手のひらの記憶

朝田さやか

陽だまりのなかで咲く花は

 手のひらが触れ合う。恋心が弾ける爽やかな音がして、目の前には先輩の笑顔。そうして手のひらに残った僅かな痺れと温もりを、私はずっと憶えている。


✴︎


 部室に吹き込んだ風は、麗かな春の匂いがした。窓の向こう側に見えるのは、温かな日差しが降り注ぐ中庭。陽だまりのなか、中央に植わった梅の木が満開に咲く花弁を揺らしていた。風が吹くたびに花びらが散っていく。花の美しさが有限なものだと、今の私は知っていた。


 その様子を眺めているうちに、枝から離れていく花びらの一片ひとひらが、風に乗ってこの部室に迷い込んできた。反射的に右の手のひらを上に向けると、導かれるように真ん中に舞い落ちた。


 優しいまん丸の形。こそばゆく触れる感触。一ミリグラムにも満たないのに、図々しい質量。取り憑かれてしまったかのように意識を振りほどけずに、手のひらに乗る愛しい存在の全てを慈しんでいた。


 指の一本すら動かせずにいると、たちまち次にやって来た風に攫われそうになって、慌てて両手で捕まえた。風が止んだ頃、ゆっくりと両手を開く。花びらは私を弄ぶのが楽しかったらしく、笑っているみたいだった。


 不満のこもった視線を向けながら指先で花びらを掴み、ブレザーの胸ポケットに仕舞い込む。私の心臓の拍動によって、花びらに再び命を吹き込めたらいいと願って。


 今日は三年の先輩達の卒業式だった。だから、朝から必要以上に先輩のことを考えてしまっている。私がマネージャーとして男子バスケットボール部に入部してから二年間、一緒に過ごした日々が懐かしい。


 再び腰を下ろし、床に座り込んだ。側に置いていたボールと雑巾を手に取って、ボール磨きを再開。換気をしたおかげで、部室内に染みついた独特の男子臭も少しはましになったと思う。


 ボールと雑巾が擦れる手元の音だけが、静かに部屋に響いていた。木製のロッカーが壁沿いに立ち並び、練習用具が所狭しと置かれている。練習の前後はみんながひしめき合っていて窮屈さを感じるここも、一人でいる分には広すぎるくらいだった。


 部室には、先輩達との思い出がたくさん詰まっている。壁にかけられた数枚の表彰状。負けて涙を流している枚数の方が多い集合写真。小さな大会で優勝した、たった一個のトロフィー。その一つずつに想いを馳せると、危うく涙腺が緩んでしまいそうだった。


 寂しさを紛らわすのに、ボール磨きのような単純作業は都合が良い。ひたすら手を動かし続け、先輩への想いを汚れとともに削ぎ落とそうとしていた。


「なんだ、陽咲ひさやっぱりここにいたんだ」


 ふいに正面から聞こえた声に驚いて、手に持っていたボールを床に落としてしまった。とんとんと転げて、物音一つ立てずに部室に入ってきた先輩の足元で止まる。


「……梅慈はいじ先輩」


 気持ちの整理をした後で、自分から会いに行かなければいけないと思っていた。先輩は今日もうすぐ旅立つのに、友達よりも家族よりも私を優先して会いに来てくれたのが嬉しい。


 先輩はボールを通り過ぎて、私に触れそうなほど近い距離に腰を下ろした。緊張で熱くなった私には、外気に触れていた先輩の冷たさがちょうど良い。最近はあまり姿を見せなくなっていたから、会うの自体が久々だ。なんだか心がそわそわして落ち着かなかった。


「また磨いてたんだ」


 先輩の声が私の髪の毛を柔らかく撫でる。耳から侵入した痺れがたちまち背中へ伝播した。爽やかだと一言形容すれば済む、好青年み溢れる声。それが正しく記憶の中の声と一致していて、先輩の声を忘れてしまっていないことに安堵した。人間は、まず声から順に忘れていくものだというから。


「はい。私の仕事ですもん」


 先輩は、私が磨き終わったボールを触りたそうに凝視していた。茶色みがかった短髪に端正な顔立ち。勢いよく伸び続けていた身長はあの日から止まってしまっている。


 一見怖そうに見えるのは百八十センチを裕に超える長身と、凛々しい目つきのせいだ。最初は、私も先輩の前で異常に緊張していた。けれど、先輩の人柄を知ってからは、その顔立ちを愛おしいとしか思わなくなった。


