7

 窓を見ると、うとうとしている間に雨が上がったらしかった。上がったといっても今は降っていないというだけで、空の色は相変わらず平坦な灰色だった。私は階下に降りると、すぐにテレビで気象情報を確認した。昨夜よりも台風の接近予想時間の精度が上がり、午後三時から夕方にかけて暴風域に突入の見込みと、いつもの男の予報士が告げていた。

 階下に降りてきた夫の顔は、緊張からか幾分堅いように見えた。

「なに? 緊張してんの?」

 私がお道化て言うと夫は苦笑しながら、朝から幽霊みたいに白い顔した女に言われたくない、と軽口を返してきた。夫が背広に長靴という格好で玄関の框に立った時、普段は見送らずにテレビを見ているが、今日は玄関前まで着いていって夫に声をかけた。

「連絡するね。今日は気を付けて」

「そっちも」

 夫が家を出て改めて独りになると、やはり家を出る考えがとんだ勘違いのように思われてきた。夫の言った通り、台風直撃の日にわざわざ外に出るなんて、兵隊が塹壕から飛び出るようなものだと思えてきた。頭を整理したくてハーブティーを煎れて一息付いていると、ふいにトイレットペーパーを買い足し忘れていたことを思い出した。窓を見るとすぐ降る気配はないように思えたので、私は思い切って今のうちに買うことに決めた。

 外に出ると、生温いのか肌寒いのか判別し難い湿った微風が吹いていた。大気に淀んだ気配がじっとりと籠っていて、それがいかにも嵐の前の静けさを思わせた。往来は静かで人通りも少なかったが、時折すれ違う人はみな何処かに避難するように足早に通り過ぎていった。震災直後のように店内は閑散として、レジ係の女性たちが所在なげに佇んでいた。私が急いで買い物を済ませて帰宅した時も、依然として空は灰色で、雨は降っていなかった。

 ソファでじっとしているのが耐え難くて、私はリビングを掃除し始めた。全く日差しの差さないリビングは午前中なのに既に夕暮れ時のような薄暗さで、四隅に濃い影が籠っていた。風が強くなってきてがたがたと激しく窓枠が揺れる音を聴きながら、私はこの暗いリビングに独りでいることが、はっきりと負担になってきた。窓外の庭の枝葉が風に折れそうにしなって揺れている情景や、時折二階から響く木材の軋みなどが、私の精神をちくちくと圧迫していった。

 昼に手早く拵えたカルボナーラを突いているといつの間にか私は、言葉にし難い圧迫感が室内中に満ちているのを感じた。浸水したゴムボートのように、私の中にじわじわと恐怖が溜まってくるのを感じたが、私は強引にそれを押さえ付けてどうにかカルボナーラを喉に流し込んだ。

 食べ終わった食器をシンクで洗っていると、換気扇にまで強風が流れ込んできて、風の強弱に合わせて送風音がふいに強まったりした。キッチンに立っていると外壁に激しく吹き寄せる強風が、隙間に潜り込むようにして家中をぐるぐると回っているのが感じられた。まるで何かが中に入ろうと、ぐるぐると入口を探し回っているみたいだと思った瞬間、私はリビングに引き返してしまった。

 リビングに戻ったら戻ったで、今度はダイニングと一続きの広過ぎる空間が、嫌でも心細さを募らせた。私はテレビを付けたが、芸能人の大袈裟な嬌声が錐で刺されたように耳に突き立って、あっという間に電源を切ってしまった。このままでは自分でもコントロールし難い、強烈なパニックに囚われそうな予感が徐々に強まってきた。

「ああ、どうしよ、どうしよ」

 私は思わず独り言を呟いていた。リビングの中央に立っていると、家の周囲をぐるぐると狂おしく巡る風の気配がよりはっきりと感じられた。子供の頃にかくれんぼで鬼になって目を閉じると、他の音から識別されて浮き上がったような鮮明さで逃げ惑う子供たちの足音が聴き取れたものだが、その時の感覚に近かった。 

 何か籠ったような気配が、室内で更に強まってきた。私はそわそわと周囲に視線を走らせた。キッチンに移動しても和室に移動しても、淀んだ気配が何処までも私に付き纏ってくる気がして、全く落ち着かなかった。

 風が吹き荒れる音に、雨樋にぽつぽつ雨滴が滴る音がついに混じり出した。思ったよりも降り始めがおとなしいのが意外だった。空を見ると墨汁を溶かしたような雨雲が凄い勢いで渦を巻いていて、おとなしいのが今のうちだけなのは明らかだった。

