死にたがりのメアリー
灰崎千尋
メアリー・ブラウン
その日もやっぱり、メアリーは死にたくなった。
メアリーは人目を忍んで、夜の海にやってきた。
靴を脱いで素足を浸した水は突き刺すように冷たく、きっと自分の命を奪ってくれるに違いないと思った。裾から水を吸ったスカートが重くなる。それに引っ張られるように、メアリーは暗い海へ身を沈めていった。長い黒髪が海藻のようにゆらゆらと揺れる。
やがてメアリーの姿はすっかり見えなくなり、ただ波の音だけがざざん、ざざん、と響いていた。
メアリーの体が浜に打ち上げられたのは、それから数日後のことだった。この辺りの潮の流れは、一度沖に流されたものをぐるりと浜に戻してしまう。だからメアリーは、入水したのと同じ浜に帰ってきたことになる。
メアリーを見つけたのは、地元の釣り人だった。釣り人は最初こそ驚いて取り乱したものの、その顔が見慣れたメアリーのものだと気づくと、やれやれと大きなため息をついた。それからスマートフォンで救急センターに電話をかける。
「もしもし、あーその、メアリーを見つけた。東の海岸だ。俺、触らない方がいいんだよな?」
一通り受け答えを済ませて電話を切ると、釣り人は何事もなかったように海釣りのポイントへ向かった。
この町の人間は、メアリーの死体に慣れているのだ。
「やぁブラウンさん、溺死した気分はいかがですか?」
メアリーのベッド脇で、眼鏡をかけた男性の医師が言う。
「……最悪」
目を覚ましたメアリーは医師の顔を見ると、血の気のない顔を絶望でいっそう暗くした。両手で顔を覆い、「また駄目だったのね」と小さく呟いた。
「冷水のショックで水を飲む前に心臓が止まったみたいですね。肺のダメージは少ないので、今回の退院は早いですよ。良かったですね」
医師はそう言って、口元だけで笑った。
メアリーを見る医師の目は、ガラス玉のように澄んでいた。そこには何の感情も見えず、他の患者や同僚には不気味がられていたが、メアリーにはそれが心地よかった。
「クラーク先生、いい加減にしろって思ってます、よね」
メアリーは諦めのこもった声音でクラーク医師に尋ねた。クラーク医師は目をぱちくりとさせ、「いえいえ」と首を横に振った。
「医療リソースの無駄遣いだ、と言う人がいるとは聞いていますが、私自身は何とも思っていません。ここに運ばれてくればあなたは患者ですし。あなたが次にどういった死因で運ばれてくるのか、正直楽しみですらあります。まぁこの国の医療保険が手厚いことには感謝すべきかもしれませんね。それにあなたの『死にたい』というガッツ、素晴らしいと思いますよ。普通こんなに繰り返し死ぬと、もう生きるしかないのかな、と諦めると思うんですよ。いくら蘇るからって、死ぬのは苦しいでしょう? だけどあなたは死を選び続ける。その意志の強さ、見習いたいですね」
クラーク医師は饒舌にメアリーを讃えた。この医師の性格からして、この言葉は皮肉でも冗談でもなく、本心なのだろうとメアリーには思えた。
「だって死ぬ以上に、生きているのが苦しいから」
メアリーがぽつりと答えると、クラーク医師は軽く頷き、「応援してますよ」と言ってメアリーの病室を去っていった。
メアリーが死にたいのは、ありきたりな理由だ。
家族と不仲で、友人もおらず、信じていた者に裏切られ、仕事を失い、貧しかった。彼女には好きなものがなく、彼女を好くものもいなかった。物価の安い田舎町に流れてきたものの、彼女にはもはや生きている意味がなかった。だからメアリーはある日、部屋の真ん中で首を吊った。
メアリーの最初の自殺現場を発見したのは、大家のマクレーン夫人だった。夫人はメアリーの部屋から異臭がするのに気づき、何度か呼び鈴を鳴らしたり扉をノックしたりしたが当然返答はなく、やむを得ず鍵を開けて部屋に入った。
異臭の正体は、メアリーから漏れ出た体液だった。マクレーン夫人はあわあわとしつつも警察に連絡し、間もなくやってきた警察と救急隊によって、メアリーの死亡が確認された。
しかし検死のために搬送されている最中に、メアリーの
救急隊は急いで救命医療を施し、手術台に運び、メアリーの死は完全に覆された。警察も医師も首をかしげるばかりで、メアリーの身に何が起こったのか、誰にもわからなかった。彼女は一度確かに死んで、蘇った。それは紛れもない事実だったが科学的に説明がつかないので、発見時のメアリーは奇跡的に仮死状態だった、ということにされた。
