性はもわっとしたショートボブに、スモッグを身に付けている。
「花緒地区は大昔、およそ百五十人が暮らす町だったの」
町民達を見ながらハナオが言った。
「五十年前の今日、午前十時十九分を迎えるまでは」
はっとしてスマホを確認する。
時刻は午前十時十五分。
「お兄さんが言ってた噂話、もう一回教えてもらっていいかな?」
「人喰い鬼の話?」
「その前の部分。どうして鬼はここに住み着いたの?」
「花緒地区は大昔、災害で町が潰れて……」
自分の言葉で気がついた。ハナオを見ると、「正解」とでも言うかのように優しく微笑んでいた。
「午前十時十九分、氾濫した川の水と土砂が町全体に注ぎ込む。その年は雨が酷くて、前日の雨量も酷かった。雨が上がってしばらくして、晴空の下でその余波が来るなんて、誰も想像していなかった」
スマホの時計が時を刻む。
十時十六分を回った。
「逃げ……逃げて」
叫んだつもりが、声が出なかった。
わかってる、無駄だって。
だってこれは、僕が見てるのは過去の出来事で。
彼らは五十年前の今日に存在していた過去の人達なんだ。
「五年前にもね、私が視えてる人がいてここに連れて来ようと思ったの。だけど気味が悪いって途中で逃げられて……人喰い鬼が住んでるなんて噂流したんだ、あの人。そのせいで余計に誰も、この町に近寄らなくなった」
「君は誰かを、この町に呼びたいの? だから僕をここに連れて来たの?」
「誰も参拝しなくなった神社には神様がいなくなるって言うでしょ? だけど私たちは、あの人たちはそうもいかない。ずっとここに居て、この土地で暮らしてる。知ってる? 人が本当に死ぬ時って心臓が止まった時じゃないの、誰の記憶にも残らなくなった時だよ。私を含めこの町の人々はね、外の人、お客さんが大好きなの」
すっと、ハナオが足を踏み出した。
ふわりと舞う浴衣が、軽そうな身体はどう見ても、人間のそれではなかった。
「振り返ってくれたのがお兄さんでよかった」
「……ハナオは、何?」
「それ、苗字なの。下の名前はセキヒ」
「セキヒ……」
瞬時に理解した。
その途端、ぐらっと景色が歪んだ。
土が唸るような鈍い音、町民達が顔を上げると同時、ハナオが片手を振って微笑んだ。
「ありがとう、お兄さん。また来てね」
「待って……まっ」
届くはずがない。手を伸ばしても掴めるはずがない。身体がよろめいて地面に膝をついた。
顔を上げると町が消えていた。
照りつける眩しい日差し。木々が生茂る山中にある開けた場所。その中央に、巨大な石が二つ積み重なっていた。
「
巨大石に書かれている文字を読み上げた僕の足元には、ピンク色のハンカチが落ちていた。左手には菊の花が五本。白、黄、淡黄、紫、ピンク、弔いの花束。
苔や汚れが目立つ古い石碑、雑草が生えた石段。花束を供えると、パラパラと小雨が顔を打った。
十時、十九分。
喧騒は聞こえない。微かな雨の音が消えた後、さぁっと風が耳を通り抜けた。
石碑側面に刻まれているのは五十年前の今日の日付、その一年後に石碑を建てたという記録。
『私を含めこの町の人々はね、外の人、お客さんが大好きなの』
風の中にハナオの声が聞こえて、ぎゅっと掌を握りしめた。
*
通学路、振り返ると学校帰りの同級生達がいた。
サボりか、なんていう揶揄をかわし、スマホの画面を見せつける。
「なに? ツイッター? 登録したの?」
首を傾げながら、僕のスマホを眺める同級生達。やがて他の生徒達も集まって、賑やかさが増す。
生きてるよ、僕は生きてる。
この時代で。
この町で。
僕らがあの町へ行けば、彼らは喜んでくれるだろうか。違う町の、違う時代のお客さんを、歓迎してくれるだろうか。
その時が来たら、一人一本の花を持って行こう。石碑にはたくさんの花が飾られてきっと、大輪の花束となる。
「あのさ、消したい噂と広めたい噂があるんだけど。バズり方、教えてくれない?」
消したい噂はもちろん、人喰い鬼の話。
広めたい噂は出来るだけポジティブな、みんながあの町に弔いの花を捧げたくなるような文が良い。
忘れないように、あの町で起きたことを風化させないために。
花緒石碑が建てられたのは災害からちょうど一年後、つまりハナオは今年四十九歳で、来年五十歳の誕生日を迎える。
来年の同じ日、君が僕達を探しに来ないように。
通学路、振り返ると君がいるなんて状況にならないように。
僕が会いに行くよ。
五十年目の君の誕生日に、五本の花を持って。
五色の菊の花冠を、君の町へ。
菊の花冠を君の町へ 七種夏生 @taderaion
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