笑顔を忘れた君へ
涼月
笑顔を忘れた君へ
今日も、終電になってしまった。
流石に疲れた。
凝り固まった体をほぐすように、肩を軽く回す。
忙しい毎日に息つく暇も無いけれど、今の俺は結構充実した毎日を送れていると思う。
なんと言ったって、憧れのアニメの世界で働けているんだから。
駅から家までの十五分の道のり。
車も人通りもほとんどない。
自分の靴音だけが真っすぐに響いて、空気が澄んでいるのを感じる。
頭の上に広がる宇宙の果てまで独り占めしているような、不思議な気分を味わっていた。
ああ……でも、現実が語りかけてくる。
お腹すいた。
夕飯はカップ麺でいいや。って、シャンプーがきれてたんだ。
俺は、ため息を付きながらコンビニへ寄る事にした。けれど、いつもの家の近くのコンビニは、今日に限って臨時休業中。
つくづくついてないと思いながら、二ブロック先を曲がったところにある、小さなコンビニへ向かった。初めての店だ。
カランとベルの音を立ててドアを開けたが、いらっしゃいませの声も無い。
ああ、コロナだからか。
そんな事を思いながら、シャンプーを掴んでレジへ行く。
深夜の裏通りのコンビニは全然人もいないので、レジには女性店員が一人。
愛想もなくぽつねんと立っていた。
淡々とレジに打ち込んだ店員は、聞こえないほど小さな声で、
「レジ袋はいりますか?」
「いりません」
マスクで半分隠れているので良くわからないけれど、ずいぶんと根暗な店員だな……そう思った瞬間、あれ?
なんとなくどこかで会った事がある気がした。
一体どこで?
慌てて記憶を辿る。
俺は年齢イコール彼女いない歴だから、女性の顔をまじまじと見たことなんて、かつて一度も無いぞ。
いや、一度だけ……
まさか花島さんか?
急にスピードの速くなった鼓動が耳元に響く。
ネームプレートに目をやってから、おいおい結婚して名前変わってるかもしれないだろ。
セルフ突っ込みしながら、なるべく自然に確認する。
『HANAJIMA』の文字
思わず、嬉しさと懐かしさと、甘酸っぱい思いに満たされた。
中学二年生の俺の初恋
後にも先にも一回きりの恋
俺の事なんか、覚えてるわけ無いか……
「八百八十円です。」
花島さんは、小さな声でそれだけ言うと、目も合わさずにお金を受け取り、釣りを返してきた。
ほんの少し手が触れあって、俺はドキッとする。
「あ、あの……」
俺に向けられた怪訝そうな瞳には、かつてのような明るい輝きは無かった。
暗いビー玉をはめ込んだだけのように、感情のない目。
一体何があったんだろう……
面差しが劇的に変わってしまっている。
半分はマスクに隠れているけれど。
でも、俺は確信した。
彼女に間違いない。
クリっとした目と長いまつ毛は、今も変わらず綺麗で、俺はやっぱりまた恋してしまいそうだ。
「いえ、なんでも」
結局、何も言えないままシャンプーを掴むと、レジからゆっくりと離れた。
彼女はそのまま軽くお辞儀をすると、おしまいとばかりにカウンターの整理を始めた。
気づくわけないよな。
俺はあのころと違って、背が十五センチくらい伸びているし、コンタクトにしたからビン底黒縁眼鏡をかけていない。マスクもしているし。
それに、彼女と話したのは、たった一回きりなのだから……
俺が花島さんと出会ったのは、中学二年生で同じクラスになったからだ。
彼女はなんでもきちんとこなす優等生タイプの女の子で、顔立ちもかわいかったから、男子に人気があった。
彼女が誰を好きか、みんな興味津々だった。
でも、中学時代に特定の彼氏がいた噂は聞かなかったな。
地味で引込み思案な俺は、彼女を目で追いかけることくらいしかできなかった。
それだけで、充分だったし……
そんなある日、後の席の女の子と花島さんの会話が聞こえてきた。
どうも彼女はあるアニメの登場人物のファンらしい。
アニオタの俺としては、嬉しい事だった。
それは俺も好きなアニメだった。
彼女が好きなのは、タケルと言う爽やかイケメン。
俺は逆立ちしても、タケルのようにはなれないけれど。
でも、タケルの絵を描く事ならできると思った。
絵を描くことだけは好きだったから。
俺は一生懸命、その人物の絵を描いた。
何枚も何枚も描いて、上手に描けるようになったら、今度はどうしても彼女に見せたいと言う思いに駆られた。
今思えば、なんでそんな勇気が持てたのかすらわからない。
でも一途な思いと言うのは、時にものすごい原動力となる。
一番よく描けた絵を、毎日学校へ隠し持って行って、彼女に見せるチャンスが来るのを、ただひたすら待ち続けた。
そして、遂に唯一無二のチャンスが訪れたのだ。
放課後、彼女は係の仕事で教室を出るのが遅れた。
俺も別のことをやっていて、たまたま残っていた。
ふと気づくと、最後に二人きりになっていた。
俺はなけなしの勇気を振り絞って、彼女に声をかけた。
「こ、これ」
「森川君、何? あ、タケルの絵!」
