あかい手と手を

カント

本編

 赤い女が出る、という噂を聞いたのは、確か先週のことだ。


 情報源は、中学の友人達。なんでも、噂を聞いた人は、一週間で五人以上に話を広めないとダメらしい。でないと、赤い女がやってくる――。


「そういうの、定期的に流行るよねぇ」


 隣を歩く智子はけらけらと笑った。彼女は噂を信じないタイプだ。私も同じ。だから、私と智子は馬が合う。彼女とは高校に入学してからの付き合いだけど、もう一緒の帰宅が日常だった。


「で、その赤い女って、何なの? 妖怪?」


「たぶん、そんな感じ」


 私達は帰り道――住宅地を貫く長い一本道を、のんびり進んでいく。道の両脇は、昔ながらのブロック塀。定間隔で立つ電柱を細い電線が繋げていて、とにかく単調な光景だ。


 私は話を続けた。その女性は夕暮れ時、電柱の傍らに現れるらしい。彼女は子供の頃に酷い虐待ぎゃくたいを受け、顔がみにくく歪んでいる。だから、容姿を噂されたり、見られるのが許せない。


「可哀想だよね。見られたくない、って私、分かるもん」


「でも、どの辺がの、それ?」


「えっと」


 スマホを取り出し、チャットアプリの履歴を開く。赤の由来、それは。


「真っ赤なワンピースを着てるから、だってさ。それは殺した人たちの返り血で――」


「え、洗濯しなよ。せめて新しい服、買えば?」


「真っ黒な帽子を被ってて、近づかないと顔は見えない。けど、もし顔を見ちゃったら、その人ははさみで――」


「ええ~、向こうからやってくるくせに、見られた! 切る! って? どうよ?」


「あのさぁ」


 非難の目を向けると、智子はまたけらけらと笑った。ごめんごめん、と言って、彼女は学校鞄を持ったまま、大きく伸びをする。その鞄の持ち手に吊るしているものが、他の子のような可愛い小物ではなく、平凡な健康祈願のお守りであるところも、実に智子らしい。


「でもさ、何だか雑じゃん、その話。不審者が出る、って言われた方がまだ怖いよ。思わない?」


 確かにそうだ。だけど、その指摘は流石に野暮な気がする。


「で、赤い女の到来予定日はいつなの?」


「到来予定日?」


「だって、噂を広めないと来るんでしょ、その赤女」


 どうやら智子は、私が噂を広めていないと決めてかかっているらしい。……事実、その通りだけど。


 もう一度、チャットアプリを開く。噂を聞いた日付から逆算すると……。


「あ」


「ん?」


「明日だ」








 翌朝、私は雨の音で目を覚ました。スマホを見ると、時刻は四時三十分。どう考えても起床には早い。損した気分だ。


 中途半端な眠気。ぼんやりした頭。その中で、ふと私は、部屋に射し込むかすかな光に気づく。どうやら、ベッドの脇、窓にかかったカーテンが閉まりきっていないようだ。私は仕方なく上体を起こした。カーテンに手を伸ばし、ついでに雨模様を確かめようとする。その時。


 カーテンと窓枠の隙間に、真っ黒な影が見えた。


 怪訝けげんに思い、窓へ顔を近づける。直後、それは、ドン、と窓に自身を打ち付けた。あまりにも突然で、私は驚きのあまりベッドの縁から滑り落ちてしまう。


 混乱の中、再び窓の向こうへ目を遣る。


 楕円形の何かが、外から私を見つめていた。大きさはちょうど、人の頭くらい。見ている間に、影はフッと窓から離れていく。だけど、私はどうしてか、理解していた。窓の外の誰かは、首を後方に仰け反らせている。そして、再び――窓に頭を叩きつける。


