ラ・カンパネラ

林海

第1話 ラ・カンパネラ


 初めて、2人きりで会った。

 放課後の教室。



 ◇ ◇ ◇


 僕とつむぎは、ブラスバンド部。

 紬は、子供の頃からフルートのレッスンを重ねてきて、音大を志望している。一部では、天才少女とも言われているほどの腕だ。

 でも、担当楽器はアルトサックスだった。

 理由は、副部長の担当楽器がフルートで、自分より遥かに技術の高い紬を疎んじたから。

 ま、たしかに、副部長がファーストで紬がセコンドじゃ、下パートが主旋律を食っちまう。


 僕は、バリトンサックスが担当だった。

 共に「だった」というは、やはり副部長の暗躍のせいだ。

 紬と「担当楽器を交換しろ」という横暴。

 悪意は、たぶん、僕にも向いている。僕は、ピアノで音大を受けようと思っている。やっぱり、目障りだったんだろうね。紬と、お互いに聴かせ合ったりもしていたし。


 建前は、ある。

 低音楽器は肺活量が多く、体力のある男子に割り振られることが多い。そして、伝統的に金管は男子、木管は女子が多数を占めている。

 バリトンサックスは木管だし、僕は男子だ。だから、僕は金管担当の練習には参加できず、木管担当の練習への参加は疎まれている。

 ここまでは事実だ。

 だから、金管と木管の壁、男子と女子の壁を取り払うために、女子にも低音楽器にチャレンジして欲しいし、男子にも木管楽器の中高音楽器を吹いて欲しいんだ、と。

 

 建前の裏の本音は、紬をさらにフルートから遠ざけること以外にない。

 でも、その建前は完璧だったし、顧問の先生も部長も了解の上で、副部長の立場で言われれば、下級生の僕たちには反論できなかった。


 お互いに楽器を交換し、2週間ほど教えあって。

 僕と紬は、メールのやりとりをするようになっていた。

 2人だけのやりとりに、LINEもTwitterも気持ち的にそぐわなかったからだ。お互いに、同じ逆境に放り込まれた仲だからね。

 愚痴を言うにも、誤解されないようにきちんと書きたい。きちんと読みたい。

 僕と紬の関係は、そんなところから始まった。



 フルートを構えた時の、風格すら漂う姿が信じられないほどに、紬は小さくてとても華奢だった。

 僕たちにとっては、協奏曲とかを演じる時のため、将来のための経験として位置づけられた部活だ。だから、どんな楽器でもそれは仕方ない。

 でも、バリトンサックスは大きくて重い。時として、紬と同じ大きさにすら見える。

 首にかけたストラップでその重さを支える必要があるのだけど、無理が来るのは当然だった。



 顎関節症。

 これが、医者の診断。

 休養が必要。咥える楽器は特によくないと。

 

 紬にとって、退部は副部長に対する敗北を意味した。

 ソロプレーヤーを目指す者の、自負と闘争心は凄まじい。また、そうでなければ生き残ってはいけない。そういう世界なのだ。

 紬は、意地でも部活を辞めないと僕に宣言し、強引に練習を続けようとした。



 僕は悩んだ。

 そして、メールではなく、きちんと眼を見て話そうと思った。

 だから、初めて、2人きりで会ったんだ。

 放課後の、紬の教室で。

 


 僕が決意した、紬に話さなきゃいけないことは、「部活を諦めろ」ってことだった。

 フルートは、顎の関節に負担をかけない。

 だから、この先の進路を考えたら、きちんと病気を治すべきだ。

 食事にも不自由になるほど悪化したら、フルートだってきちんと吹けなくなってしまう。

 そしてそれは……、それは、僕にしか言えないことだ。


 副部長からのいじめに近い仕打ちを、紬は親に話せていない。

 そして、副部長に親切ごかしに「部活を諦めろ」言われたら、紬の心は敗北感でいっぱいになってしまう。そして、それ以上に、副部長あんなのにそのセリフを言う優越感を与えたくない。

 だから、引導を渡すのであれば、せめて僕が。

 そう思ったんだ。



 ◆ ◇ ◇


 紬は、教室の窓際で立っていた。

 日が傾いていて、紬の横顔を照らしている。

 僕にとって、初めて大切だと思ったひと。

 綺麗で、可愛くて、なにがあっても守りたいひと。

 そのひとが、絶望と孤独を感じている。

 そして、僕はその絶望と孤独に追い打ちをかけるため、ここに来た。


 「裏切るの!?」

 言うと思っていたよ。

 「しょうだけは、翔だけは、私の気持ちが解ってくれていると思っていたのに!」

 うん、それも言うと思っていた。

 でも、僕は黙るしかない。


 「未来のために」

 その言葉はもう言ってしまった。

 それに足す言葉なんか、もうない。

 そして、この言葉を繰り返すことは、自分が副部長のように親切ごかしにものを言う存在に堕する気がした。「君のためなんだ」なんて言葉、繰り返せるヤツの方がおかしい。


 紬からの涙混じりの言葉の奔流は、最後は号泣で終わった。

 僕に、できることはなにもなかった。

 言葉は無力だ。

 そして、裏切り者の僕が、紬の肩を抱くなんてこともできるわけがない。


 僕にできたのは、ただ、背を向けて立ち去ることだけだった。



 ◇ ◆ ◇


 それから3日後。

 紬から退部届が出された。

 そして、その一週間後。

 僕も退部届を出した。

 紬の馘首くびを切ったのは、僕だ。

 よりにもよって、僕が紬を追い出したのだ。

 その僕が、部活を続けていられるはずもない。

 