花島さんは驚いたような顔で絵を見つめてくれた。
「私もタケルのこと大好きなの」
そう言って、ものすごく嬉しそうに笑ってくれた。
クリっとした瞳が、キラキラと輝いている。
まるで春風が吹いたようだった。
彼女の笑顔が、周りの空気をふわりと包み込み温めてくれる。
俺はその風に全身包まれた。
幸せな気持ちが心を弾ませる。
「凄いねー。上手だね」
「よ、良かったら、あげるよ」
「え? いいの! ありがとう。森川君、アニメーターさんみたいだね!」
その一言が、俺の人生を決めた。
俺はアニメーションの専門学校へ進み、今アニメーターとして、修行の毎日を送っているからだ。
あの一言がなければ、俺は自分の絵に自信を持てなかっただろうし、今頃夢も希望も無く、やりたくもない仕事について、へとへとになっていたかも知れない。
忙しくても楽しい毎日を、こんなふうに送れてはいなかったと思う。
だから、花島さんは俺の初恋の人であり、俺の恩人でもあった。
それなのに……
あの春風のような笑顔はどこへ行ってしまったのか……
彼女は笑顔を忘れてしまったのだろうか……
俺はそれから、毎日のように、さりげなくあのコンビニを訪れた。
そして彼女のシフトを確認する。
勤務はいつも真夜中。水、金、日の三日間。
でも時々体調を崩して、休みがちでもあった。
一体何が彼女を変えてしまったのだろう。
どれほどの悲しみや苦しみがあれば、あんな表情の無い人間に変えることができると言うのか。
明るくていつも笑顔に溢れていた彼女は、どこに行ってしまったのか……
少しでも励ましたい。
俺はまた、なけなしの勇気を振り絞ってみた。
今日も深夜のコンビニへ。
ビールを持ってレジへ向かう。
そして、折り曲げた千円札に、さり気なくメモ用紙を挟んだ。
けれど、彼女はメモ用紙を見つけると、黙って俺に返してきた。
ああ……やっぱり見てくれないか。
「すみません。ゴミが挟まってましたか。そのまま捨てておいていただけますか?」
俺はそう答えるのがやっとだった。
彼女はメモ用紙を持ったまま、困ったような顔をしていたが、俺が受け取らないのを悟ると、そっとレジ台の横に置いた。
そりゃそうだよな。お客のゴミなんていちいち確認しないよな。
メモ用紙には、あの時と同じタケルの絵。
彼女が好きだったキャラクター
でも、もう彼女は忘れてしまっているかもしれない。
そんな昔に好きだったアニメのキャラなんて、いちいち覚えていないか……
深夜にやってきて、変な紙渡す不審人物と思われたかな?
俺だと気づいて無いし。
いきなりこんな事されたら、怪しい人にしか見えないよな。
俺は黙って釣銭を受け取ると、とぼとぼと店を後にした。
でも、やっぱり、あきらめきれない。
彼女と付き合いたいとか、そんな大それたことは思っていない。
でも、あの頃のように笑って欲しい。
あの頃のような優しい笑顔を取り戻してあげたい。
俺に何かできることは無いのか……
俺はそれからも、メモ用紙入りのお札を払い続けた。
何枚も何枚も。
彼女は最初の数回は返そうとしてきたけれど、そのうち諦めたように、そのまま受け取ってくれるようになった。
相変わらず見てはくれないけれど。
でも、不審者として警戒されたり、通報されたりしてないだけマシか……
無表情な店員と怪しいお客。
そんな二人のレジでのやりとりが、ルーティンワークのように続いていた。
今日は終電では無くて、始発電車で帰宅した。
と言っても、別にブラック企業で鬼のような残業をこなしていたわけでは無い。
近々公開予定の映画が、ようやく完成したのだ。
会社のみんなと、会社で打ち上げをして、語り合ってきたからこの時間になってしまっただけ。
俺の会社は、社長の情熱が凄くて、みんなを引っ張ってくれている。
そして、その社長を尊敬する人々が集っている。
より良い作品を作るためには、みんな真剣に議論を戦わせているけれど、普段は和気あいあいとした楽しいメンバーだ。
俺はこの会社に就職できて、本当に良かったと心から思っている。
後は、この映画がヒットしてくれると嬉しいな。
みんなで一生懸命作りあげた作品。
一人でも多くの人に見てもらいたい。
そんな高揚感を抱えたまま、俺は家路へと歩いていた。
体は疲れているけれど、心は軽い。
朝焼けの東の空は赤くなってきたが、まだまだ街は暗闇の中。
でも、これから動き出そうとうずうずしているような、始まりの空気が漂っていた。
いや、それは俺の気持ちを映し出しているだけかな。
なんとなく、この幸せな気持ちを誰かと分かち合いたくなって、無意識に遠回りして、花島さんのコンビニの前を通った。
おいおい、今日は火曜日の朝。彼女のシフトじゃないぜ。
自分で自分の行動に呆れるものの、それほど舞い上がっている自分がかわいく思えた。
丁度コンビニ前に差し掛かったところで、前から歩いて来た女性とぶつかりそうになった。
「すみません」
女性の顔を見て驚いた。
花島さんだ!