 今も、ボールを介して別のものを見ている細い目は温かさで満ちている。先輩の顔に見惚れていると、徐に戻った先輩の視線と私の視線が交差した。慌ててボールへと意識を向けて手を動かす私に、先輩が優しく語りかけた。


「案外ずぼらなくせにこういうのは真面目にやるよな、陽咲は。磨くのもいいけど、使ったほうが断然楽しいよ。ほら、陽咲シュート上手くなった?」

「あれから触ってないですよ」

「俺がいなくなってから練習サボってたんだ?」

「だって私の仕事は磨く方ですもん」


 シュート練してなかったペナルティな、と先輩は私の額にデコピンの構えをした右手を近づけた。今にも弾けそうな中指が親指に押さえられて小刻みに震えている。痛くないと分かっているのに、反射的に身構えて目をつぶった。


「ぶはっ」


 やっぱり何秒待っても痛みは感じなくて、おずおずと瞼を開けた先に爆笑する先輩の顔があった。わざとらしい大きな笑い声が耳に届く。


 顔の近さにどぎまぎしながらも、それをごまかすように拗ねた表情をした。私を攻撃できなかった先輩の右手は、物足りなそうに空気を弾いていた。


「その顔好きだな。いじめがいがあってさ」

「やめてくださいって言ってるじゃないですか」


 いつもそうだった。先輩は私をからかって遊ぶ。


「ごめんって。ほら、シュートしてよ。旅立つ前に見たいな、陽咲の練習の成果」

「まあ、そんなに言うならやりますけど」


 この二年間先輩は何かと私を気にかけ、私が部室掃除やボール磨きを終わらせるまで、一人で残っては喋り相手になってくれた。一緒に過ごす毎日が積み重なっていくうちに、先輩との時間は私の中で大切なものに変わっていた。


 そしていつの日からか、私のシュート練習が始まった。みんながプレーする姿に感化されて「やってみたい」と口に出した日から、先輩は私の専属コーチになってくれた。


「ほら陽咲、体育館来なよ」


 先輩は立ち上がって、私を急かすように体育館に入っていく。私はのそりと立ち上がって、入り口に転がったままのボールを手に取った。


「前の先輩なら、ボール持って駆け出してたのにな」


 思わず出た独り言に、胸がきゅうっと締めつけられる。部室や体育館の静けさが、寂しさを助長しているようだった。襲ってくる孤独感から逃げたくて、ゴール調節用のハンドルを乱暴に掴んだ私は、急いで先輩の後を追った。


 入り口の扉を開けると、軋んだ音が静かなフロアに響いた。許可なく侵入しているため、少しの音でも先生にばれないかひやひやしてしまう。


 マネージャーの私だけではという言い訳が通用しない。照明を点けるわけにもいかず、体育館の中は二階の窓から差し込む日光によって明暗が分かれていた。


 午前中の、パイプ椅子が整列していた様子は見る影もない。目の前に広がるのは、練習が始まる前の見慣れた体育館だった。


 扉のすぐ横にいる先輩はキャットウォークが生み出す陰に包まれていた。バスケットゴールを眺める横顔は寂寥感に満ちている。そのまま陰に呑み込まれてしまいそうな先輩の様子に、見て見ぬ振りをして歩き出した。


 シューズを履いていない靴下越しに、冷たい床の感触が伝わってくる。白ソックスに汚れがつくのを気にせずゴールに近寄り、ボールを一度床に置いた。ハンドルをゴールに引っ掛けて、慣れた手つきでくるくると回し始めた。


 ハンドルはコツを掴めばスムーズに回せるというのを教えてくれたのも先輩だ。そのことを思い出して先輩を一瞥すると、いつの間にか私を見ていることに気づいて途端に顔が熱くなった。


 金属の骨組みが動く音よりもうるさく、心臓が音を立てている。制服を着ているせいで腕を動かしづらかったものの、数十秒でゴールを完全に出し終えた。


 面倒だから外さなかったハンドルがゆらゆらと僅かに揺れている。少しでも動きやすいようにとブレザーを脱いで白いワイシャツ姿になった。紺色のリボンを取り外して、首元のボタンを一つ開ける。試しに両肩を振り回してみると、先程よりは動きやすくなった。


