空は夕焼けで赤く、影は暗さを増す。
藤乃 雅
空は夕焼けで赤く、影は暗さを増す。
今日は雲一つない良い秋晴れの日だった。
日ごとに太陽の出ている時間が短くなり、風も肌寒く感じてきたこの頃、中学校ではその日最後の授業が終わったことを知らせるチャイムが鳴り、下校時間になった。
空は真っ
明日はクラス朝会で将来の夢を話す予定となっている。
今日は僕の前の席の人が発表する順番だった。確か宇宙飛行士になりたいと言っていた記憶がある。
発表する順番は席順ということに決まっているから、明日は僕の番というわけ。
『今の時期に将来のことについて考えるのが重要なんだ』
と先生はそう言ってこの企画を始めた。
けれど僕は、中学生にもなって将来の夢なんて...それにまだ高校もあるのでどうでもいいだろ、と思っていた。
どうせ今考えたところでその夢が叶うとは限らないしな。
僕は友人と校門の前で軽く挨拶を交わしあって別れた。
別れを告げるのはいつも友人からだ。
「じゃあまた。」
「うん。」
僕の家は学校から見ると西の方向にある。つまり夕方、学校から帰るときには沈みかけの太陽の光が正面から顔に当たる。
帰り道は一本道というわけではないけれど、最後の曲がり角を曲がってからは特に
ここから家までには3つの曲がり角を経由する必要があるのだが、どの道も緩い
その坂は学校の方向に向かって下っており、朝登校するときは楽だが夕方帰るときには結構つらい、そういう坂だった。
僕は帰るため、家に向かって歩き始めた。
家に向かう最後の曲がり角を曲がったとき、西日に照らされ、地面に落ちたマンションの影から
ぬぅっ
と先の丸まったひょろ長い影が飛び出してきた。
工事でもやっているのだろうか。それにしては重機の音が聞こえない。休憩中?
視線をマンションに向ける。
「あそこに影があるということは...
ちょうど屋上あたりにそれがあると思うけど...。」
建物を見上げてみた。
しかし屋上にはアンテナに
「?」
もう一度影のあった場所を確認しようと目を地面の影に戻すと、建物の角ばった影しか残っていない。さっきまであったはずのひょろ長い影は消えて無くなっていた。
「まあ、
夕方、太陽が傾くと光源の位置が変わり、照らされたものの影は伸びて細長くなる。
さっきの影もその
その時 ドンッ と誰かにぶつかった。
実際にはドンッという擬音で表すような重たい音ではなくて、もっと柔らかいような気がしたが、とにかくぶつかったのはこちらのほうなので謝らなければ。
「あ、すみません。よそ見をしていて。」
ぶつかった相手のほうを見ると、かわいらしい大型犬だった。
いや、犬の着ぐるみを着た人だった。
ここらの閑静な住宅街には似つかわしくないデフォルメされた犬のキャラクターの着ぐるみ。
彼は実にわざとらしくコミカルな仕草で両手を広げて頭の上に持っていき、こちらの存在に大げさに驚いていた。
大人程の背丈もある犬の着ぐるみが僕の目の前で手を広げているのだ。
プラスチックの目がこっちを見ている。
彼の茶色い毛は、西日に照らされてオレンジに光る周りの風景となじんでいるようで、それがかえって異質に思えた。
僕は
やがて彼は僕に興味をなくしたのか、それとも一通りのコミュニケーションをとって満足したのかはわからないが、僕から視線を外し僕が歩いてきた方向へ坂を下って行った。
「なんだあの人、どっかのイベントの帰りかな?それにしてはあの格好で街を歩いているなんて変な人だなぁ。」
人のことをじろじろ見るべきではないのだろうけど、あまりにも異質な光景であったので彼が去った後すぐに振り返ってその犬の着ぐるみを見た。
初め、目の前に立たれた時はその衝撃もあってあまり注意深く見ることはできなかったが、よく見れば彼の着ぐるみは生地がくたびれており、ところどころ汚れているようだった。
そのあとも彼の後ろ姿を、
『イベント中にトラブルでも起きていきなり解散になったのかな。』
とか、
『あの着ぐるみ、しっぽはしっかりした作りになってるんだな。』
とか、そういうようなことを考えながら彼の着ぐるみを見ていた時だった。
そこで僕はある違和感を感じた。
その違和感が何なのかはわからなったけど、とにかくあの犬の着ぐるみには何かが足りないような気がした。何が足りないのだろうか。
彼の着ぐるみ自体は薄汚れていて、確かに不審者みたいだったけどそういう外見の話じゃなくてもっと単純な何か...。
あれ、待てよ。そもそも何か変だ。
僕が彼にぶつかったのはマンションの影から出てきた何かの正体を探るために建物を見上げた後、地面の影に視線を戻してすぐだった。
ぶつかったのは僕に非があるが、でも彼はなぜぶつかってきたのだろうか。
彼は僕の家の方向から歩いてきた。
つまり彼から見た僕は西日に照らされてシルエットが浮かびやすかったはずだ。
それにこのあたりもやはり坂になっていて、僕よりも高い位置にいた彼は見晴らしがよかったはずだ。
それなのに正面から歩いてくる僕に気づかないなんてことがあるだろうか?
まさか、ずっと見ていた...?
僕が家に帰るための最後の曲がり角を曲がった後から?