何か声を掛けたいのに、何も言葉を思いつけなくて、そのまま通り過ぎる。
ああ、本当は映画のこと話したかったのに……
「あの……」
小さな小さな声が聞こえた。
空耳じゃないよな?
俺は慌てて振り返った。
目の前に俯きながらこちらへ体を向けている花島さんが居た。
「はい」
花島さんはそのまま固まったように動かない。
マスクの上の瞳が、不安でいっぱいになっている。
「えっと……コンビニの方ですよね。俺、いつもゴミ入りお札渡して、すみません」
口をついて出てきた言葉に、我ながらがっくりする。
「あの……」
だが花島さんは、意を決したように、肩掛け鞄から紙の束を取り出した。
あれ! 捨てて無かったんだ。
俺はどうリアクションすればよいかわからず黙っていた。
取って置いてくれたのか、捨てるのに困ったから返してくるのか……
彼女はおずおずとメモ用紙の束を差し出す。
そして、消え入りそうな声で言った。
「……もしかして、森川君?」
え!
気づいてくれたのか?
俺は飛び上がるほど嬉しくて、勢いこんで言った。
「俺? そう! 森川だよ。中学で一緒のクラスだった。気づいてくれたんだ! いや、嬉しいな」
思わず頭に手をやって、ペコペコと挨拶してしまう。
花島さんは、ほっとしたような目をして、メモ用紙を差し出し続けた。
「これ、森川君の絵だよね」
ちょっと自信無さげに言う。
「うん、そう。よくわかったね。凄く嬉しいな。ありがとう」
花島さんは、ほぅっと息を吐くと、
「森川君。気づかなくてごめんね」
「いや、俺も中学からしたら、結構背も伸びたし、コンタクトにしたしね」
ああ、と言う感じに彼女は頷いた。
「でも、どうして俺の絵だってわかったの?」
思い切って聞いてみる。
「前の……絵と見比べたの」
「え! 俺があげた絵、取っておいてくれたんだ!」
俺は驚きと嬉しさに、叫び出しそうな気持ちを必死で抑えた。
花島さんは、コクリと頷く。
「好きなアニメのキャラクターだったから」
「俺、実はさ、今アニメーターとしてがんばっているんだよ。あの時、花島さんが言ってくれたから。俺の絵を褒めてくれたから、自信が持てたんだ。ありがとう」
彼女の目に驚きの色が広がった。
感情の無いビー玉のような瞳と思っていたけれど、そんなことは無かった。
彼女の瞳は今も、小さな気持ちの動きを映し出しているんだ。
俺は嬉しくなって言った。
「もっといい物、見せてあげる」
彼女から絵の束を受け取って順番を確かめる。
几帳面な彼女らしく、渡した順番どおりにきっちり重ねられている。
俺は、メモの束の左端を掴んで、右側をパラパラと動かした。
彼女の、瞳にほんの少しだけ、好奇心の色が現れた。
パラパラパラパラ
花島さんの目元が、あ! と動いた。
「ね。なんか言ってるみたいだろ」
絵のタケルの口元が動く。
タケルの表情が優しくなり、次に照れくさそうな顔になる。
「これって……」
「そう、タケルがヒナコに告るシーン」
俺はもう一度パラパラと捲った。
『キ ミ ガ ス キ ダ』
タケルのセリフ。
たった十秒のアニメーション。
ページを捲る度、繰り返されるメッセージ。
君が好きだ
君が好きだ
君が好きだ
花島さんが、俺の目を初めて真っ直ぐに見てくれた。
俺もありったけの心を込めて、彼女を見つめ返す。
「……ありがとう」
震える声が、静かに彼女の思いを告げた。
揺れる瞳が、声なき言葉を伝えてくる。
私の事、覚えていてくれてありがとう
気遣ってくれてありがとう
私をちゃんと見てくれてありがとう
とっても、とっても
「……嬉しかった」
彼女の瞳から、ポロポロと涙が溢れ出た。
まるで、今ようやく泣くことを知ったかのように……
流れる涙をぬぐう事もせずに立ち尽くす彼女を、俺はたまらなくなって抱き寄せた。
そうか……そうだったんだ。
彼女が忘れていたのは、笑顔だけじゃなかったんだ。
涙でさえも、どうすればいいのかわからなくなっていたんだ。
彼女は振り絞るように泣きじゃくる。
それはそれは苦しげで悲しげで。
俺の胸も締め付けられるようだった。
今日は涙しか取り戻してあげられなかったけれど……
明日からも毎日。
俺は、君だけに贈るアニメを作り続けるよ。
何本も、何本でも。
君に笑顔が戻る日まで―――
笑顔を忘れた君へ 涼月 @piyotama
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます