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 運転したものの、行く宛ては考えてもいなかった。計器類の時計を見ると三時半近かった。いよいよ本上陸の気配だった。雨足が急速に強まり、フロントガラス目がけて大量の雨滴が飛び込んできた。私は文字通りハンドルにしがみ付いた。時速五十キロも出していないのに、それでも強風で車体が左に引っ張られるのが感じ取れ、私は何処でもいいから飲食店に避難しようと思った。

 駅の線路と交差する県道沿いに、駐車場付きのコメダ喫茶店があることを思い出し、私はロッジ風の店舗前の駐車スペースにどうにかプリウスを滑り込ませた。運転の緊張で背中はおろか、パンツの中まで汗を掻いて私は不快だった。席の間隔のゆったりした広い店内には、この天気とあって私の他には背広姿の中年男性が一人いるきりで、私はホットミルクティーを啜りながらこれからどうするかを考えた。

 スマホの気象情報によると、台風二十七号は今まさに関東上空を通過中で、東京はここよりも激しい豪雨に晒されているらしかった。私が気付かないうちに気象庁から当該地区には避難勧告が発令され、夫の勤務地の中野区も含まれていた。夫から、会社の指示で早退するので駅まで迎えに来て欲しい、というラインが入ってきた。私は承諾の返信を送って、夫が駅に戻る頃合いまで店で時間を潰した。

 私が店を出た五時過ぎには、陽が沈んで暗くなっていた。この付近でも今が豪雨のピークらしく、プリウスに乗るまでの僅かな距離で私の傘は無残にへし折れ、全身水浸しになった。フロントガラスに叩き付ける豪雨は、もはや雨滴というよりバケツの水をひっきりなしに浴びせたような勢いとなり、ガラスの表面に拡がる水の膜で前方が全く見えなくなった。こんなに運転に全神経を集中させたことは、これまでの人生で一度もなかった。背を丸めてハンドルに齧り付き、視界が殆ど塞がれているので時速三十キロ程度の低速運転になっていたが、形振り構う余裕は私には全くなかった。かろうじて駅のロータリーにプリウスを乗り入れた時は、極度の疲労でハンドルを握ったまましばし虚脱してしまった。

 改札の蛍光灯の白い光を眺めているうちに、私はいつの間にか心ここに非ずといった状態になっていたらしい。いきなり運転席のドアがノックされて私は飛び上がった。パワーウィンドウを僅かに下げると、ずぶ濡れの夫が窓に口を近づけて叫んだ。

「早く助手席移って。運転するから」

 私はいそいそと車中で席を移った。運転席が空くと即座に夫が滑り込んできた。ひー、参った参ったとボヤきながら、夫はプリウスをロータリーから出した。夫は運転が上手だが、流石にこの豪雨だと日頃以上に周囲に気を配り、殊更安全を心がけた運転をして私を安堵させた。

「家帰るの?」

 私が訊くと、夫は当然と言うように頷いた。

「お願いだから今日だけは、家は止めて」

 私は夫が信じようと信じまいと、先程直接感じたことを話して、夫を説得させることしかできなかった。夫は私に露骨に疑り深い眼差しを向けてきたが、今やそんな視線程度で怯んでいられなかった。

「ねえ、本当に、心からお願い。今日だけは信じるとか、信じないじゃなくて、一生のお願いを聞いてくれるか、くれないかで考えて貰えないかな?」

 プリウスはちょうど国道と交差する大きな十字路で信号待ちになっていた。夫は私に目を向けると、真剣な表情で尋ねてきた。

「本当に、今日は一秒たりとも家にいたくない?」

 私は夫の目を見ながら頷いた。夫は私の目を覗き込んでから前方に向き直ると頷いた。

「じゃあ、今日は何処に泊まろうか?」

「ほんと、ありがとう」

 私が心から感謝の意を伝えると、夫はハンドルを握ったまま器用に肩を竦めた。私はバッグからスマホを出した。

「ちょっと待って。すぐ調べる」

 町田街道沿いに手頃な価格でツインルームを提供できるホテルがあるのを見付けた。私がスマホで予約したことを告げると、夫は割り切ったふうに苦笑いした。

「まあ何だな。折角だから大浴場入って、ビール飲むかあ」

 そこは駅に近い煉瓦張りのホテルだった。七階のツインルームにはベッドが二つ並んでいて、夫と同じ室内で眠るのは久しぶりだと私は思った。

 夜の十一時を回る頃にはだいぶ雨足も弱まり、夕方辺りには渦を巻いていた雨雲も、刷毛のように薄い雲に変わっていた。私たちは互いのベッドの淵に腰かけて時折窓に目をやりながら、ちびちびとビールを飲んでいた。緊張後の弛緩のせいか、ちょっとした旅行気分になったせいか、私たちはここ数年来感じたこともないほど、互いがくつろいだ親密な気分になっていることに気が付いた。親しみさえ感じさせる口調で、夫が私に質問してきた。

