番外編小話:その後のふたり
ふぁ、と漏れた欠伸を慌てて噛み殺したけれど、隣の席に座る神保先生はチラと盗み見て見逃してくれなかった。
「昨夜は眠れなかったんですか? 葛西先生。気持ちは分からんでもないですが」
「…いえ。お恥ずかしながら理由は別にありまして」
神保先生が仰る“気持ち云々”とは、今日が、愛する教え子達の合否が決まる運命の一日だからでしょう? という、至極真っ当な職責から生じる気遣いだと分かる。
でも、そうじゃないんだよね。むしろ、愛する教え子達にさほどの心配は…、野田くらいかな、胃がキリキリ痛むのは。アイツ、絶対大学デビューするつもりだろ、滑り止めまで全部 背伸びして東京 選びやがって。
「…神保先生。ご結婚のご予定、とかは?」
「…どうしました? 本当に」
見つめ合っていたパソコンから視線を外すと、苦笑いを浮かべた神保先生は大きな体躯を椅子ごと俺へ向けてきた。金具がギシ、と切ない音を立てる。
朝8時。神保先生も俺も、今日は一時間目に受け持つクラスはない。
上体を曲げ机に顎をつけただらしない格好のまま、しばし口を噤んだ俺を眺めた後、神保先生は コーヒーでも淹れますか、と立ち上がる。ペッタンペッタン、と神保先生の一足ごとに耳に残る室内履きの音が妙に心地好かった。
「……子守りで、眠いんですよ」
コーヒーを啜っていた神保先生は一瞬 動きを止め、子守り、と俺の言葉をなぞった。まあね、独身男性と子守り、ってリンクしないよね。
「弟のとこの…、俺の姪っ子なんですけど。名前も芽生っていうんですよ、去年の五月に生まれて。これがまた伯父バカですけど可愛くてですね」
「ああ、典型的」
典型的? と今度は俺が神保先生の言をなぞる。顎を支点に顔をクルリと神保先生へ向け見上げれば、普段から細い目がさらに細められている。
「未だ独身のアラサーアラフォー男女は自身へ向けられる結婚話の回避策として甥っ子姪っ子をベタ可愛がりする傾向にあるらしいですよ。家族も楽できるし、全責任を負わずとも子育ての疑似体験ができるし。誰も何も痛まない」
かく言う僕もそうですけどねえ。
ハハ、と高らかに笑う神保先生の明るい物言いを耳にしながら、一理あるな、と顎をカクカクさせた。
「弟さん、ご実家継いでらっしゃるんですよね。昨夜、預けられたんですか?」
「…いえ。弟の嫁が、出て行ってしまって。やむなく、家族総出で」
ふう、と大きく漏れたため息に神保先生の表情が気まずげなものへと変わる。まずったな、気を遣わせるつもりじゃなかったのに。どうにもすっきりしない思考回路は他者への思いやりに欠けた言動を生み出してしまう。
「…もともとね、結婚前から周りは若干、危惧してたんですよ。授かり婚とか言うらしいですけど、最近は。まあ、できちゃった結婚です、いわゆる」
「…立ち入ったこと訊きますが。おつき合いの期間、は…」
「気にしないで下さいよ、神保先生。立ち入ったこと話してるのはこっちなので。知り合ってからは半年くらいだそうで」
神保先生は気づいただろうか。問われた“おつき合い”の期間ではなく単に一緒に飲みに行った、とかいう出逢いの日を起点にしたこと。
その夜に持ち帰られるなんて! アイツはどんだけ草食系なんだ! 猛禽女子にとっ捕まりやがって!
