夢見るフランス人形

シメ

白いロリータ

 今日も私のステージが始まる。


 ヤニで汚れた水着の女性のビールの広告ポスター。手書きのメニュー表。いつのものだか誰のものだか分からない芸能人のサイン。そんな物で壁が埋め尽くされている居酒屋、そして酔っ払った中年のおじさんたちのいる中で、私はむかし流行ったフォークソング――具体的に言うと「なごり雪」や「心の旅」とかそのへんの曲――をアコースティックギター片手に歌い上げる。肩が露出した薄手のワンピースに身を包んで聞き覚えのあるフレーズを弾き語ると、大抵の客は声を出したり手を叩いたりして喜んでくれる。時には音程の外れたコーラスを入れてくれる人もいた。


 これを生業なりわいとしていると話すと、所詮だとかだとか馬鹿にする人もいた。でも今の私はこれをやりたい。だからそうしているだけ。私は頭によぎった迷いを打ち消すようにギターと歌に力を入れる。オーディエンスもより盛り上がる。


 その場の雰囲気に合わせた曲をいくつか演奏し、店主と客に別れを告げた。店を出ようとすると、演奏を気に入ってくれた客のひとりが個人的なおひねりをくれた。私はいつもの笑顔で頭を下げてお礼を言った。


 店の外は冷たい空気に満ちていた。火照った身体がゆっくり冷やされていく。深く息を吸って、ぼんやりともらった金の数を頭の中で数えていく。裕福でもなく、貧乏でもない、程よい収入だった。頭の中がすっきりしたのでコートを着て次の目的地に向かうことにした。この後は別の店にお邪魔する予定だった。


 しばらく前に馴染みの居酒屋に客として飲みに行った時、やたら押しの強い人と知り合った。その人は飲み屋をやっているらしく、居酒屋で流しをしていることを教えたら「ぜひ演奏しに来てほしい」とその場で依頼されたのだ。これはこの仕事ではよくあること……むしろ営業の常套手段だった。音楽のような芸はまずは人に顔を売るのが大切だ。誰も知らなきゃ話も聞いてくれない。芸を披露するのはそれからだ。


 その店に向かう歩みを進めるにつれ、きらびやかなネオンや看板が減っていく。仕事でもプライベートでも居酒屋にはよく行くのだが、珍しくここは初めて入る路地だった。居酒屋どころか店がある雰囲気がだんだん薄れていったので急に私は不安になった。


 ギターを背負って薄闇を歩く。薄いコートと薄いワンピースが揺れる。灰色の建物に囲まれた道には声も人気ひとけもない。灯りもまばらだ。本当にこの道で合っているのだろうか。私は先述の店主から教えてもらった道順を疑い始め、スマホをポケットから取り出そうとした。


 と思ったら、その店は突然目の前に表れた。薄汚れて古めかしい雑居ビル。ビルの入口のそばに地下へと降りる別の階段、そして店の入り口を示す看板があった。


 看板には「夢見るフランス人形」と書かれていた。1965年のフランス・ギャルの曲名だ。随分と古い曲の名前を使ってるな、と思いながら重いドアを開ける。


 目に入ったのは黒を基調にした店内に、きらびやかなシャンデリア。そして壁に飾られた骸骨をモチーフにしたペン画。テーブルもソファは真っ赤。そして奥にある一人用の豪華な装飾の椅子。居酒屋というよりゴスロリを売っている店のような雰囲気だった。そして開店しているはずなのに客は誰もいない。何なら店員もいない。


「あなたはもう死んでるの」


 店内を見回していると、唐突にカウンター前の椅子に座った金髪の人形が言った。背後でドアが閉まる鈍い音がする。


 私は突然のことにビックリして、入り口で硬直してしまった。身長155cmの私と同じぐらいの大きさの人形はそれ以上何も言わず、動きもしなかった。


 しばらくの静寂のあと、ピンヒールの足音とハスキーで元気な声が店内に響いた。


「ごめんなさい、またミララちゃんが変なこと言ったかしら〜」


 カウンターの奥からロングの黒髪を姫カットにした店主が出てくる。厚化粧で眼力が強い年齢不詳の人だ。私の目には二十代にも三十代にも四十代にも見えた。


「こんばんは、カコさん。在子ありこです」


 私は黒いタイトなドレスに身を包んだ黒髪ロングの女性ことに笑顔で挨拶した。カコさんはオーバーに口に手を当てて「あら、あらあら」と金髪人形の背を叩いた。


在子ありこさん、いらっしゃい〜。元気してた? ほら、ミララちゃん、昨日話した在子ありこさんよ」


 どうやら金髪の人形ではなく、というこの店の店員のようだった。しかし、球体関節人形の関節を模したタイツとアンティークな雰囲気の漂う白いロリータファッションに身を包むミララはどこか浮世離れした雰囲気だった。一言で言えば生気がない。最先端のロボットの方が生気があるかもしれない。