目を覚ましたメアリーは、自殺をする前よりももっと死にたくなった。自分が生きていたって誰も喜ばないのに。死んだほうがいいに決まっているのに。そんな奇跡が起こるなら他の誰かに起こるべきなのに。
メアリーは退院後間もなく、二度目の自殺をした。
マクレーン夫人は夫を亡くした未亡人で、メアリーの他にも人に貸している部屋があり、その家賃収入で慎ましく暮らしている初老の女性だ。基本的には穏やかだが少し風変わりな性格と潔癖なところがあり、部屋を汚されたり騒がしくされるのを非常に嫌っている。そのため、病院から帰ってきたメアリーにはこう伝えた。
「私はあなたが自殺するのを止めはしませんけどねぇ、ブラウンさん。この家を汚さないようにやってくれないかしら」
それを聞いたメアリーは、町をうろうろして
飛び降りた先が路地裏だったため、メアリーはしばらく見つからなかった。そのおかげで彼女は地獄の苦しみを味わうことになった。
首と手足が折れ、頭蓋も半壊し、どう考えても死は確実だったが、そこからメアリーは復活した。ゆっくりではあるが組織が修復され、意識を取り戻す瞬間があり、しかし凄まじい痛みに耐えられずまた気絶する。それを繰り返してどうにか這いずることができるまで回復すると、人通りのある道まで血まみれの体を引きずっていき、周辺をゾンビパニックに陥らせた。
すったもんだの末にメアリーはやはり病院に運ばれたが、今回は仮死状態といえる状況ではなかった。あらゆる検査を受けたが、メアリーの現象は田舎町の病院の手に余るものだった。都会の大きな病院や研究機関に移されたりもしたが、残念ながら解明には至らなかった。
その時点でわかったのは、メアリーは数値の上ではごく普通の人間でいかなる細菌・ウイルスにも感染していないこと、自殺によって確かに一度生命活動が止まるのだが間もなく再開されること、その際には「死にそうで死なない」状態が続いて医療処置がなければ非常に苦痛が大きいこと、時間はかかるが後遺症もなく回復する驚異的な生命力があること、他人につけられた外傷・死ぬほどではない自傷についてはどちらも一般的なスピードで回復すること、だった。死ぬチャンスがありそうな実験もいくつかあったが、そういうものは倫理観のある研究者によって「人道的でない」という理由で中止になってしまった。
結局メアリーは、元いた町に戻された。その頃にはもう、彼女の体はすっかり元通りだった。
メアリーが戻ってくると、田舎町は彼女の噂で持ち切りになった。関係者には緘口令が敷かれていたはずだったが、そんなものは無意味だった。メアリーのもとには、どこからか噂を聞きつけた怪しい宗教家やオカルト紙の記者がやってきたり、素行の悪い若者が絡んできたり、散々だった。メアリーは余計に死にたくなった。
それからメアリーは今日に至るまで、何度も自殺と復活を繰り返している。
飛び降りからの復活があんまり苦しかったので、回復に時間がかかりそうな死に方は避けるようになった。部屋をガスで満たしてみたり、薬を大量に飲んだり、バスルームで手首を切ったり、感電したり。吸血鬼の伝説を調べて、杭を心臓に刺したりもした。銀の弾丸と銃は、メアリーの失業保険の金額では手に入らなかった。ゾンビといえばヘッドショットだが、飛び降りで駄目だったので諦めた。
そうするうちに、町の人々はメアリーの死と復活に慣れていった。それはイエス・キリストの復活にも似た奇跡には違いないが、メアリーは原罪を負っているわけでもなく、人々に教えを説くでもなく、なんの恩恵もない。やがて彼女は「死にたがりのメアリー」として、ある種の名物になってしまった。メアリーが死んでいるのを見つけたら警察か救急に連絡し、彼らの対応に任せるというのが、いつの間にか暗黙の了解と化していた。迷惑ではあるが、彼女の死を止める術を持つ者もいなかったのだ。精神科のカウンセリングや拘束具の類は一時しのぎでしかなく、メアリーの絶望は死を繰り返すごとに深まった。
その中で、いつの間にかメアリーの主治医のような役割になったのが、クラーク医師だった。彼は一介の外科医だったが、何度もメアリーの治療にあたり、彼女に興味を持っていた。他の医師や看護師は彼女をおそれて必要以上に近づこうとしなかったが、クラーク医師だけは違った。ずけずけとものを言い、私的な研究のためにメアリーの血を抜き取ったり、自殺のアドバイスをしたりもした。それは医師として決して褒められた行為ではないが、メアリーにとってはその至極素直な振る舞いがありがたくもあった。