 徐々に雨音が強まる中、何処か遠くの方で今まで張っていた何かがいきなりぷつっと抜けた感じがして、私はあっと思った。今、何かが入ってきたと思った瞬間、私は氷水に片足を突っ込んだような恐怖に襲われた。弾かれたように背後のダイニングテーブルを振り向くと、無人の椅子が並んでいるだけだった。私は気のせいだと必死に言い聞かせたが、つい今しがたまで来客があった時のような、何かがそこにいた確かな気配が残り香のように空中にわだかまっていた。

 背筋から這い上がってくる寒気に煽られた心臓が反応して、勝手に脈拍が上がり始めた。私は大きく息を吐いて、吐息と一緒に恐怖を外へ押し出そうと努めた。キッチンに立つと、飲みたくもないハーブティーを煎れ始めた。背後のガラス扉の食器棚の隙間辺りから、誰かが立っている気配を私は感じた。私はキッチンから飛び出したくなる衝動を、意志の力で強引に抑え込んだ。何事もなかった振りをして、ローテーブルで湯気の立ったハーブティーを飲んでいると、背後からはっきりと視線が注がれるのを私は感じた。視線が注がれたうなじの辺りがちりちり逆立って、私は大声を上げそうになった。震える唇を頬の肉を噛んで抑え、ハーブティーに口を付けようとしたが、カップを持つ右手の震えがどうしても止まらず、私は紅茶を飲むのを諦めた。

 次第に雨が強まって、斜めに降り注いできた。外は既に陽が沈む間際のように暗く、私は眼前でシャッターが徐々に降りてきて出口が塞がれたような絶望感に捕われた。じっと注がれる視線が、顔の傍で飛び続ける蠅みたいに不快で、私は幾度か反射的に首を竦めた。幾ら家の中を移動しても、視線は何処までも私を追い縋ってきた。

 私は独りでに、厭だ厭だと零していた。とても一つ処に座っていられなかった。行き場所がなくて二階へ上がろうとしたが、廊下から口を開けて上に伸びる階段を見上げた途端、絶対に上れないと私は直感した。二階には一階にも増して濃い気配が澱んでいるように思われた。風呂場やトイレといった水回りは、より最悪だった。近寄ろうという気すら起きなかった。私はこの広過ぎる家の中で、徐々に居場所を奪われて狭苦しさを感じていることが、何とも皮肉なことに思われた。

 窓枠が必要以上にがたがたと揺すられる音が響き、私はそれは本当に風の音なのかと訝った。天井からはまるで誰かが歩いているようにひっきりなしに、木材がみしみしと音を立てて軋み、何が原因なのか、洗面所の方から何かがガラス戸に当たった時のような、びいいんと反響する音が響いて私は飛び上がった。何かが家中を歩き回っているようにしか、私には思えなかった。私が息を詰めていると、ふいに耳元に生暖かい吐息が掛かって、心臓が破裂するかと思うほど急激に収縮した。もう限界だった。私はダイニングの椅子に掛かっていたバッグに財布や日用品をあたふたと詰め込み、食器棚のラックからプリウスのキーを引っ摑むと、後先も考えずに家を飛び出した。

 外に出ると雨よりも風が強く、差した傘が瞬時に折れ曲がりそうになった。私が車寄せのプリウスの運転席側に回り込んだ時、ちょうど黒い蝙蝠傘を差して坂道を降ってくる松井さんと遭遇した。松井家は老夫婦なので、私は滅多に外で遭うことはなかった。見事な白髪に緩いパーマがかかり、好奇心旺盛そうで表情豊かな瞳をした松井さんは、左手に近所のコンビニ袋を提げていた。雨が本格的になる前に、買い物に出た帰りらしかった。松井さんは私を見ると表情をぱっと輝かせ、人懐っこそうに尋ねてきた。

「あら、これからお出掛けですか?」

「ええまあ、これから旦那を迎えに」

 私が咄嗟に言い繕うと、松井さんは大仰そうに顔を顰めた。

「まあまあ、それは大変なことで。これから本降りになりそうなのにねえ」

「そうですねえ。松井さんは、お買い物の帰りですか?」

 私が尋ねると、松井さんは左手にコンビニ袋を嬉しそうに私に掲げて見せた。

「いちごチョコ。甘いもの好きで我慢できないから、今のうちに買ってきちゃった」

 先程までの極度の重圧とのあまりの落差に、私の口から気の抜けた笑い声が漏れた。私が笑ったことで松井さんも微笑んだ。松井さんに報せるべきだという思いが激しく衝き上がってきて、言葉が喉元まで出掛かったが、そんな話は突拍子もない世迷言にしか聞こえないだろうと一瞬躊躇した隙に、会釈した松井さんは歩み去ってしまった。プリウスを路上に出して、家に入ろうとする松井さんの脇を通り過ぎる間際に、私は激しく後ろ髪を引かれる想いに囚われた。

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