 ドン、という、乱暴で暴力的な音が響いた。


 そこで。


 私は目を覚ました。


 ……全身に汗をかいている。体はベッドの上。カーテンは閉めきられていて、外からは強い雨音がする。


「変な夢」


 上体を起こし、頭を振る。悪夢を追い払うように。時刻は……六時三十分。起きなければ。


 ……私はゆっくりと、カーテンに手を伸ばす。


 思い切り。


 開いてみる。


 灰色の空と町が、気怠けだるげに私を見返していた。








 その日は終日、雨になるとのことだった。


 校舎の三階、教室の自席から、私は容赦ようしゃなく雨の降り注ぐ校庭を見ていた。授業中で、智子が黒板の前に立ち、数学の問題を解かされている。残念ながら手も足も出ないようだ。見かねた傍の先生がヒントを出す度に「これで解けます!」と智子が豪語するものだから、教室には笑い声が起きていた。私も同じく噴き出していたのだけれど、ふと校庭の隅に目を遣った途端、体は固まった。


 土砂降りの雨。校庭のあちこちに広がる、灰茶色の水たまり。泥に塗れ、汚らしく濡れているトラック線。


 その奥。


 閉じた校門の陰に、何かが立っている。


 それは、ゆらゆらと揺れていた。揺れる度に、服の端が門柱から見え隠れする。着ているのは、ワンピース、だろうか。背は高く、被っている真っ黒な帽子が、体と共に揺れている。……いや。


 揺れている、というより。あれはまるで。


 頭を、門柱に、何度も打ち付けているような――。


「――おーい、どうしたの?」


 声がすぐ傍から聞こえて、私は我に返った。智子が怪訝そうに私を覗き込んでいる。他のクラスメイト達は、居ない。誰一人として。


「数学、もう終わったよ? 次は移動教室。早く行こうよ」


 終わった? いつの間に?


 私はしばらく呆けてしまった。そんな私に、教科書とノートを小脇に抱える智子の表情が、真剣なものへと変わっていく。


「大丈夫? なんか今朝から変だよ?」


「今朝から?」


「うん。ずっと上の空、って感じ。何かヘンなもの食べた?」


「そんなわけないじゃん」


 私は笑ってみせて、机上を片付ける。だけど、次の授業の教科書を取り出した時、急に不安になった。


「ねえ」


「なに?」


「いま私、ちゃんと笑ってた?」


 どうして、そんなことを気にしたのだろう。分からない。だけど、気づいた時、私は智子へ尋ねていたのだ。


「笑えてた? ねえ、どう? 笑えてないとね、また殴られるの。目が生意気だとか、泣くなとか言われて」


「ちょっと」


 智子が強く私の両肩を掴んだ。やっぱり変だよ、どうしたの。そんなことを言われた。なのに私は、それよりも、取り出した教科書をじっと見つめてばかりいた。


 教科書は真っ赤だった。


 真っ赤だったのだ。








 天気予報は嘘つきだ――そう思わずにいられない、巨大で真っ赤な夕陽が、いつもの一本道の先に浮かんでいる。


 私は閉じた傘を片手に、小さなクマぬいぐるみを吊るし付けた学校鞄をもう片手に、独り帰路に着いていた。


 智子は居ない。彼女は保健委員で、今日は委員会活動があるとかで、どうしても一緒に帰れないそうだ。


 彼女は随分と私を心配していた。だけど、どうして? 分からない。私はいつも通りだ。いつも通りに、この道を帰る。


 両脇の、延々と続くブロック塀は、一部が暗く濡れたままだ。地面にも点々と水たまりが出来ている。そこに反射する夕の陽は、まるで私の目を焼こうとしているかのようだ。


 雨があがっても、じめじめした空気は居座ったまま。黙って歩く私の肌に、半袖のシャツがまとわりつく。風は無く、息を吸い込んだら、直前に吐いた空気がそのまま戻ってくるようで、妙に息苦しい。


