人魚の死体

悠鶴

人魚の死体


 目前に、眩い光を放つ円があった。

 男は深い溜息を吐くと膝を抱え込むようにして蹲り、その真っ赤に腫れた目で沈みゆく太陽を見た。今まさに地平線に落ちて行くそれは、何万もの白光を海に投げかけている。雲の影は薄桃色や橙に染め上がり、煌く太平洋は波の隙間に群青を忍ばせている。男の手や足の爪には砂が入り込み、髪は海水が染み込んで、お世辞にも整えられているとは言い難かった。背後からは、鮮やかな羽を持つ鳥の囀りと、シダ類ばかりで構成された森の唸りばかりが耳につく。

 男は、端的に言えば「遭難者」であった。

 ぼやけた眼で、男は黒ずんだ自分の手の甲を見た。左手の薬指に付けられた、銀の指輪。飾りは何一つとしてなかったが、泥や砂に塗れた男の身体の中でその銀だけがあらゆる光を反射していて、とても目立った。男はそれをまじまじと見ると、何かを思い出したかのように目を細めた。


 男は、今年で結婚してから十年目を迎える。十年という節目の年に、妻へのささやかなプレゼントとして海外旅行を計画していた。有名なリゾート地に一週間ほど滞在する予定だったのである。普段から会社勤めで忙しく家の事など妻に任せっきりであったが、この夏休みを利用して日頃からの感謝を伝える算段だった。勿論、子供たちは親戚の家に預けており、今回は新婚旅行以来の夫婦旅である。

 しかし、一体彼に何の落ち度があったのだろうか。離陸から約四時間後、機体に謎のトラブルが発生。原因不明のまま、男は操縦士やフライトアテンダント、他の乗客と一緒に、爆発した機体から太平洋に投げ出されたのである。結局、これは単なる機械的故障が原因であると後に明かされたが、彼を筆頭として投げ出された乗客は知る由もない。無惨に死の淵へと叩き落された者が大半であろうが、男のように奇跡的にどこかの島へ流れ着いた者も居るのかもしれない。ただそれは、今の彼にとってはどうでもいいことであった。


 どうすれば生き残ることが出来るのだろうか。遭難した者は皆考える。彼とて例外ではなく、自らが生き残る策を必死で講じようとしていた。彼のロビンソン・クルーソーのように、その気になればいくらこの場が無人島であっても、生活することは不可能ではなかった。幸い、この島にはヤシの実のような南国特有の果実が存在しているように思われたし、海には魚が泳ぎ、砂浜には貝殻が散乱している。木々は生い茂り、雨風を凌ぐには十分すぎるほどであった。

 それでも男の中には、何か引っかかるものがあった。それは他でもない妻のことであった。妻が何処へ漂着したのか、彼には全く分からなかった。それどころか、生きているのか死んでいるのかすらも分からなかった。無事に生きていて、願うことならこの島に流れ着いていてほしいとは思ったが、既に救出されていてほしいなどとは微塵も思わなかった。

 男は黒く汚れた爪を噛んで項垂れる。妻のことは人並みに愛していた。人並み、とは伴侶を持つ成人男性の一般的な愛情程度、ということである。彼は仕事に明け暮れており家庭に余り関与しないこともあってか、妻子にはとにかく自由にのびのびと生活してほしいと願っていた。しかしそれと同時に、妻子が自分の視界から飛び出て活動することに対して深い嫌悪感を抱いていた。自分の監視下に置くことで、どことなく安堵できた。それは言わば一種の独裁であり、独占であり、依存であったのかもしれない。実際、男は妻だけが自分を残して救出されることに憤りを覚え、また妻だけが自分を残して逝くことにも憤りを覚えた。

 男は軋む膝をやっとのことで動かして立ち上がった。この憤りと孤独感を紛らわせるためでもあったが、妻を探しに行くためでもあった。妻が同じこの島に漂着していることは、とてつもなく可能性の低い話であるということを彼は理解している。それでも男は砂浜に沈んでいく足を何度も持ち上げた。僅かな希望に縋るしかなかった。それが、希望という尊い言葉で表現されうるかは別として――。


 朱色の炎が、彼の目前で揺れた。風に煽られて、炎も煙も高く、高く立ち上っていく。彼は先程捕まえて火で炙っておいた魚にむしゃぶりついた。何日かぶりの食事だった。

 あてもなく海岸を歩き続けていくうちに夜が近づいてきて、男は焦った。太陽は地平線にすっかり隠れてしまい、残った光だけが明かりだった。暗黒の島に僅か乍らも恐怖を感じた彼は、森の少し奥まったところで火を起こすことにした。急いで近場にあった石を使い、火打石の要領で木くずに火をつけた。火は奇跡的に着き、彼は人類の明かりを得た。そしてその明かりを背にして魚をやっとのことで捕まえた。それが今炙った夕食である。空腹で餓死寸前だった身体には、どんなものでも骨の髄まで染み渡るほど美味く感じる。彼は妻を探していたことなどすっかり忘れて、腹を擦り乍ら手を洗うために浜辺に出てきた。

 ちぇっ、やっぱり鱗が混じってやがる、顔を綻ばせ乍らも文句を垂れた男は、歯に詰まったものを砂浜に吐き捨てた。男が顔を上げた瞬間、その顔は真っ白になった。


 男は見てしまった。見つけてしまったのだ。探していた妻を。妻の死体を。


 岩にぶつけられたのだろうか、身体のあちこちに血が滲んでいた。骨も、柔らかい皮膚を突き抜けて飛び出しており、とても見ていられない。顔は男と同じく、蒼白であった。彼は思った、俺が馬鹿だったのだ、と。揺れる炎は橙の化粧を白いその顔に施していた。

 漂着したのは自分と、魚と、妻の死体。グシャグシャになった嘗ての妻は、まだ浜辺に臥せったまま。口に残った感触が告げる。


 嗚呼、俺は人魚を食っちまった。人魚の死体を。


 男は海を見た。

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