「ミララです。よろしくお願いします」


 ミララはすっと立ち上がり、ふりふりのスカートの両端をつまんで丁寧にお辞儀をした。絹のような金の髪がふわりと揺れ、きらきらと光る。そして私と同じ身長なのに不思議とこぢんまりとして感じられ、私より一回り小さく見えた。すべてが現実味がない姿……まさに人形だった。


「流しをやっている在子ありこです。ミララさん、こちらこそよろしくお願いします」


 私はいつもの笑顔で返した。しかしミララは表情を変えることはなかった。


「ごめんなさいね〜。ミララちゃんっていっつもこんな感じなの」


 カコさんは両手を顔の前で合わせて大げさに謝罪した。私は「全然気にしてませんよ」と笑顔のまま返した。


 いつの間にか消えていたミララはカウンターにふたつ温かいお茶を並べた。裏から用意してきてくれたらしい。ほんの一瞬目を離しただけだったはずなのに、と私は眉をしかめた。しかし深く気にすることなく、カコさんに促されるまま私はカウンターの席についた。


「そうそう、在子ありこちゃんにやってもらう仕事についてなんだけどね――」


 カコさんは演奏について3つお願いをしてきた。私はお茶をすすりながら聞いていた。


 そのいち。お店の雰囲気に合わせて曲を選ばなくてもいい。でもワタシカコさんの趣味として「山崎ハコ」の曲は一曲お願いしたい。


 そのに。客層の関係で客からのおひねりはあまり期待しないでほしい。その代わりお店から依頼料を別途に支払う。


 そのさん。この店で見たことは誰にも話してはいけない。


「ここって的なノリのお店だから、あんまりお客さん増やしたくないのよ〜。だから絶対に誰にも話さないでね」


 カコさんは特に最後のことについて強調してきた。他の店で流しをする時にはまず聞かないお願いだ。何故ならちょっとした口コミから店の知名度が上がり客が増えることもあるからだ。繁盛しすぎもよくないが、私が話して広める程度の盛り上がりなら大抵歓迎される。それに私もまたお店に流しとして呼んでもらえる。


 しかし私はカコさんに渡された「依頼料」の袋の厚さを見てそれどころじゃなくなった。


「カコさん、金額間違えてませんか?」


 茶封筒は五ミリぐらいの厚みがあった。百万円で一センチだから、だいたい五十万円というところだろうか。一回の演奏で五十万円なんて破格すぎる。


「色々お願いしちゃったし、むしろこれだけしか出せなくて申し訳ないぐらいよ〜」


 カコさんはつけまつげをフサフサにつけたまぶたでニッと笑った。


「あと、出番までは休憩室で待っててもらってもいいかしら? はじめる時間になったらワタシが呼びにいくから」


「あ、はい」


 それじゃワタシとミララは開店作業があるから、とカコさんは私を流れるままに奥の休憩室に押し込めた。カコさんについてきたミララは机にペットボトルのお茶を置き、一礼して出ていった。金額について質問する機会を失ってしまった。


 休憩室はカウンターの裏のそのまた奥のドアの先にあった。ドアは何故か入口のものよりもっと重く、下側には縦十センチ、横三十センチぐらいの穴があった。そして外からしか鍵がかけられないようになっていた。変な構造だ。


 部屋は赤い絨毯で覆われ、その上には高級そうな黒いソファと黒い重々しい机があった。色合いが店内と真逆だった。それ以外にものはなかった。妙にこざっぱりとしていた。


 ギターを机に置き、ソファの上で張り詰めた気持ちを解くようにふーっと息を吐く。束の間の休み。脳をリラックスさせる。そして今日の演奏についてぼんやり考える。ふと私は「山崎ハコ」の曲について何も知らないことに気がついた。


 私は慌ててスマホで山崎ハコを検索する。サジェストに「山崎ハコ 呪い」「山崎ハコ 飛びます」といった不穏な言葉が出てきて嫌な気持ちになる。しかし調べる内に曲名やアルバム名とわかりホッとした。