だとしたら、なぜ。
僕はその場にとどまり、僕の歩いてきた道を戻るようにして歩き遠ざかっていく犬の着ぐるみを見ていた。
その時。
不意に肩をたたかれた。
「え?」
驚いて振り返るとそこには誰もいない。
今、確かに肩を触られた感触があったはずだ。
僕は得体の知れない不気味なものを感じ始めた。
早く帰らなければ。
再度振り返り、今度は曲がり角のほうを見る。
犬の着ぐるみがこちらを向いている。
プラスチックの目がこっちを見ている。
嫌な予感がした。
僕はその場からすぐに離れようと早足で歩き始めた。
気づけば先ほどから車の通りや歩いている人はいなくなり、虫の鳴く音さえ聞こえなくなっていた。風一つ吹かない。
明らかに異常な空気感。
横目で周りの建物の影を見てしまった。
本当は見たくはなかったし見る必要もなかったのに、こういうときだけは嫌でも目が動いてしまう。
視界に入ってきたのはあのひょろ長い影だ。
さっきとは違ってゆらゆら蠢きながら建物の影から影へ移動しているようだ。
その影は先っぽから少し離れたところがくびれており、まるで人間の影のようだった。
今は何時だろうか?
もはや空は燃えるような赤色と、飲み込まれるくらい濃い紫色とが複雑に混じりあい、そのグラデーションは目が
僕が住んでいる一軒家の屋根が見えてきた。
あと少しだ。もう少しで家に。
僕はポケットから鍵を取り出し玄関を開けて自分の家に飛び込んだ。
緊張感と恐怖で汗が止まらなかった。
「ひ、ひとまず落ち着かないと、ここは大丈夫だ。内側から鍵も閉めたし。も、もう怖くない。」
自分を鼓舞する言葉を自身なさげに口にする。
そうだ、僕は何を怖がっているんだろう。
起こったことといえば変な着ぐるみにぶつかって謝って、ちょっとその着ぐるみを見てたら葉っぱか何かが肩に当たって、それでもう一回着ぐるみを見たらこっちを見ていた。ただそれだけじゃないか。
あのゆらゆらしてた影だって見間違えだったに違いない。
ああいう心理状況だったから少しの変化に過敏になってただけ。
手を胸において深呼吸をする。
スーハ―
よし、大丈夫だ。
変わったことが少し続けて起きただけ。
強がりでも口で言うだけで効果があるもんだ。
玄関に座って靴を脱ぎ、隅に寄せて置いてから、その場に荷物を下ろす。
お母さんがいるときなら
『自分の部屋に置きなさい!』
と注意されそうだが、両親は共働きでこの時間は仕事で留守にしている。
それに喉がカラカラに乾いていた。今は水が飲みたい気分だった。
リビングは薄暗かった。
電気をつけようとリモコンで点灯ボタンを押す。
その瞬間心臓が痛いくらいに跳ね、激しい
「な……なんで、ここに…。」
リビングにあるソファーにあの犬の着ぐるみが座っていた。
彼は電源の入っていない真っ黒のテレビを見つめている。
どうやってここに入った?
いやそれよりも何故先回りできる?
色々な考えで頭がこんがらがっている中、着ぐるみの顔がゆっくりと僕の方へ向いた。
そしてゆっくりと首を傾け、ライトで作られた僕の影に視線を動かした。
影…まさか。
彼はゆっくりとソファーから立ち上がり僕の影を指さした。
彼の足元にはあるはずのものがなかった。
影がなかったのだ。
そうか、あの時感じた違和感はこれだったのか。足りなかったのは影だったんだ。
じゃああの影は誰の影なんだ?
そう思ったのも
ぬうっ
とあのひょろ長い影がソファーの下から這い出てきた。
そして犬の着ぐるみが指をさしている僕の影と重なり、僕の影に吸い込まれるように、ひょろ長い影のほうが消えた。
僕はすぐに自分の体の異変に気付いた。
なんてことをしてくれた。
犬の着ぐるみが激しい足音を立てて急に走って近づいてきた。恐怖は強くなる一方だったがどうにかしなければ。
着ぐるみは肩を逃れられないくらいがっしりとつかんで前後に激しく、何度も何度も揺らし始めた。
僕はこのまま終わるのか、いや、まだ何とかなるはずだ。くそっ!
「…ぶ…すか、いし…りま…?」
どこかから声が聞こえる。空間が揺れ始める。
これは夢…なのか?もしそうだとしたら早く覚めてくれ!
この悪夢を終わらせてくれ!
「大丈夫ですか?意識はありますか?」
「ん...うぁ、はい。」
40代くらいのおばさんはため息をついて安堵した。
彼は肩を持たれて揺さぶられてたようだ。
「さっきここを通りかかったんですけれど、そうしたらあなた、この標識にもたれかかって倒れているのを見かけてどうしたもんかと…。とにかく意識があって何よりです。」
「あー...すみません、ぼーっとしてて標識にぶつかってしまったみたいで。」
「ちゃんと気を付けて歩いてくださいね。」
おばさんはニコッと笑って去って行ってしまった。
どうやら彼は学校から家までの最後の曲がり角で一時停止の標識にぶつかり気絶していたようだった。
今日は良い秋晴れの日だった。
空は真っ赤に色づき、燃えるような夕焼け空になっていた。
彼は実にわざとらしくコミカルな仕草で、やれやれと頭を
彼の後ろには彼よりはるかに背が高くひょろ長い影が地面に張り付いていた。
空は夕焼けで赤く、影は暗さを増す。 藤乃 雅 @hujino_miyabi
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