 一部の女子たちからの、「せいせいした」って声も聞こえてきた。

 僕がもっとイケメンだったら、結果は違ったのかも知れない。

 でも、僕は女子の群れに放り込まれた、たった一人の普通の男子で、居場所を築く前に去ることになったのだから、ある意味当然のはなむけの言葉だった。

 それに、紬が部活を辞めて、それが僕のせいかもって思われるのも仕方がない。ずっと一緒に練習していたからね。

 そして、紬の身体のことを、僕の口から言うのは憚られたしね。


 部活での合奏は楽しかったけど、その代償が紬の涙だとしたら、僕のバランスシートは真っ赤だ。

 たぶん、僕は、二度と吹奏楽器に触ることはないだろう。やはり、独りで奏で、独りで曲を完成させられるピアノの方が僕には向いている。



 ◆ ◆ ◇


 その後、紬が僕を見てくれることはなくなった。

 廊下ですれ違うときも、露骨に視線を外される。

 いつも、全く存在しないものとして扱われる。

 覚悟はしていた。


 「僕だからこそ言わねば」と、「僕にだけは言われたくない」がぶつかってしまった結果だ。

 どちらにも悪意なんてない。

 紬の人柄は、往復したメールの数とその内容が証明している。

 紬は負けず嫌いで、どこまでも真っ直ぐだ。

 そして、それをげたのは僕だ。

 僕だから枉げられたんだ。


 間違いなく僕は紬が好きで、紬もきっとそうだった。

 だから、紬は僕を許せない。

 ただ、生じた結果は、どうしようもない。

 そう、どうしようもなかったんだ。

 


 ◇ ◇ ◆


 そのまま、1年が過ぎた。

 文化祭の余興でラ・カンパネラなんか弾かされたりもしたけど、他に特別なこともない。

 レッスン日以外は、まっすぐ帰宅する帰宅部に、なにかが起きることもない。

 ただ、進路を決定し、それに向けて準備をするための時間だけは着実に減っていた。


 紬の進路希望先が聞こえてきた。

 〇〇音大。

 僕と同じ。

 僕の高校で、音楽系に進むのは1年に数人しかいない。今年は、僕と紬だけ。

 だから、否が応にも聞こえてくる。

 僕は、進路担当の先生に、希望の変更を伝えた。


 ピアニストとしての僕に、限界があることは自分で判っている。世界で一流といわれる人たちの域には到底達しない。世界中を旅してコンサートを開いて、お客さんが来てくれるピアニストなんて、本当に一握りなんだ。

 でも、学校の音楽の先生としてであれば、十分以上の才能はあると思う。だから、教育系の大学の音楽科だって、僕の進路として問題はない。



 ◆ ◇ ◆


 2ヶ月後。

 再度、進路を確認する面接で、進路担当の先生がぽろっとこぼした。

 「おお、当校から、そこへは2人だな。

 合格が確実だから、進路担当としてはありがたいな」

 「2人って……。

 2組の広畑なら、〇〇音大が志望だったでしょう?」

 「アイツ、『レッスン料の問題もあるし、学校の先生でいいや』とか、失礼なこと言っていたぞ。

 教師を目の前にして、教師でいいやとか、ま、アイツにしか言えないセリフだな」

 なんでまた……。

 それになんで、僕と同じところを選んだんだ?


 「まぁ、プロデビューできそうな逸材ですからねぇ。

 もったいないですよね」

 開けてしまった間を埋めるために、僕はそんなことを言った。

 「まぁな。

 だけど、管楽器のプロで客を呼べるなんて、バイオリンやピアノより厳しいだろう?