メアリーが海での入水自殺から蘇り、退院して数日後のことだった。
ある動画サイトに、メアリーの映像が上がってしまったのだ。それは匿名で投稿されていて、夜の海に入っていくメアリー、浜に打ち上げられた水死体にしか見えないメアリー、退院しておどおどと町を歩くメアリーが、日時と共に雑につなぎ合わされていた。いわゆる「センシティブな映像」に違いないため間もなく削除されたが、インターネット上にじわじわと拡散されていった。こうなってしまっては、もう誰も流れを止めることはできない。オカルト界隈で噂されていたメアリーの都市伝説(事実にさらに尾ひれがついたもの)が映像とともにまとめられ、海岸と町が特定されるのにそう時間はかからなかった。
メアリーの動画が遂にテレビにまで取り上げられると、メアリーの家には各種メディアの取材陣が詰めかけ、マクレーン夫人はカンカンに怒っていた。怒りのあまり、狩りが趣味だった亡夫のショットガンを持ち出して、空に向けて撃ち威嚇した。
メアリーはとうとうこの家からも追い出されるに違いないと思い、やっぱり死のうと思った。しかしこれ以上マクレーン夫人を怒らせたくなかったので、人々が銃声に気を取られているうちに裏口から逃げ出し、ちょうどやってきた車の前にその身を投げ出した。突発的な割にはなかなか見事なはねられ具合で、メアリーの体が乗り上げたフロントガラスは、ひび割れでまっしろになったところに赤い血がじんわり染みて、不運なドライバーは二度と車を運転できなくなったという。そのドライバーの通報でかけつけた救急車によって、メアリーは馴染みの病院に運ばれた。
メアリーが人を巻き込む形で自殺をしたのは、これが初めてだった。彼女はあくまで、一人で死にたかったのだ。
「いやむしろ、今までよく隠し通せましたよね」
クラーク医師はメアリーの病床の脇にどっかりと座った。
メアリーが数日ぶりに意識を取り戻したのだ。
「田舎町の閉鎖性がそうさせたんですかねぇ。こういう大騒ぎを、みんな一番嫌いますから」
クラーク医師は窓の外に視線を投げた。病院の入り口にはマスコミ関係者や町の外からの野次馬など、有象無象が集まっている。
こういった騒ぎに慣れていない町はてんやわんやだった。路上でインタビューを受けてあることないこと言う者、人知れずメアリーに悪態をつく者、「死にたがりのメアリー ミートパイ」を売り出す者など、反応は様々だ。
「うちの病院からも何か言うべきですかね。いやぁこういうの初めてだから、よくわからないな」
クラーク医師は妙にうきうきとした様子でメアリーに笑いかけた。白い歯が綺麗に並んでいるのが見えるが、相変わらず目に表情はない。
「私は、死にたいだけなのに」
メアリーがぼそりと言った。彼女の心の内のように黒々とした髪が俯いた顔を覆い隠す。
クラーク医師は大げさに肩をすくめた。
「本来自殺というものは、その報道に色々制約があるはずなんですが、あなたの場合死なない自殺だから、ここぞとばかりに好き放題やっているのかもしれません。ウェルテル効果、ってご存知ですか?」
「……言葉を聞いたことくらいは」
「簡単に言えば、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』に由来する、或る人の自殺に誘発されて後追い自殺が起こること。あなたの自殺にこれが起こらないとは限らないはずなんですがねぇ」
クラーク医師のこの危惧は、奇妙な形で世に現れることになる。
それは既に、メアリーの住む町で人知れず起きていた。
町の自殺者数が、有意に減少したのだ。メアリーが自殺を試み始めて以降、その統計グラフはなだらかだが下り坂を描き続けている。
定期的に自殺が起きることにうんざりするのか。自殺現場のグロテスクさにその気が失せるのか。自殺をしても救われないことに恐怖するのか。自分の代わりにメアリーが自殺しているように思うのか。理由はどれでもあり、どれでもないのかもしれない。
メアリーに関してマスメディアの報道が始まると、自殺者の減少は全国的なものになった。愚かで無謀な人間が何人か、メアリーのように復活するのを狙って自殺を試みた結果そのまま死んだりしたが、それを一時的なノイズとして無視してしまえる程度に自殺者数は抑えられていた。心理学者や社会学者があれこれと仮説を立てたが、それよりも早くニュースが巡る。動画はついに例外的に削除されなくなり、どこからか掘り出されたメアリーの過去の自殺写真やその偽物が出回る。自殺を認めない宗教が様々に声明を出し、熱狂的な信者とも言うべき若者たちがネット上に集った。マクレーン夫人が敷地内に侵入する人間に対して容赦なくショットガンをぶっ放すので、パパラッチや野次馬は少し離れた公園に集まるようになった。