「がんば」


 ボールを手に取りつつ、後ろから聞こえる先輩の声に頷いた。見守られながらフリースローラインに立つ。太陽にかかっていた薄い雲が途切れて、光が私を照らした。


 右半分しか日光が届かないリングは暗くて見えづらい。けれど、いつも通りにできればきっと入れられるはずだ。


 つま先が白いラインを踏む間際まで前に出て、ボールの感触を確かめながら深呼吸を一つ。未だに鳴っている心臓を無理やり静めようと努力する。


 長いを取った後、一瞬だけ目をつぶる。先輩の美しいシュートフォームをイメージしてから、ボールを放った。


 ――こっから俺のシュートで逆転したら付き合ってよ、陽咲。


「ガコンッ」


 思い出した言葉に指先のコントロールが狂った。リング左端に当たったボールは、盛大に音を立てて弾かれてしまった。


「右手の力が強いよ。利き手だから注意してって何回も言ったのに。ハイタッチはお預けだな」


 転がっていくボールと自分の手のひらを交互に見つめて悔しさがこみ上げる。私のシュートが入ったとき、先輩はいつも私とハイタッチを交わしてくれていた。


 力強くて大きくて、それでいてボールを巧みに操る繊細な手。その綺麗な手に少しでも多く触れたくて、私は必死になって練習した。サイダーが弾けるように爽快な音を鳴らしながら触れ合う一瞬は、私にとっての宝物だった。


「怠けてたから入んないんだよ、陽咲ちゃん」


 先輩はからかって私の名前を呼びながら近づいてきて、私の隣に立った。表情豊かな先輩の顔がすぐ斜め上にあって、思わず見惚れそうになった。


「ち、違いますよ」


 シュートが外れたのは決して怠けていたからではない。いや、たぶんそのせいもあるけれど、一番はちょうど七週間前に行われた試合のことを思い出したからだ。先輩がよりによって試合中にあんなことを言うから、今さら思い出して手元が狂ってしまった。


「あれ、陽咲なんか顔赤くない?」

「気のせいですよ」


 誰のせいだと思ってるんですか、本当に。


✴︎


 三年生にとって最後の大会の初戦。それまで一度も勝ったことのないチームと当たってしまった先輩達は、終始苦戦を強いられていた。それでもどうにか食らいついて、一度もリードする場面はないものの、逆転勝ち圏内の点差を保ち続けていた。


 そんな中、最終ピリオドでこちらがタイムをとった時に言われた言葉があれだった。


 残り時間内で勝てるかどうか瀬戸際の点数だった。誰かが相手の強力なガードを潜り抜けて、スリーポイントシュートを最低でも一回は入れなければならなかった。


「こっから俺のシュートで逆転したら付き合ってよ、陽咲。絶対決めるから、俺から目離さないでよ?」


 たった一分しかない大事なタイムの数秒は話し合いに使うべきだと分かっていながら、私にそんなことを言ってきた先輩は馬鹿だ。


 目を離すことなんてできなかった。ただでさえいつも先輩の姿しか見ていないというのに、見ていてくれなんて言われたら尚更。瞬き一つせず、息するのを忘れるくらい、馬鹿な先輩だけを目で追っていた。


 ――入れ。


 試合時間終了間際に先輩がスリーポイントシュートを放ったとき、心臓が止まるかと思った。入れば逆転勝ち、外せば負けて引退。祈りを込めて組んでいた両手の甲に爪が食い込んだ。選手全員の分、私が代わりに引き受けた緊張のせいで手のひらは汗まみれだった。


 目の前の世界がスローモーションのように動いた。身体を仰け反らせる先輩。慌ててジャンプする敵のガード。「いけっ」と誰かが叫ぶ掠れた声。視界の端に映るタイマーが零を示そうとしていた瞬間だった。


 一秒に満たない一瞬の情景を、私は今も鮮明に憶えている。先輩の指から飛び出したボールは美しい弧を描いて、試合終了の合図とともにリングに吸い込まれていった。


 先輩のシュートがゴールネットを揺らして真っ直ぐ地面に落ちた瞬間、コート内も応援席も割れんばかりの歓声に包まれた。


 華麗なるブザービーター。結果、一点差で大逆転勝利。みんなの熱気が私を覆って、涙となって後から後から溢れ出した。頬を流れる雫は蒸発してしまいそうに熱かった。


 先輩は対戦相手との挨拶を終えた後、もみくちゃにされながらもすぐに私の方へ走り寄ってきて、右手を突き出した。


 私はその意図を瞬時に汲み取って、同じように右手を上げた。手のひらに私よりも熱い体温を感じると共に、「パチン」と今までで一番大きな音が鳴った。歓声にも掻き消されずに空気を震わせた音は、私の心を揺らした。


