いつも通りの付き人

鹽夜亮

第1話 いつも通りの付き人

 夕暮れ時を過ぎ、通い慣れた道は閑散としている。鴉が鳴いた声が、嫌に耳に残る。紅い日暮を終え、月もまだ顔を出さない。妙に青黒い空は、日中のそれと比べて、重量を増しているように思える。

「ああ、またか」

 誰もいない道。俺の発する声だけが木霊する。鴉は鳴くことをやめた。足を踏み出すたびに、半端に柔らかなスニーカーの靴底が、コツコツとも、パタパタとも言えない音を立てる。

「いい加減にしてくれないかな」

 音は一つではない。それにはとうに慣れた。親しんだ自身の靴音に、もう一つのそれが共鳴するように重なっている。背後に人の気配はしない。それも、いつも通りだ。

「なにが楽しくて俺なんて付け回すんだか。振り返りもしなければ、怖がりもしない。どこの誰か知らないけど、追いかけるならもっと適任者がいるんじゃないのか?」

 靴音の主は答えない。俺の問いも、ただの暇つぶしだ。淡々と足を進めていく俺に、離れるでも近づくでもなく、ただそれは後ろにある。

 通学路は、住宅街を一旦離れ、小さな林の横を通過する。暗闇が深まり、宵闇に慣れない目が視界を狭窄させる。

「ほら、いつものとこだよ。驚かすんじゃあこのあたりが適当じゃないか。今日も何もしないのか?」

 問いかけに返答はない。ああ、つまらない。反応のない何者かに語りかけるのは、鏡の前の独り言に似て、虚しい。鴉がまた鳴いた。綺麗な声だ。俺はそれが嫌いじゃない。一人歩く帰り道に、孤独を忘れさせてくれる。道の脇に栗が落ちている。既に中身はない。どこかの獣が食べたのだろう。そんな光景に、秋の訪れを感じる。考えれば、数日前より随分と肌寒い朝晩が増えたものだ。

「どうせ何も答えないのは知ってるけどさ。せめて暇つぶしくらい付き合ってくれてもいいんじゃないか。ただ後ろを歩かれても、何も怖くないし、今時そんなの怪談話の種にもなりゃしない」

 後ろの靴音は答えない。ただ、共鳴する音だけが、鼓膜を打つ。視界の隅に、道路の端へ追いやられた黒い塊を見つける。

「…鴉か。死体を見つけるのは珍しいな」

 鴉の死体は、綺麗だった。艶のある黒い羽を淑やかに折りたたみ、まるで眠るかのように横たわっている。外傷は見たところなさそうだ。病気だろうか、それとも年老いた末の往生だろうか?…どうでもよかった。瞳すら開かれていない。きっと苦しまずに死んだのだろう。安らかな寝顔、と言えるだろう。それも一晩も経てば、どこかの獣に食い散らかされることだろうが。

「なぁ、お前は死んでるんだろ?お前の死体はどんな風だった?綺麗に死んだのか?それとも現世へ未練たらたら、グロテスクに死んだのか?」

 靴音は答えない。共鳴する音程も変わることがない。

「つまらない。つまらない。つまらない。話しもしないなら、せめて何か面白いことでも起こしてくれよ。飽き飽きしてるんだ、毎日ここを歩いて帰ることに」

 毎日毎日。同じ場所を同じような時間に歩く。小さな変化はあるが、それは大抵どうでもいいことに他ならない。雨が降れば靴が濡れるだけ、雪が降れば歩きにくくなるだけ、暑ければ汗をかくだけ…何も変わらない。変わっていても、それは些細で取るに足らない。

「ほら、林も終わるぞ。もうすぐ俺の家だ。今日も玄関までか?家の中には来ないのか?ずいぶん遠慮深いんだな、お前は」

 道に沿って続いていた林が途切れ、視界のうちに田園が広がっていく。赤蜻蛉の飛び回るのが見えた。旋回と停滞を繰り返すそれらの群れは、不規則で少々面白い。予測できない物事は、人に面白味を与える。予測できる事柄など、ただ読みたくもない教科書を、数ページ飛ばして先読みするような、無味無臭な結果しか齎さない。

「怪談が流行る夏も終わったぞ。おいおい、流行は嫌いか。秋はお前なんて見向きもされなくなるだろうな。やれ食欲だ芸術だ、そんな方にとってつけたように皆が皆飛びついてしまうからな」