「あのさあ、ちょっと家のことで、聞きたいことがあるんだけど」

 前々から切り出すタイミングを見計らっていたようなその口調に、私は反射的に構えてしまった。

「いやいや、そんな警戒しないで。ただ、意見聞きたいだけだから」

 と夫は前置きして、実は以前から今の家を抱えることに負担を感じていたことを話し始めた。その口調には実直な思いが籠っていて、私は素直に耳を傾けられた。今までそのことを言い出せなかったのは、自分から家を買う提案をした手前、弱音は吐くのは負けを認めたみたいで耐え難かったからだと、夫は申し訳なさそうに言った。

「これは俺の印象だから、勿論違う意見でも全然問題ないし、今話を決めたい訳じゃないから。ナツは実際のところ、どう思う?」

 私は嬉しくなって、手にしていた缶ビールを夫に向かって掲げて、「はい、乾杯」と言った。怪訝そうな顔をしつつも、夫も自らの缶ビールを重ねてきた。私は今の家は広過ぎると思うから、手頃な物件に移るのもありだと思うと伝えた。私の返事に注意深く頷きながら。夫は満足そうな表情を浮かべていた。

 私は今の遣り取りで、ここ数年分の胸の閊えが一気に吐き出せた気持ちになれた。私はぬるま湯に浸かったような安堵が身体を浸していくのを感じ、何となく渦中は過ぎたのだという気がした。夫と知り合う遥か昔、まだ私が日々曖昧に生きていた頃のように何一つとして思い煩うことのない、深い眠りに私は吸い込まれた。

 その翌朝は、強風が空に淀む全てを薙ぎ払ったような雲一つない快晴だった。町田駅から電車に乗るという夫が先に部屋を出て、私は一階ロビーのレストランでバイキング形式の朝食を取ってから、プリウスでのんびりと帰宅した。

 フロントガラス一面に拡がる、抜けるような青空に解放感を嚙み締めながら、私は家の前の十字路にゆっくりとプリウスを乗り入れた。角を曲がって家の前の十字路が視界に入った瞬間、私は思わず身を乗り出した。松井家の門前には一台のパトカーと紺色のセダンが停まっていて、時折松井家とパトカーの間を背広の男性や制服警官が行き来するのが見えた。

 恐る恐る減速させたプリウスを車寄せに近付けていくと、私に気付いた制服警官の一人がプリウスに駆け寄ってきて、運転席のドアを軽くノックした。慌てて私がパワーウィンドウを下ろすと、実直そうな顔立ちの若い制服警官が一礼をして、松井さんのお隣りの方ですかと、私に尋ねてきた。私が頷くと警官は重ねて、最近松井さんと会ったことはありませんかと尋ねてきた。私が先日の話をすると、その警官が事情を教えてくれた。今朝、三号公園沿いに宅地を縫って流れる相模川の支流で、うつ伏せで川に浮かんでいた松井さんの遺体が発見されたらしかった。それを聞いた私の頭は空白になった。

「だって、昨日お会いした時は、ほんとに全然普通そうだったんですよ」

 私が呆然と呟くと、警官も奥歯にものが挟まったような顔付きで被りを振った。

「旦那さんにも勿論聴き取りしてますけど、全く同じように仰るんですよ。心身お変わりなく健康だった人が状況だけ見ると、昨日の夜半に一人で家を出て、川に溺れた形になるんですよね。しかも、昨夜はあの台風でしょう。あんな天候の夜なら、普通、外出は控えると思うんですけど」

 警官の説明を聞きながら、私が家を出たからそれがうちを飛ばして行ったんだ、と私は思った。旦那を迎えに行くと答えた時の松井さんの柔和な笑顔が、眼前で見るかのような鮮やかさで頭に蘇ってきて、私はハンドルに突っ伏しそうになった。

 六丁目界隈の、しかも家のすぐ目の前の坂道を降ってくる形で人が立て続けに不幸に見舞われたのは、松井家が最後だった。それはまるで台風の接近と共に始まり、台風の通過と共に過ぎ去っていったかのようだった。私たちは時折このことを論じ合ったが、勿論こんな出来事を説明できる解答を見出すことはできなかった。

 私たちの間で何か変わったことがあったとすれば、それは夫が一部の神秘主義的な現象を受容するようになったことだけだった。

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接近 江川太洋 @WorrdBeans

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