残留思念
藤井杠
覚え書きのような
人の心というものは移ろいやすいもので。
空を飛んでいるかのように気分のいい時もあれば、ここから消えてしまいたくなるくらい気分が沈む時もある。
出来れば、せめて死ぬときは少しでもましな気持ちであってくれ。
そう思いながら眠りについて、
ある時に意識がひゅうっと飛び出して、そこの壁にとりついた。
それが僕。
目を開けると、そこは見慣れぬ部屋の中だった。四畳半、薄汚れ、穴のできた障子に囲われた部屋の中にいるのは1人の書生。沢山の本の中に、埋もれるように座っていた。
壁にとりついた僕は特に何をするわけでもなく、ただその書生の様子をぼうっと眺めていた。
来る日も来る日も同じことの繰り返し。まぁ退屈と言えばそうなんだけれど、この時は時が有限とも思えなかったもので。
何かに没頭していないと、溶けて消えてしまいそうだったから。
ついでに日記をつけてみるか。そう思い立ったのは、この書生の大きめの独り言が、やや多かったためでもある。
『子供の声が、窓からよく聞こえる日(時計や
小さな虫が壁の周りを目ざとく飛んでいた日。部屋には以前より書きかけの紙が増えていた。書生はいつものように部屋の真ん中に座り、何かを書き留めていた。筆は止まることなく、しかしその紙はしばしばくしゃくしゃに丸められているので、気になるその内容を見ることは出来ない。書生は灯りを消して、布団の中に潜り込む。時折、布団がもぞっと動くような気配がする。
雨音がうるさい日、書生はいつものように筆をとり、何かを紙に書いていく。雨音もあるせいか、今日の書生は口数が少ないようにも思える。
同じことをして、時に無駄なことをして、そうして、時は過ぎていった。
いくばくか日記のページが埋まってきた時、その書生は他の者との交流が極端に少なく、いつもこの部屋の中に居ることに気がついた。
何てつまらないやつだろう。最初はそう思った。しかし、この書生を眺めることしか壁の僕にはすることが出来ず、そのまま観察を続けた。
そうしていると不思議なことに、書生に愛着に似た感情のような、興味が芽生えてきた。この書生は、どうしてこの部屋に居続けるのか。この書生は何を書いているのか。
もしかしたら、僕と同じように日記を書いているのかもしれない。
けれど、この部屋の中にずっと居るだけで、何か書くことがあるのだろうか。僕のように何か観察対象があるわけでもないのに。
そう思うと、何故か僕は自分が壁だということも忘れて、なにか動きたくなった。この書生が気づくような、何かを。
それでも僕は、何も出来ない。
この書生を見ることしか。
とある夜(障子の外は暗く、外からの物音もほとんどしなかったため、こう記す。)あの書生は珍しく部屋の外へ出掛けているようだった。部屋の中は暗く、いつもの筆や紙の擦れる音がしなかった。こうなると、僕は眠くなってしまうのが常である。
うつらうつらとする意識の中、遠くの方で何かが倒れるような、大きな物音がしたような気がしたけれど、僕はそのまま眠ってしまった。
おそらく、次の日の朝。障子の外から柔らかな光が、部屋の中に注がれていた。ほんのりとした暖かさに気持ちよくまどろいながらもしかし、そこにいつもの書生の姿は無かった。
日記をつけ始めてから、このようなことは初めてだった。
きっと、あの書生はこの部屋を離れて何処かへ行ってしまったのだろう、そう思った。
あの書生を見ることがなくなってから、日記をつけるような出来事もなく、部屋の中で他に動くものもなく、次第に僕が眠りにつく時間は長くなってきた。まぶたを開ける回数も次第に少なくなり、意識も日中ずっとぼんやりとしてしまう。
それでも時折、あの書生のことを思い出すように、過去の日記をめくる。
あの書生は、どうしているだろうか。
いつからか、この部屋にはよく日の光が当たるようになった。それは、まぶたの外の変化から感じることが出来た。暖かな光は僕の居る壁を照らし、その熱はまどろむ心の奥にまでなじむようだった。
そして、どれくらいの時間が経ったのだろう。
僕は唐突に、この壁になる前のこと。おそらく、人であったときの記憶を掘り起こしていた。
人は皆、観察者になりたいのだと思う。
だったら私は、世界の観察者になりたい。
雲のように流れて行き、時に人のような形をとって、何かを雑踏の中から眺める。
誰かしらの評価や感想や価値も無い、自分だけの世界の心で生きることが出来たなら。
そう思い付いたとき、次に考えるのはどのようにしてその観察者になるか、ということである。
人生なんの因果か、この世界で生きる以上、他者との関係無くしてはほぼ不可能になる。
しかし、私の横に他の誰かが居ては困る。それはいつも私に干渉し、私自身の可能性を少なからず削いでいくからだ。私は、私だけの考えでこの脳を作りたいのだ。
…なんだか最初の考えと矛盾しているような気もするが。
とにかく、そのような状況を作り出すためには、幽霊のような存在でもなければ難しい。
生きるのは面倒くさい。なぜ、私の目的は生きていて満たされないのか。
そんなことを、今よりも視野の狭い僕は考えていた。
あぁ、僕は死んでしまったのか。
気づいてしまった。
けれど、それももう時間切れのようで、これまでに無い眠気が僕を襲った。おそらく、これが最期だろう。
そして、消える間近に考えたのは、自分のこれまでではなく、あの書生のことだった。
この部屋にずっと1人で、何かを書き留めていた。
それが誰かに読まれることはなかったかもしれない。世間に認めてもらえることはなかったかもしれないが。
それでも、ここに1人、君を見ていた者が居たことを。
あぁ。
そこまで考えて、所詮自分が無力なただの壁であることを思い出した。
そして、この日記の隅に、小さくこう記した。
「できれば、あなたは幸せでありますように」
初めて、僕が他人を想えた瞬間だった。
それまでは自分中心の、自分の欲を満たすためだけに動いていた僕が。
他者のことを思うだけで、こう苦しくも、あたたかいとは。
この気持ちは、どうか次に続きますように。
…今度は、人と話ができますように。
日記の端をちぎって、小さな独白をそっと、手のひらに握りしめた。
そして僕は、これまでで1番深い眠りについた。』
日記はそこで終わってしまった。
そして、書生の部屋の灯りは後にともることはなく、
この壁もまた、そのままである。
残留思念 藤井杠 @KouFujii
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