「あれ、俺もしかして泣かせちゃった?」


 涙で滲むスクリーン越しに見た、普段の何倍も嬉しそうな先輩の表情は今も私の脳裏に刻まれている。周りで抱き合うチームメイトを一瞥もせず、私だけを見てくれていた。


 瞳の奥がキラキラと輝いていて、私は魅せられて視線を外すことができなかった。汗と涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を見られたくなかったから、一刻も早く俯きたかったのに。


「泣きすぎだって。ほら、これで顔拭きな」


 なかなか泣き止まない私を見かねて、先輩はタオルを私に投げた。さすが、コントロールは完璧で私の手の真ん中に乗った。ふわふわに洗濯されたタオル、投げられたときに起こった風は先輩と同じ匂いがした。


「これっ、使ってくれてたんですか」

「当たり前だろ。これは俺のお守り代わりだから」


 渡された青いタオルは私が先輩の誕生日に贈ったものだった。使っているところを一度も目にしたことがなかったから、ずっと心に引っかかっていた。お守りとして持ってくれていたと知って、さらに涙腺が崩壊し始めた。


 タオルの端をつまむと、ざらざらとした梅色の糸の感触が指の腹に伝わった。裁縫が得意な私が先輩の名前を手ずから縫い付けたのだ。寸分たりともずれないように細心の注意を払って「梅慈」という難しい二文字を完成させた。


 泣きじゃくるうち、試合の主役は先輩だったはずが、気づいたらみんなが私を取り囲んでいた。心配する声と笑い声と冷やかす声が口々に辺りから聞こえた。


 自分の泣き声の切れ間に聞こえるみんなの声が温かくていつも通りで、この時の私はまだこのメンバーで戦えると当たり前に思っていた。だから、ただ勝った喜びをひたすらに噛みしめていた。


✴︎


「ははっ、でも最初はボールがリングに届いてすらなかったんだから成長したよな」


 先輩は今日、私の前でずっと笑っている。けれど、その笑顔はどこか翳りを含んでいた。そして、私たちの関係はあの試合前から何も変わっていないままだ。ちょっと仲が良いだけの先輩後輩。プレーヤーとそれを支えるマネージャー。


 先輩がしてくれた告白は数ある冗談の一つに成り代わり、私たちの関係に新たな名前がつくことは今後一切あり得なくなった。


「あの頃の私の醜態は忘れてください」

「死んでも忘れないよ、なんてな。でも陽咲はすぐ成長して、俺のことを忘れちゃうんだろうな」

「忘れるわけないじゃないですか」


 明日から一生会えないとしても、私が先輩を忘れることはない。声も匂いも手のひらの感触も笑顔も忘れたくない。


 だから願いのこもった切ない瞳をしながら、そんなに悲しいことを言わないで欲しい。さっきから必死で楽しい思い出ばかりを反芻している意味がなくなってしまうから。


「俺も久々にバスケしたいなー」

「したらいいじゃないですか」

「あれ、俺に似て陽咲も意地悪になった? 知ってるでしょ、俺はもうバスケできないよ。交通事故のせいだって」

「そんなの知ってますよ」

「ほら、分かってんじゃん。俺のアドバイスもらえるのだって今日だけだよ。さっさとボール持って」


 先輩が一番悲しいはずなのに、笑顔を取り繕っていた。あの、曇りひとつない満面の笑みを浮かべた表情をもう一度見たくなっても、どうしてあげることもできない。その事実が、私の胸を締めつけた。


「先輩のパスが欲しいです」


 自分がプレーするよりも先輩のプレーを見たい。先輩と一緒にするシュート練習でなければ意味がなかった。


「だから、俺はボールに触れられないんだってば」

「じゃあ、磨いたばっかりなんでやめときます。私じゃなくて、みんなに触ってもらいたいですから」


 胸の内から込み上げる涙を堪えて、なんでもない風を装う。ボールを拾う動作に隠して、制服の袖で涙を拭った。


「えー、誰かがバスケしてるとこ見たかったんだけどなぁ」

「次。次に会えるときまでに練習しときますから。次は絶対一発で入れられるようにしますから……」


 ……だから、また会いに来てくださいよ。


 言いたかったけど、言えなかった。拾ったボールでドリブルをして、不自然に訪れそうになった沈黙に音を与えてごまかした。


「その気持ちは嬉しいけどな」


 先輩はそう言って寂しそうに、困ったように笑った。光が先輩に降り注いで、眩しさに包まれた先輩の表情が見えなくなってしまう。今度は光に呑み込まれて、先輩が粒子となって消えてしまいそうだった。


