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 話したいことがあるので真っ直ぐ帰って欲しいと、私は夫にラインを送った。今まで私から相談を持ちかけたことは一度もなかったので、おそらく夫は何の相談かと訝るはずだった。十分ほどすると案の定、夫から何の話か窺う返信が届いたが、私は直接話したいと返した。夫は真っ直ぐ帰ると打ち返してきた。私は鯖の味噌煮とヒジキを作りながら夫の帰りを待った。

 夫は八時前に帰宅してきた。雨滴の染みが点々と滲んだ背広を見ると、外はかなり降っているらしかった。夫は帰りの電車の中で、色々と考えを巡らせてきたのだろう。私の相談を厄介事と捕えて、早々に話を済ませたがっている気配がありありと窺えた。私は気を持たせ過ぎたことを内心で詫びながら言った。

「話は後でするから、それより先に着替えてきたら? ご飯もできてるし」

「それもそうだな」

 夫は苦笑いすると、二階で寝間着に着替えておとなしく食卓に着いた。私が食事中は普段通り振る舞うつもりでいることを、夫は注意深く見定めたようで、食事に専念しようと態度を切り替えたらしかった。

 テレビは番組の合い間のニュース速報を放送していた。台風二十七号の関東上陸は確実で、明日の午後から夕方にかけて到達の見通しと報じていた。大和川やまとがわの氾濫で車の窓ほども黄土色の川水が溢れ返った堤防付近の空撮や、崩落した土砂で家が半分飲まれた和歌山の山地の映像など、今日の関西各地の被害状況が交互に映し出された。テレビを見ながら夫が無言で首を振っていた。

 夕食が済むと、私は夫に缶ビールを一本手渡し、自分用にハーブティーを煎れた。私がここ数日の状況を説明する間、夫は時折缶ビールを煽りながら頷き続けたが、私が説明し終えると、無表情になって床に目を落としてしまった。見るからに納得していない様子だったが、顔を上げた時に向けられた視線にはあからさまな怒気が籠っていたので、私は驚いてしまった。夫が静かに口を開いた。

「それで? 本当は何が言いたいの?」

 そんな返しが来るとは考えてもいなかったので、私は一瞬言葉が詰まってしまった。

「何が? どういうこと?」

 逆に私が訊き返したことで気分を害したらしい夫が、ムキになって返してきた。

「だから本当は、そんなことが言いたかったのかって言ってんの。当て擦りもたいがいにしたら? 本当は家のこととか、今後のこととか、俺に色々言いたいことがあるんでしょ?」

「ちょっと待って」

 私は思わず夫を手で制した。

「悪いけど、そっちはそんな話したいの? 私は嫌だけどな。話したって泥沼になるだけだから。だから触れないように気遣ってたのに、わざわざそんな蓋開けようとする? 特に今だけは勘弁して欲しいな。それより明日どうすればいいって、本気で訊いてるんだけどな。それともそんなの戯言だから、相談なんて必要ない?」

「えっ、本当にその話だったの?」

 しまった、というふうに大仰に顔をしかめた夫が、しおらしく私に謝罪してきた。これまでに幾らでも目にしてきた、頑なに非を認めない小さな男どもとは違って、夫は自らの非を認めた場合はちゃんと態度で示してきた。私は夫のそういうところはとても良いと思ってきた。

「こっちこそごめんなさい。私も言い過ぎたね」

 私も頭を下げると、夫は首を振った。

「いや、こっちこそ。またやっちゃって本当に申し訳ないんだけど、さっきの話は正直ただの偶然としか思えない」

「ええっ、それで片付く話なの?」

 驚いた私が尋ねると、夫が尋ね返してきた。

「じゃあ、逆にどうしたらいいの?」

「自分でも正しいか分かんないけど、でも明日は、家にいない方がいいって思う」

「明日台風直撃だよ? それに、新山さんの子供は外で亡くなったんでしょ? 信じる信じないは一端置いといて現実的対処として考えても、明日は外に出ないで家にいた方がいいんじゃないの?」

 理屈では夫の言うことも尤もだと思ったが、理屈ではない根っ子の部分で、それは違うと強く訴えるものがあった。私はここが岐路なのだと思った。普通に生きていると、突然多大な影響を及ぼす選択に直面する瞬間が何度かあって、きっと今はその一つに行き当たったのだと思った。

「理屈じゃ筋に合わないのは分かってるけど、でも明日は、やっぱり近場のホテルに泊まろうって思ってる」

 私がそう言うと、夫は諦めの滲んだ口調で尋ねてきた。

「その言い方だと、話す前から決めてたんでしょ? ならこれは素直に訊きたいんだけど、そもそも俺に相談する必要あったんかね?」

「あなた。あなたがどうするか、それを決めないといけないじゃない」

「あ」

 夫が急に恥ずかしそうに口ごもったので、私は軽く吹いてしまった。夫も口元に笑みを浮かべると言った。

「実際問題、明日も普通に出社だし。台風のせいで読めないけど、普通なら俺は夜まで外にいる訳でしょ?」

「それで?」

「ならさあ、明日はどうすればいいか、今決めないで、その時の状況で決めてみたら?」

「どういうこと?」

 私が訊き返すと、夫は飲み干した缶ビールをテーブルに置いて続けた。

「台風の状況が読めないし、外に出るのが危険な状況かも知れないでしょ? だから、明日はタイミング見て連絡取り合って、その時家にいるのか、外に出るのか決めたらどうよ、ってこと」

 その答えは納得できた。私は夫にもう一つ訊きたいことがあった。

「あの、因みにだけど、偶然って思うのはやっぱり変わらない?」

 私の質問に夫は頷いたが、こう付け足した。

「でも軽んじて、何も対処しないって言ってるんじゃなくて。普通に危機管理するつもりで、明日はちゃんと状況見るから」

 夫がそういう考えなら、私は概ね合意と判断して良いと思った。何となく協定が成立したようなぬるま湯気分になって寝室に引き上げると、またベッドが異様に遠く見えて私は舌打ちしたくなった。布団に潜っても、案の定無駄だった。

 布団に潜って暗い天井を凝視していると先程の決意が揺らいできて、霧のように湧いて出た迷いが渦を巻き始めた。風が強まって、庭の木の枝葉が激しく揺すられる音に石礫のような雨粒が雨戸のサッシを叩く音が重なって、私は心を乱された。岐路を間違うと取り返しが付かなくなるという焦燥感に煽られて、良くない具合に脈拍が早まってきた。私は息苦しさがなかなか取れないまま、眠気で頭が膨張したようになって朝を迎えた。

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