「…似てないんですよねー、弟と俺。四つ離れてるんですけど性格は真逆で。俺はもう、やんちゃで乱暴者で男とばっかつるんでて」
でも。アイツ、武蔵は、柔和で優しくてそれがそのまま外見へ滲み出ている。青春という名の反抗期をなんとか脱し、更正した俺が教師になりたいと渋る両親を説得し、大学へ進学する時も、スゴいね兄ちゃん、とニコニコ笑っていた。やりたいこと見つけるって、スゴいね、と。
そうして老舗呉服店の跡取りという重責をふんわり担いでいってくれたんだ。
「…弟の嫁は…、22歳、だったかな。妊娠が分かった時にはもう…その、無理で」
濁した言葉のうちに堕胎、が含まれていることに気づいてくれたのだろう、神保先生はコクリと頷きを返してくれた。二歳上の神保先生はその体格の好さも手伝ってか、今や校内で頼りがいのある先生ナンバーワンに君臨している。知らず胸の内を吐露している俺は寝不足だけではない切なさに囚われているのかもしれないな。
「…そもそもオツキアイの期間もロクにない、今どきの若い女の子が恐らく充分な心構えもないまま結婚してすぐ舅姑と同居ですよ。家事に子育てまで加わって精神的にキツかっただろうと…想像できるんですけど」
「…でも、葛西先生のご家族だって。ご配慮されてたんじゃないですか?」
「…そう、思いたいですけどね」
息子二人の両親は初めてできる“娘”を楽しみにしていたし、実際 大切にしているように見えた。芽生のことだってそれこそ目の中に入れても痛くないほどの可愛がりようで、俺も武蔵もそこまで甘やかされた覚えはないとこぼし合ったくらいだ。
「…出産後、実家へ戻って。里帰りってどれくらいするもんかと思ったんですけど」
「日晴れくらいまででしょうかね、うちの姉の時はそうだったかな」
ご両親と同居している神保先生は、当時を思い出すように視線を上へ向けて腕を組んだ。うん、まあ、長短あれど俺も友達リサーチによるとそれくらいが平均だった。
「…なかなか戻って来ませんで。戻ってきたと思ったら、弟とはもう泥沼状態で、結局」
「…赤ちゃんを、置いて…?」
俺はまだ机につけたままの顎をカク、と動かし目を伏せた。耳の奥に残る、芽生の泣き声。生後十ヶ月かそこらだ、やっぱり求めるのは母親の温もりなんだろう。
「…お嫁さんが、戻ってきてくれることが、最適解…なんでしょうかね」
コーヒーを飲み終えた神保先生は、マグカップを机へ置くとマウスを動かしスクリーンセーバーを解除した。
そろそろ、か。俺も起き上がり、両腕を組んで前に伸ばす。
「…どうなんでしょうね。記入済みの離婚届を突きつけられたらしいので」
配偶者の家族と同居するとなると、どうしても嫁のアウェイ感は否めないのだと思う。ご近所では老舗、とそこそこ名高いうちの店だ。一個人として彼女を見ていた親族は少ないだろう、どうしても“跡取りの嫁”としての視点で、いわゆるギャル系の外見や言葉遣い、粗雑な所作が“相応しくない”というレッテルを勝手にどんどん貼り付けていったように思う。
俺は同居してないから事実は分からないし、確認の仕様もないけれど。親父やお袋も適切な距離感を意識し接していたように思うし、武蔵も嫁の唯一無二の味方であろうとしていたように思うんだけどね。
アイツ、恋愛感情以前に生じた肉体関係の責任はきちんととらないとね、なんて飄々と言ってたし(いやもう、そこの順序がどうなの、って俺が言える立場でもない)。
駄目だな、どうしてもうちの肩を持ってしまう。
「…子はかすがい、に。ならなかったんですね」
「…ですね。葛西側が引き取ることになるんじゃないかと」
「母親じゃないんですか? 乳幼児の親権って」
「一般的にはそっちのが多いんでしょうけど…」
同じ年の子達は女子大生だったり新入社員だったりして、女子会だとか習いごとだとか自分磨きだとか、いや食べ歩きだの旅行だのに勤しんだりしている。それなのに、自分は。家政婦じゃないんだし、ネイルとか髪の色とか周りからいろいろ言われて、若旦那の奥様らしく、ってなんなのよ、好きで同居してるんじゃない。
とか言われたなあ、と武蔵はポツリと漏らしていた。言われっぱなしじゃねえの、アイツ。芽生のこと、オムツ替えたりミルクやったり風呂入れたり爪切ったり耳垢取ったり。甲斐甲斐しく世話してたように見えたけどな。
どちらかだけに責任があるなんて思わない。ふと生じた小さな綻びはきちんと縫い合わせ修復できる間もないまま、全ての糸が布地から抜け落ちてしまった。
「…結婚、って。何なんでしょうね」
「…また典型的な逃げ口上になってきてますよ、葛西先生。結婚しない男女百人に聞きました、の答えにありそう、それ」
「神保先生はどうして結婚しないんですか?」
カチカチ、と音を立てる神保先生の手元を見、ディスプレイを覗き込んだ。まずは経済学部。御子柴の番号は…。
「良かった、それ私が自主的に結婚しない、を選択してる体で訊いてくれてますね。勿論、実家暮らしが楽だからです」
「甘えん坊ですか」
よし、という神保先生の声と同時に俺も見つけた。御子柴、遅れをものともせずよく頑張ったよな。神威は無視して撫で撫でしてやろう。
画面は下へスクロールされ、次は教育学部。吉居が教育実習で戻ってくるまで俺はここにいられるだろうか。
「葛西先生は? それだけイケメンなのにどうして結婚しないんですか? あの噂は本物ですか?」
「神保先生までやめて下さいよ、この前 教頭先生にも訊かれたのに。独りが楽ですし、基本的に何でも出来ちゃうんですよね、嫁がいなくても」
こんな子が嫁ならね、と思った子は王子のものだし。
笑いを含んだ呟きに神保先生も頬を緩めた。
「御子柴と愉快な仲間達は全員合格、と。報告に来るんじゃないですか」
神保先生につられて職員室入口へ目を遣る。王子のキラキラスマイルが目に浮かんだ。
「先生、無事に合格しました! の報告じゃないですよ。結婚しました、の報告ですからね、可愛くない」
「ああ、そうか。今日、入籍するんでしたっけ」
もう今頃は市役所に向かってるんじゃないか、突撃イノシシみたく。神威って時々、その美しさが台無しなことあるよなあ。まあ、不器用というか愚直? そこが良いんだけど。
「あの二人を見てたら。したくなるんじゃないですか?」
「…何を」
「ケッコン」
神保先生はまたパソコンへ向き直り、他の生徒の受験番号と照らし合わせ始めた。俺もスリープモードだったディスプレイを起動させ、検索バーへ大学名を入力する。
「…それって、あの二人のことずっと見守っていく前提ですね」
「見守るおつもりでしょ? ここまで関わって放置だなんて葛西先生らしくない」
証人欄へ名前書いてたじゃないですか。
そう言われれば何とも気恥ずかしい。教師冥利に尽きる、と何人もの先生から拍手されたっけ。神威も他の先生の存在なんてお構い無しに手渡すんだもんな、婚姻届。
不意にスマートフォンが震え出す。受信したメールには『今から伺ってもいいですか?』とあった。
神威、お前ね。目的ぐらい書けよ。いくらテンション高いからって何もかもすっ飛ばしすぎだろ。お疲れ様です、とか。合格しました、とか、書けっつーの。いいよ、と送信しながら足元の紙袋の中身をそっと確認した。
「…来ますか」
「…来ますよ」
「御子柴は一応、私のクラスなので」
神保先生が左手に掲げた小さな包みには、綺麗な淡いブルーのリボンがかけられている。
サムシングブルー、か。ちょうど良い。俺のはサムシングニュー、だから。
「…このまま結婚しないと、今までのご祝儀代が回収できないと思ったことないですか? 葛西先生」
「…そりゃもう。リターン無しのエンドレス投資ですよね。今回も結構、奮発した…」
肩を竦め笑い合いながら、神保先生と並び新郎新婦と付き添い人達の到着を待つ。
そうね、あの二人を見ていれば、結婚したくなるのかもしれないな。教え子に教えられるなんて極めて悲しくなる分野だけれど。
解けない問題の答えは必ずしも、教師が持ってる訳じゃないからね。
俺はもう一度肩越しに入口の扉を振り返り、すっかり冷たくなったコーヒーの残りをグビ、と流し込んだ。
(了)
恋する男子力 Lyra @lyraberry
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