 答えのないことはわかっている。ただ俺は暇つぶしに独り言を発しているだけだ。靴音は変わらない。鴉はめっきり鳴くことをやめた。静かに赤蜻蛉だけが飛び回っている。田園の、泥の匂いが嫌に鼻についた。

「あー。お前に話しかけるのも飽きてきた。今日一日のことでも思い返してみるか……何もないな。うん、そうだ、何もない。何もいつもと変わらない。毎日一緒だ。あぁ、思い返したところでつまらない」

 戯れに記憶を探ることを、俺はやめた。毎日何も変わらないのだから、思い返したところで何も面白いことなどない。

「…廻り道でもしてみるか。いや、面倒だな。ただ疲れるだけだ…」

 そう呟き、いつも通りの道を歩いていく。赤蜻蛉の群れは既に背後に消えた。視線の先、自宅が見える。森の入り口、他の家々とは離れたところにポツリと置かれている。遠くから見ると、まるで子供の遊ぶおままごとセットのように滑稽だ。きっとそうなら、あの家の住人は嫌われ者か、魔女か、怪物だろう。そんなバカらしいことを空想する。

「今日も後五分だ。なぁ、今日も何もないのか。お前は何かしないのか?話は?それか脅かしでもいいぞ?ああ、つまらない。つまらない。何も変わらないのはつまらない。せめて何かしてくれよ、なぁ」

 靴音は答えない。俺は妙に、頭に血が上った。

「おい、聞こえてるんだろ。どうせ近くにいやがるんだ。何か言えよ。うんとかすんとか…ほら、そこらの石を蹴っ飛ばしてみるとか、あそこの木を揺らしてみるとか、そっちのカーブミラーに写ってみるとか…なんかあるだろ。お前らのやり方なんて今時語り尽くされてるが、それでも王道って言葉もあるじゃないか。それでも構わないぞ?何かしろよ」

 靴音は変わらない。

「このまま独り言を続けてたらまるで俺が異常者じゃないか。まぁ近くに人なんていやしないから、そんな心配は無用だが…つまらない。ああ、つまらない」

 悪戯に、少しだけ歩むペースを変えてみる。すると、いつも通り靴音は同じペースで共鳴する。

「おいおい、それもいつも通りか。なんかこう…変化を作ってくれよ。なぁ。飽き飽きしてるんだ。毎日毎日一緒、何も変わらない、何も面白くない、ただ歩くだけ。いっそ呪い殺せよ。それはそれで話の種になるじゃないか。そう思わないか?」

 歩く速度をいつも通りに戻しながら、私はひたすら語り続ける。自宅はいつも通りの速度で近づいてくる。

「もうすぐ着いちまうぞ。お前の役割もそこで終わりだ。イレギュラーがないならな。いつも通り後ろを歩いて、いつも通りの距離で、いつも通りの時間で、いつも通りダンマリだ。全く、よく飽きないな」

 自然も黙った。鴉も鳴かない。森も震えない。音はない。ただ、靴音だけが響いている。いつも通り、俺は自宅の玄関前に到着した。

「ほら、着いたぞ、いつも通りだ。何が面白くてこんなことをしてるんだ?全く、飽き飽きする。つまらない。驚かすとか話をするとか、なんかしてみろよ。つまらない。つまらない。ああ、、つまらない」

 俺は立ち止まり、話を続ける。

「俺が止まればちゃんと止まるのもいつも通りだな。近づいてもいいんだぞ?なんなら、ほら、俺の前に来いよ。毎日毎日毎日毎日毎日、一緒に過ごしてる仲じゃないか。顔くらい見せてくれてもいいだろ?話はできないのかどうかは知らないけどさ」

 背後から音はしない。

「また動かないのか。何がしたいんだ」

『また動かないのか。何がしたいんだ』

「ああつまらないつまらないつまらない」

『ああつまらないつまらないつまらない』

 背後から音はしない。

「顔を見せろよ。いい加減に気になるんだ」

『顔を見せろよ。いい加減に気になるんだ』

『ほらこっちへこいよ』

「ほらこっちへこいよ」

『顔を見せろ』

「顔を見せろ」


『いい加減に振り返れ』


「いい加減に振り返…………」

 視界がぐにゃりと歪んだ。首が回転する。俺は振り返った。俺は、俺を、おれは。

 俺は知った。いつも通りを知った。そう、いつも通り、いつも通りの俺が、俺を、見ている。




『やっと振り返ったか。何もできない化物め』

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いつも通りの付き人 鹽夜亮 @yuu1201

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