「俺じゃない誰かに教えてもらうくらいなら、練習しないでいいよやっぱり」


 先輩は私に背を向けてぽつりと呟いた。その声があまりにも小さくて、私に聞かせたかったのか独り言だったのか分からなかった。


「また会いに来てくださいよ」

「何、陽咲俺がいなくなったら寂しいの?」


 からかわれるだけで、次の約束を取り付けてもらえない。どんなに願っても明日からは会えないのだと、改めて自覚させられた。


「寂しいのは先輩のほうでしょう?」

「まあ、否定はできないかな」


 そう言って、先輩は物憂げに体育館を見回した。ここで過ごした三年間を追懐しているんだろう。私は、まだ目の前にいる先輩の姿を必死に目に焼きつけた。そうでもしないと、先輩は大切な思い出と一緒に今にも儚く消えそうで怖かったから。


「もう七週間も経つんだって、早いね。俺もすっかりこの生活に慣れちゃったけど。陽咲ともあいつらともお別れか」


 本当にあっという間だった。先輩と離れなければならない今日という日は、できれば一生来て欲しくなかった。


「いいんですか? 全部すっぽかして私のところに来てますよね」

「だって陽咲が一向に来てくれる気配なかったから」

「まだ辛いから気持ちを整理してから行こうと思ってたんです。それに今は他の三年生との別れを惜しんでるのかなって気を遣って」

「俺は陽咲に会えて嬉しいよ」


 恥ずかしげもなくそう言われて、思わずこっちが火照ってしまった。「私も嬉しい」と言うには自分は素直じゃなさ過ぎる。会える喜びを強調してしまうと、会えない悲しさの方が一層強調されてしまうように思えて何も言えなかった。


 会いに行くタイミングも別れるタイミングも私の意思で決めるつもりだったのに、気づけば先輩に振り回されてしまっている。


「それとさー、いい加減タオル返してくれよ」

「嫌ですよ」


 最後の試合の日に渡されたタオルは、洗ってから返そうと思って私が持ち帰り、渡せなかったままだった。「返せ」「嫌だ」というやりとりはもう何度も繰り返している。タオルを持ってさえいれば先輩が必ず会いに来てくれるから、意地になって手放さなかった。


「おーい、俺あのお守りがないと旅立てないんだけど」

「冗談です。今日はちゃんと渡すつもりですよ」


 本音を言うと、今日も返すつもりは微塵もない。旅立てないほうがこちらとしては嬉しいし、それに、先輩との思い出の品をどうしても持っていたかった。 


「良かった。陽咲から貰ったものだから持ってたいんだよ」


 こぼれた柔らかい笑みに胸が高鳴った。先輩も私と同じで、二人の思い出の品を欲している。先輩の気持ちを知った途端、制御できずに緩んでしまう口元と、潤み始める目元。そのどちらもを隠そうとするあまり、自分でもよく分からない表情になってしまった。


「じゃあ届けに来てくれる? ごめん、そろそろ俺行かないといけない」

「えっ」

「出発するまでもう時間ないし、あいつらの顔でも見てくるわ」

「ちょっと待って先輩」


 もっと話していたかった。もっと一緒に過ごしたかった。もっと色々なことを教わりたかった。一緒に残って片付けして、自主練に勤しんで、ふざけ合って、からかわれて、遅くなったからって家まで送ってもらって、学校で会ったら手を振って、ジュースを奢ってもらって、毎日先輩だけを目で追って。当たり前の日々を、あともう少しだけ過ごしたかった。


 思えば、先輩への想いをはっきりと自覚したのは試合の日だったけれど、ずっと前から好きだったんだと思う。そうでないと、先輩と過ごした日々をこんなにも鮮明に憶えているはずがない。


「制服整えてちゃんと正装で来いよ」

「まだ行かないでっ」


 先輩に触れたくて伸ばした手は当然のように空を切った。体育館の冷たい空気が手のひらに残る。声よりも先に、温かい先輩の手のひらの感触が上手く思い出せなくなっていることに気づいて焦った。