メアリー本人はというと、そんな状況で自殺することもできず、部屋の隅にうずくまっていた。
いっそこのまま、飲まず食わずで衰弱死してみようか、とメアリーは膝を抱えながらぼんやりと考えた。
しばらくメアリーの動きがなかったことで、田舎町は元の静寂を取り戻しつつあった。張り付いていた取材陣の数は減り、野次馬も解散し、「死にたがりのメアリー カップケーキ」は大して売れないままひっそりと姿を消した。
このまま自分のことなど忘れてくれればいい。人知れずそう願ったメアリーの耳に、わあっと歓声の上がるのが聞こえた。何事かと窓の外を見ると、公園に集まった人々が何やら大きな幕を掲げている。人々の顔はきらきらと輝くような笑顔を浮かべていて、どうも二階にあるメアリーの家を見上げているようだった。周りで遊んでいた親子連れはそれを見ると、足早に立ち去ってしまう。
メアリーが目を凝らしてその幕を見てみると、こんなことが書かれていた。
『親愛なるメアリー
お願い、私たちのために死んで!
メアリーに救われた者の会』
それを見たメアリーは、自分の中にまだこれほどの感情が残っていたのかと驚くくらい、大きな怒りに震えた。それから衝動的に窓を開け放ち、叫んだ。
「私が死ぬことに、勝手な意味を付けないで! ひとりで死なせて! あなたたちのことなんて知らない!」
その声はか細く、掠れていた。公園で幕を掲げる人々はメアリーの姿が見えたことに熱狂し、その声が届いていたとは思えない。だがメアリーは叫ばずにはいられなかった。
息を切らせたメアリーは乱暴に窓を閉めると、冷蔵庫に残っていたハムやベーコンをそのままむさぼるように食べた。食べながら涙が溢れた。泣きすぎて頭痛がした。それでも何故か食べ続け、泣き続けた。そのうちに吐き気を催し、トイレで嘔吐した。
ついにメアリーは、自殺するのをやめた。
死ぬのをやめたからといって、死にたくないわけではない。
メアリーは自殺にどれほど救われていたか知ることになった。たとえ蘇ってしまうとしても、生き続けるよりマシだった。メアリーはもう長いこと、自殺する合間に生きているようなものだった。何度繰り返すことになっても、自分を終わらせたかった。こんな世界に生きていたくなかったし、こんな自分は生きているべきではないのだ。
しかし今メアリーが自殺すれば、その死に対して世界が意味を持たせてしまう。それが生きているよりも嫌だった。
メアリーは死を待ちわびていた。
ある夜のことだった。
時刻は午前三時をまわっていたが、メアリーはいつものように、寝床に入ったものの寝付けずにいた。そんな夜更けにも関わらず、家の呼び鈴が鳴った。
こんな時間の訪問者がまともなわけはない。メアリーは布団を掴んだまま居留守をすることにしたが、再び呼び鈴が鳴る。そしてコンコン、と扉がノックされ、くぐもった声がこう言った。
「ブラウンさん、私です、クラークです」
メアリーはびっくりして玄関に行き、ドアスコープを覗いた。そこに見えるのは確かに、クラーク医師だった。
玄関扉をほんの少し開けて、メアリーは尋ねた。
「いったいどうしたんですか、クラーク先生」
「いえね、あなたがお困りなんじゃないかと思いまして。とりあえず中へ入れてもらえませんか」
クラーク医師はいつも通り、口元だけでにっこり微笑んだ。メアリーはそれがなんだか懐かしくなって、彼を家へ入れることにした。
「あなたが死ななくなって、病院はずいぶん静かになりました。だけどとても退屈です」
クラーク医師はメアリーの向かいに座ると、静かに言った。
「前にも言ったかと思いますが、僕はあなたが次にどんな状態でかつぎ込まれてくるか、結構楽しみにしていたんですよ」
そう言って笑うクラーク医師の目尻には珍しく笑い皺ができていて、メアリーは驚いた。彼はこんな風に笑うことのできる人間だったのだ。
「それは、どうも……」
クラーク医師につられて、メアリーもぎこちなく笑った。久しぶりに作った笑顔は引きつっていたが、クラーク医師は気にしなかった。
彼はやがて、「ねぇ、ブラウンさん」とメアリーに向き直った。
「あなた、まだ死にたいと思っていますか?」
その問いとともにメアリーに投げかけられた視線はただ真っ直ぐで、彼女を非難するつもりも懐柔するつもりも無いように思えた。だからメアリーは、「はい」と素直に頷いた。
「でも他の人が、私が死ぬことに色んな意味を付けるのが、嫌なんです」
「ああ、やはりそうでしたか」
うんうん、とクラーク医師も頷いた。
「でもそれって、あなたが死んだ後に蘇るからですよね。そのまま死んでしまえば、意味なんて生まれない」
「それができないから私は……!」
「まぁ落ち着いて」
クラーク医師は革の手袋をしたままの手を組んで、メアリーをじっと見つめた。
「ブラウンさん、あなたがまだ本当に死にたいなら、私が殺してあげます。他殺はまだ、試したことがないでしょう?」
メアリーは目を見開いた。とても医師の口から出るような言葉ではない。しかしクラーク医師は冗談でそんなことを言っているようにも見えなかった。
「で、でも、どうして」
戸惑うメアリーから、クラーク医師は目をそらさない。
「僕はあなたを救いたい。でもそのためにはきっと、あなたを治療するのではなく、死なせてあげなくてはならない。違いますか?」
やっと。
やっと終わるのかもしれない。
メアリーに殺意を抱くほど、彼女に関わる人は今までいなかった。
メアリーにとってクラーク医師の言葉は、プロポーズにも等しかった。
「私を、殺してください」
メアリーは、はっきりと言った。
「喜んで」とクラーク医師は答えた。
「特にご希望がなければ、自殺に偽装するかたちであなたを殺そうと思うのですが、いかがでしょう」
クラーク医師の革手袋がギチギチと鳴った。メアリーは少し考えて、
「なるべく清掃が簡単で、先生に疑いがかからなければ、何でもいいです」
と答えた。
クラーク医師はそれを聞いて、「ああ、マクレーンさんか」とくすくす笑った。それから台所を物色すると、ペティナイフを手に取った。
「じゃあ、バスルームにしましょうか」
メアリーとクラーク医師は、どちらともなく手に手を取って、バスルームへ向かった。
メアリーは浴槽に身を横たえ、クラーク医師を見つめる。彼はいつになく優しい眼で見つめ返し、メアリーにナイフを渡した。メアリーが自分に刃先が向くようにナイフを握ると、その手をクラーク医師の両手が包み込む。
「あなたの心臓は、ここ」
クラーク医師は正確にその刃先をメアリーの胸に当てた。
それから肋骨を避けて心臓に真っ直ぐ届く角度に調整する。
「もしこれでまた蘇ることがあっても、ちゃんと治療しますから安心してくださいね」
メアリーはこくりと静かに頷いた。
「せーの」という勢いで、二人はナイフを突き立てた。
クラーク医師はメアリーが動かなくなってからしばらく待った。彼女の瞳孔と脈をみて確かに死んだのを確認してから、救急車を呼んだ。クラーク医師が彼女の体に触れた痕跡があっても不自然でないように、念のため応急処置も施しておいた。
検死が行われ、メアリーはいつもの自殺と断定された。しかしいつもと違ったのは、彼女がもう蘇らなかったことだ。
メアリーが復活することも考えて、その遺体はしばらく
メアリーの完全な死は、彼女の復活ほどには取り沙汰されなかった。彼女が遂に死んでしまったことで報道に制限がかかったこともあるが、彼女がしばらく自殺をしなかった間に、大半の人間は彼女のことを忘れていたのだ。メアリーのことを大して知らない人間が、やはり復活はペテンだった、いや本当だった、と勝手に論争し、勝手に「R.I.P.」とネット上に書き込んだ。
メアリーの熱狂的な信者はずいぶん数を減らしたものの、残った人々は大いに嘆き悲しんだ。しかしその内の誰かが「この死こそきっと、私たちのためだ」と言うと、皆それに飛びついて盛り上がった。しかしそれきりメアリーが語られることはなく、コミュニティーは霧消した。
マクレーン夫人は、町の福祉課が出した簡素な葬儀に顔を出した数少ない人物だった。夫人はメアリーの部屋を業者に清掃させた後、改装して物置にしてしまった。そこに置いたショットガンを見る度に亡き夫を、時々はメアリーを思い出すなどした。
そうしてクラーク医師だけが、メアリーをいつまでも記憶し続けたのだった。
死にたがりのメアリー 灰崎千尋 @chat_gris
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