 ふと。


 ドン、という重苦しい音が、湿気た空気を伝ってやってきた。


 私はこの音を知っている。今朝聞いた、あの音だ。いや、教室にいる間も、ずっと聞いていた気がする。


 これは、打ち付ける音だ。自らの頭を、顔を、強く、思い切り、眼前に打ち付ける音。音がする度、方々の水たまりで一斉に波紋が広がるくらいだから、かなりの力なのだろう。


 そんなに自分の顔が嫌いなのかな。


 考えながら、私は行く。足が止まらない。自分の体でなくなったみたいだ。


 どうしてだっけ。


 これでは、蝋燭ろうそくの炎に吸い寄せられる羽虫と同じだ。智子も言っていた。変だよ、どうしたの。


 分からない。だけど、行くしかないんだよ。逃げ道なんてないんだよ。


 ドン。


 音が響く。


 見えてきた。


 数本先の電柱。そこから強烈な鉄の匂いが漂ってくる。腐臭も。鼻が壊れそうだ。


 今や私の喉はカラカラで、あの降り続いていた雨が恋しくて堪らない。雨は洗い流してくれたはずだ。音も、匂いも、おかしくなった私自身でさえも。


 私の足は止まらなかった。


 私の体は止まれなかった。


 彼女まで、もう数メートルしかない。


 夕陽を背に、両手で電柱を掴んで。水たまりに素足で立って。赤いワンピースに真っ黒なつば付き帽子という出で立ちで。


 延々と、一定の間隔で電柱に頭を打ち付けている、彼女。


 帽子の影と逆光で、肩から上は真っ黒。それでも、近づくにつれ、彼女の頭部が徐々にはっきりしていく。


 吐き気がこみ上げてきた。


 目の奥が酷く痛む。


 音が止んだ。


 足が止まる。


 私は瞬きも出来ず、眼前の彼女の、歪んだ顔を見つめていた。左の眼窩がんかが異様に大きく、鼻筋がぐにゃりと折れ曲がり、そのせいで右の眼窩が欠けた卵のように変形している。上顎うわあごと下顎がずれていて、口はだらしなく開かれ、熟した果実のように膨らんだ歯茎に、焦げ茶色の歯が一本だけくっついていた。その口の中へ、何度も打ち付けられてれあがった額の傷から、うみと血が流れ込んでいる。


 吐き出される息は、肉の腐った臭い。ひゅうひゅうと、隙間風のようなかすれ声も聞こえる。私の声は出ず、足は鉛になったかのように動かない。目も、喉も、鼻も、全ての器官が捕らわれたかのようだ。


 びり、と、紙を裂くような音がした。


 涙が頬を伝った。


 腫れあがった彼女の額の傷が、ゆっくりと広がっていく。ひな卵殻らんかくを破ろうとしている様が私の脳裏をよぎり、そしてそれは嫌気がさす程に的を射ていた。広がる傷の下から何か鋭いものがきらめき、出血と共に彼女の顔は裂けていく。


 べろりと破れた皮膚の下から現れたのは、てらてらと血に塗れた和鋏わばさみ。そして、そのはさみを握り締める手。細い手首。骨ばった腕。ゆっくりと、虫がうような動きで、その第三の腕は振り上げられていく。赤い。何もかもが赤い。赤の匂いが充満している。


 私は悟っていた。眼前の鋏。その次の獲物が。


 私自身だということを。


 鋏が振り下ろされた。


 空を切る音がした。


「走るよ」


 不意に、私の肩を誰かが掴んだ。ぐん、と、強い力で私は後ろに引き戻され、鋏は私の眼前を切り裂く。


「早く!」


「智子」


 背後に現れた友人の姿に、私の体は動き始めた。智子は強引に私の手を掴み、引きずるように駆ける。私もそれに従う。赤い女とすれ違い、それから、一本道を全力で走っていく。


「智子、どうして?」


 頭の中の霧が晴れたかのようだった。一斉に疑問が脳内を巡る。委員会活動は? どうしてここに? あの人は――。


「ていっ」


 一本道が終わり、突き当たりの丁字路を曲がった直後、智子は私の脳天にチョップを繰り出した。軽い衝撃に、「痛いよ」なんて言いながら頭をさする。だけど、それは私を落ち着かせる為だったのだろう。