「じゃあな、陽咲。間に合うことを祈ってる」


 先輩は一方的にそう言うと、体育館の外へ駆け出していった。風と同じ速さでドアの向こうに消えた先輩に取り残された私。広い体育館の中で、本当の意味で一人ぼっちになってしまった。


「行かなきゃ」


 また切なさが湧き上がってくる前に、私は力強く走り出した。あんな未練の欠片もない別れ方は嫌だ。唐突過ぎるのだ、先輩はいつも。告白だって、別れだって急だった。振り回されるこっちの身にもなって欲しい、本当に。


 私はすぐさまブレザーとリボンを手に取った。無我夢中で走りながら制服を正して、部室に置いてあったタオルを掴む。踵を返し、自転車置き場まで全力疾走。自転車に飛び乗ると、タオルを前かごに放り投げて猛スピードで漕ぎ出した。


 体育館に鍵をかけるどころか、ボールもゴールもそのままの状態だ。勝手に立ち入ったことも含めて、今日ばかりは先生に怒られても仕方ない。


 まだ肌寒い風が私を包む。巻き上げられた梅の花びらが私の元へやってくるけれど、今は構っていられる余裕はない。先輩に残された時間はあとどれくらいだろう。突然去った先輩に文句を言うために、出来るだけ早くたどり着かなくてはいけない。


 先輩との時間は当たり前にあると思ってしまったから、七週間前――四十九日前にすぐに想いを伝えなかった。仲間に祭り上げられる先輩に遠慮せずに自分の気持ちを伝えれば良かった。


 先輩の想いはタイムの時点で私にちゃんと伝わっていたのに。先輩なら絶対に逆転してくれると、人知れず努力していた姿を見ていた私が一番知っていたのに。


 私の後悔が、先輩と私の想いが、この四十九日間私だけが先輩に会うことを許してくれていたのだろう。


 先輩、先輩、先輩、梅慈先輩。想えば想うほど、押し留めていた涙が頬を伝って流れていく。風を掻き分けて進む私の涙は後ろへ後ろへと滴り落ちて、アスファルトの地面に黒いシミが残った。その跡を撫でてくれるのは、梅の香りを運ぶ温かい東風だった。


 必死にペダルを動かした。チェーンが絡まって空を切りそうなくらい速く、速く。ずっと立ち漕ぎをしているせいで足は限界だ。息苦しいのが胸の痛みのせいなのか足の痛みのせいなのか、もはや分からない。


 風にあおられて捲れたスカートから太腿が露出してしまうことすらどうでも良かった。今は裾を引っ張る何分の一秒すらもったいない。


 気持ちが先行しすぎていたのだと思う。周りを確認せずに横断歩道を渡ろうとした時、右折車両が横から現れたことに気づいて急ブレーキをかけた。盛大なブレーキ音が、耳をつんざきながら辺りに鳴り響いた。


 すんでのところで止まることができ、前輪が掠れるほどの距離に車がいた。死への恐怖によって視界がクリアに開け、酸素量が足りていなかった脳へ血液が勢いよく流れ出す。衝突しなかったのはきっと、先輩が守ってくれたからだ。


 ――ありがとうございます、先輩。


 こんな時だからこそ注意を怠ってはいけないと自戒して、震える足でもう一度ペダルを漕ぎだした。


 もしこの車がスピードを緩めずに右折してきていたら、もしそれがトラックだったら、もし自分が脳も体もくたくたの状態だったら、もし自分がスーパープレイをした後で気持ちが浮ついていたら、衝突してしまっていただろう。 


 先輩の二の舞になるという方法で会いに行くわけにはいかないと気持ちを引き締めて、また必死に先輩の家を目指して足を動かした。


✴︎


「着いたっ」


 急がば回れと何度も唱えながら自転車を走らせること数分。ようやく先輩の家に着いた。呼吸が荒い。はぁ、はぁと短いスパンで吸っては吐いてを繰り返す。


 出したばかりの二酸化炭素を吸い込んでいるような感覚。頭がくらくらして息も整わないまま、三年生達のものと思しき自転車の横に私の自転車を乗り捨てた。


 掴んだタオルは、私の誕生日に先輩がお返しとしてプレゼントしてくれた梅色のタオルだった。そこに、先輩に渡したタオルと同じ青色の糸で「陽咲」と縫い付けてある。


 私の名前をずっと憶えていてもらいたかった。私が先輩のタオルを取り出して愛おしむように、先輩にも私のタオルを持っていて欲しかった。


 二階建ての大きな一軒家は先輩と同じ優しい雰囲気を醸している。内側から感じる陰のオーラが外の眩しい光と対抗していた。先輩が、まだどちら側にも行ってしまっていないことを祈るしかない。