 俺は、順当に良かったと思っているよ。

 どこかのオーケストラで拾ってもらうにせよ、倍率は数百倍らしいし、レッスンプロも生活が安定しないからな。

 夢のないことを言って済まんが、教師という職は安定だけはしている」

 「そうですね」

 そう呟く。


 「先生、俺、進路、変えたいんですけど……」

 「なんでだ?」

 「……考えたら、教育系の大学なら、自宅から通える範囲に他にもあるかなって」

 「……お前、広畑となんかあったのか?」

 「いえ、別に……」

 「お前ら、部活も同時期に辞めていたな。

 なにもないならいいが、在学中のくだらんことで、将来への判断に禍根を残すな。きちんとケリつけて、自分の進路について真面目に考えろ」

 「はい」

 ……反論なんてできないよ。あまりにド正論すぎて。



 ◇ ◆ ◆


 ……一年ぶりだな。

 このメアドにメールを打つのも。

 紬から返事が来ないなら、来なくてもいい。来ないならば、追えなくなるまで僕が進路を変え続ければ済むことだ。

 先生だって、僕たちの音楽系という特殊さはあるにしても、個人情報として情報をこぼすことはなくなるだろう。

 「紬さん」

 って、メールの宛名が不自然。ずっと「紬」って呼んできたからね。でも、ここで呼び捨てはあんまりだよな、きっと。


 「紬さん

 今日、進路指導の先生に、〇〇音大から△△教育大に進路変更したことについて、どういうことかと聞かれました。

 僕が進路を変え、紬さんが後を追うように変更し、さらに僕が再変更するのはなぜかと。

 紬さんを裏切ってしまった僕には、紬さんの意思がどういうことか解りません。そもそも、紬さんには、僕の存在が目障りだったのではないでしょうか。だから、紬さんの目につかないところに僕は進学するつもりです。

 紬さんは、持って産まれたものの量が僕とは違います。ソロプレーヤーだって夢ではないと思います。

 紬さんは、迷わず自分の道を進んでください」


 ……送信。

 メアドを変えていたら、届かないよな。

 でも、悪魔デーモンはお出ましにならなかったようだ。



 「翔へ

 私が私の進路を決めるのに、口を挟まないでください。

 また、翔も、私の進路によって自分の進路を変えないでください。迷惑です。

 翔のピアノ、大好きでした。

 でも、文化祭のあの演奏はなに?

 なんで、あんな自動ピアノみたいな音を出す、情けないプレーヤーになってしまったのですか?

 人の未来に口を出したのだから、その覚悟はあったはずです。

 その覚悟は、あんな音を出すような、頼りないものだったのですか?」


 変わらないな、紬。

 そして、厳しいにもほどがある言い方だなぁ。

 紬の真っ直ぐさは、時として周囲の人も自分も傷つけているよな。


 「紬へ

 明日、昼休み、音楽室に来い。

 死んだ音かどうか、俺の音を聴かせてやる」


 「翔へ

 死人の演奏なんか聴かされたら、殴る」


 

 ◆ ◆ ◆


 フランツ・リスト。パガニーニによる大練習曲。

 「ラ・カンパネラ」と呼ばれる曲。

 プロの演奏に対しても賛否両論を呼びやすい、それだけ我が表現される曲。

 自動ピアノのようにも、破綻寸前にまでメローにも弾ける曲。


 紬が声を上げたのは、僕が弾き始めて、たった6小節目。

 前奏から主題の先頭にかかってすぐ。

 まだ、10秒も弾いてない。

 「ストップ、翔。

 もう、いい。

 響かない鐘なんて、聴けたもんじゃない。

 私が、翔を殺してしまった。

 翔の音はもう聴くことができない……」

 「だから、俺を見守らないとと思っていたのかよ?

 ……さぁ、殴れよ」

 「……」

 そうか。

 僕の音は、やはり死んでいるのか。


 そうか。

 涙ぐむ紬を見ていて、不意に解った。

 音楽の自己表現はごまかしが利かない。

 僕は、裏切り者としての、好きな人をも切り捨てる冷淡な人間としての、そんな自己を表現しかねない音楽に、足を踏み入れられなくなっていた。

 僕は、演奏が、それによる表現が、ただただ恐怖になっていたんだ。


 指が動けば、曲は奏でられる。

 でも、そこに僕はいない。

 そして、その恐怖の原因の紬がここにいることで、紬のために弾くことで、それに気がつくことができた。


 紬は、文化祭以降、そんな僕にとっくに気がついていた。

 僕のことを無視し黙殺していたのは、文化祭までは裏切られた怒り、その後は僕の表現を殺してしまった後ろめたさだった。そして、その後ろめたさが、いろいろなことを紬に気が付かせたのに違いない。

 

 「紬。

 これが今の僕だ。

 もう一度、聴いてくれるか」

 紬は無言で頷いた。



 結果は不満足だったけど、その過程に僕は後ろめたさを持っていない。精一杯やった結果が不幸に終わっただけだ。

 分の悪い勝負には負けたけど、僕も紬も、人間として堕したわけじゃない。

 そして、その不幸を背負った紬は……。

 身体も治り、フルートを思うがままに体の一部としていてる今の紬は、僕を理解し、そして憎んでなんかいない。

 あとは、僕自身の問題なんだ。

 そして、一年前まで、そうだ、紬のいた一年前まで世界はこんなふうに明るかったんだ。


 もう一度最初から。

 ラ・カンパネラ。

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ラ・カンパネラ 林海 @komirin

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