「今日のあんたの様子がおかしかったから、付いてきたんだよ。だけど良かった、間一髪」


 智子がそう言った瞬間、ドン、という低い音が響いた。すぐ後ろからだ。私は目を見開き、智子はゆっくりと私の背後へ視線を向ける。


「ねぇ」


 私は尋ねる。


「居る?」


 智子は答えない。


 だけど、分かる。むせ返るような悪臭と掠れ声が、私の耳のすぐ後ろで放たれているから。


 言われずとも理解していた。きっと。


 振り返ると同時に、私は。


「大丈夫」


 ――智子が言い放った。その視線は今、私を真っすぐ捉えている。


「行こう。振り返っちゃダメだよ」


「だけど、もしかして」


 逃げられないんじゃ。


「逃げるんじゃない。歩くの。目を向けないで、相手にしないで、真っすぐ歩いて帰るんだよ」


 震える私に、智子は続けた。落ち着いた口調で。


「他人に同情したり、可哀想って思ったりって、悪いことじゃないと思う。でも、それをいいことに近寄ってくる、迷惑なヤツだっているんだよ。だから、きっぱり態度で示さなきゃ。『あんたとお付き合いする気はありません』って」


 後ろ髪が、背後からの生温かい息で、揺れた。虫に這われるようなおぞましさに、思わず飛び跳ねそうになる。


 そんな私の肩を、智子はがしりと掴んだ。


「大丈夫。私が一緒に居るから」


 強い眼差しだった。


「ね。帰ろ」


 智子が手を差し出してくる一方、また生温かい息が首筋にかかってくる。掠れ声がする。……私はその時ようやく、背後の彼女が何と言っているのか、理解した。


 こっちを見て――彼女はそう言っているのだ。そう願っているのだ。懇願こんがん、と言っても良いかもしれない。


 だけど。


 私は。


「うん」


 智子の、夕陽にあかく染まった手を掴んだ。


「帰ろう」


 歩き出す。


 赤の匂いも、掠れた声も――彼女を哀れと思った自分も、振り切って。


 歩いていく。手を繋いで。


 ……しばらくして。


 遥か後方から、ドン、という音がした。


 どこか、寂しげな響きだった。








「昨日? 何の話?」


 夕暮れ時。今日も私は、あの一本道を帰っている。隣には智子。二人きりだ。だから私は、学校では話しづらかった、あの出来事を口にした。


 だけど、返ってきたのは、そんな不可解な言葉だった。


「何の話って」


 ふと、智子は怒っているのかも、と思った。無理もない。だって昨日、私は家まで送ってもらったのに、頭がもう一杯一杯で、まともにお礼も言えなかったのだ。おまけに緊張が解けたせいか、部屋に入るなりベッドにダイブしてしまった。だから――と、事情を説明しようとした時だ。


「あっ、そう言えば」


 不意に智子が、私の鞄へ手を伸ばしてきた。彼女は強引に鞄を持ち上げ、吊るしてあるクマぬいぐるみをひょいと掴む。そして、「うわっ」と、華の女子高生らしくない声を上げた。


「こんなことってあるんだ。もしかして出てきたの? 赤い女!」


 怪訝に思い、彼女の手にするクマへと視線を向け――そこで、気付いた。クマの陰に、何か吊るされている……。


「あっ」


 私は声を上げていた。クマの後ろに吊るされていたのは、健康祈願と書かれた朱いお守り。奇怪なことに真ん中あたりでぐにゃりと折れているが、間違いない。


「これ」


「気づいた? そう、これ私の」


 智子は事も無げに言った。何でも昨日、彼女はこっそり、自分のお守りを私の鞄に付けておいたのだそうだ。


「嫌な予感がしてさ。でも、付けて正解だったみたい」


 そういえば――昨日の智子は確かに不自然だった。何せ、鞄も、傘も持っていなかったのだから。


「ね、こいつ、どんな感じで赤い女を撃退したの? ビームでドカーン! みたいな?」


「いやいや」


 私が苦笑した時だった。遠く――遥か遠くで、ドン、と音がした気がした。


「……健康を祈願してくれた、みたいな?」


 なにそれ、と不思議そうに智子は言う。私は無言で笑った。笑って、智子の手を取り、子供のように大きく振って歩いた。


 遥か遠くの夕焼けが、私達を静かに見つめていた。






(完)

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