 玄関前の石畳の数段に足を掛けて、その僅か十数センチの段差に躓いてしまった自分に驚いた。足すらまともに上がらない状態だ。筋トレ不足だと、また先輩に怒られてしまうだろうか。


 インターフォンを押そうとして、指先が震えて上手く押せなかった。焦燥感に駆られるほどに足からも手からも力が抜けていく。もうダメかもしれないと思ったときだった。


「焦りすぎだって。ほら、深呼吸しなよ」


 ――ああ、ダメだ。


 一番聞きたかった、さっきぶりの声が耳を溶かす。先輩の姿を見て安心したかったのに、辺りを見回しても姿は見えなかった。きっと振り回される私をどこかから見て楽しんでいるんだ。


 その行動が先輩らし過ぎて笑おうとして、でもまずは言われたとおりに深呼吸しようとして、吸い込んだ息が嗚咽に変わっていることに気づいた。


「ん? おいそれ、俺がもらったタオルじゃないしってか俺があげたタオルだけど」

「っ、はい」

「まあでも、いっか。陽咲と繋がってられる気がして嬉しいしな」


 伝わった。先輩の言葉によって、胸が温かな気持ちで満たされていく。けれど「私も嬉しいです」とは素直に言えなくて、だからその代わりに、涙でぐちゃぐちゃになっている顔のまま笑った。先輩が私を思い出した時、それは笑っている姿であって欲しかったから。


「陽咲は泣いてばっかりだな」


 また私をからかう先輩に文句を言おうと口を開いたその瞬間だった。突然辺りに吹き荒れた春疾風に邪魔された。髪の毛は風のいたずらで乱される。目に刺さる風に抗えずに瞼を閉じながら、持ち上がるスカートの裾を慌てて左手で抑えた。


「っ、」


 風が緩んだのを感じて瞼を開けた刹那、目に飛び込んできた光景に息を呑んだ。どこから運ばれてきたとも分からない梅の花びらが、視界を埋め尽くすほど辺り一面に広がっていた。


 陽だまりに現れた大量の梅の花びらは、私を弄ぶようにゆらりゆらりと舞い踊り、ひらりひらりと舞い落ちた。それはほんの一瞬の出来事で、瞬きをした後には全ての花びらが消えていた。


 十数秒の間だけ、夢を見ていたみたいだった。そんな現実離れした景色さえ、無限には続かない。何度瞬きを繰り返しても、花びらは一片さえ見えなかった。狐につままれたような気分でいた私の手から、気づいた時には握っていたはずのタオルも消えていた。


 笑ったのだと思った。もう姿を見せることはできないから、先輩は今できる精一杯の笑顔を私に見せたのだ。私の脳裏に、あの日の、破顔一笑の先輩の表情が呼び起こされた。それをきっかけに、先輩との思い出が走馬灯のように蘇る。その全ては、大切な一分一秒の積み重ねでできていた。


 姿が見えないとしても。先輩は、まだ確かにここにいる。限りある時間、最期は私が振り回してあげよう。そう思った途端に、恋心が弾けたあの日から押し留めていた想いが一気に溢れ出した。


「梅慈先輩、大好きでした」


 陽だまりのそらへ向かって、大声で叫んだ。タイムリミットへのカウントダウンが、もうすぐ零になる。逝ってしまうのだと本能的に感じて、右手を空に向かって差し出した。


 辺り一帯の空気を震わせる、「パチン」という爽快な音。確かに鳴ったその音が私の心を揺らす。手のひらに残った痺れと先輩の手の温もりが、身体中に広がっていった。

 

 ――ははっ、ありがとうな、陽咲。


 心に声が届いたと同時に、頬を撫でる優しい風が吹いた。いつの間にか胸ポケットから顔を出していた梅の花びらが、その風に乗せられる。反射的に右の手のひらを上に向けると、導かれるように真ん中に舞い落ちた。心臓が拍動するたびに、ふわりと立つ梅の香り。それは先輩と過ごした、有限だった春の匂い。


「ありがとうございました、梅慈先輩」


 そうして手のひらに残った愛しい存在は、次の風が吹こうとも、私の手のひらから決して離れることはなかった。

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