 イヤホンで何曲か流し聞きするがどれも暗い曲だ。明るそうでも、どこか不穏。悩んだ挙げ句、「気分を変えて」という曲を演奏することにした。これならテンポも良くて歌詞もそこまで悲しくない。コード譜もあったし。


 演奏する曲の流れを考えていると、カコさんや客の声が賑やかになってきた。常連が来たんだろう。特殊な雰囲気の店だから客も特殊なのかと思ったが、ところどころ聞こえる会話からすると普通の居酒屋と何も変わらないようだった。楽しげな声がここまで響いてくる。


 休憩室のドアがノックされる。私は「はーい」と返事をした。ドアを開けたのはカコさんだった。


「そろそろだけど、いい?」


「もちろんです」


 私はギターを持ち、カウンターに向かった。しかし、目の前では異常な光景が広がっていた。


 全裸になったミララの身体に針が刺されていた。


 私は思わず声を上げそうになるが、カコさんのお願いのことを思い出し口に手を当てて堪える。


 


「今日は在子ありこちゃんが来るからってお客さんも張り切っちゃったのよね〜」


 カコさんはまるで子供がいたずらをしているのを見ているような表情で笑った。


 一人用の椅子にベルトで手足をくくりつけられたミララ。彼女は無表情で叫ぶこともなく、高級なスーツを来た中年男性たちに針を刺されていく。刺されたところから赤い血がジワリとにじむ。そして血は椅子へと滴り落ちていく。


「じゃあ在子ありこちゃん、お願いするわね〜」


 カコさんは私の返事を待たずに、「今日は流しのギタリストちゃんが素敵な音楽を演奏してくれます!」と私を紹介した。客たちはじっとりとした笑みでミララから私の方へ顔を向け、気持ちのないペラペラの拍手をした。そしてすぐにミララの方へ視線を戻した。カコさんの方を見ると、頑張って!と言わんばかりに両手をグッと握ってみせてきた。私は訳のわからないまま、カウンターの前の椅子に座り、ギターを構えた。


 私はとにかく弾き語った。今までで一番弾き語った。好きな曲、嫌いな曲、どうでもいい曲、フォークソングもニューミュージックも最近の曲もなんでも弾き語った。予定していた流れは全部無視した。それでも喜ぶのはカコさんだけだった。客はミララの肉に針を刺すのに夢中だった。もしも聞こえていたとしてもただのBGM程度にしか感じてなかっただろう。ミララの乳房にいくつも刺さっていく針を見ているとそうとしか思えなかった。


 そして、最後に山崎ハコの「気分を変えて」を歌った。本来の予定時間よりも超過していたが、カコさんは何も言わずにカウンターから笑顔で聞いていてくれた。私の喉はボロボロになりかけていた。


 狂った空間の中で、私は感情が溢れるままにわんわん泣きながら歌った。言葉にも歌にもなっていないところもあった。それでも歌った。なのに、客は誰も見てくれない。


 涙で滲む視界に針まみれのミララが映る。


 ミララは私のことを見ていた。まっすぐに見ていた。


 そして私が最後のフレーズを歌い切ると、ミララの目から涙が一滴落ちた。客たちはそれにすら気づかないほど興奮していた。


「ありがとうございました」


 私はお辞儀をして、逃げるようにお店の外へ出ていった。そして店の前の階段に腰掛けて声を殺して思いっきり泣いた。ギターをぎゅっと抱きしめた。こんなに怖くて悲しい思いをしたのは初めてだった。


 どれだけ泣いたか分からなくなった頃、客たちが店から出てきた。客たちは「よかったよ」「また聞かせてね」「今度は君も」と言って去っていった。私はぐちゃぐちゃの顔と声で「ありがとうございました」と精一杯笑った。


 客たちが出ていってからしばらくすると、カコさんが私の様子を見に来た。メイクも髪の毛もぐちゃぐちゃになった私を見てカコさんは「あらあら」と店の中に私を再び入れてくれた。


 店のソファに座り、カコさんに借りた拭き取り式のメイク落としで顔を拭いていく。あんなことがあったのに、ミララは来たときと同じカウンター前の椅子に同じようにロリータ服に身を包んで座っていた。涙の跡すらなかった。傷つけられた部位はふりふりの服とタイツで綺麗に隠されていた。


 カコさんは店の中であったことについては何も言わなかった。私も何も聞かなかった。ただ、今日の演奏について話すだけだった。


在子ありこちゃん、頑張ったわね〜」


「で、でも最後に逃げちゃってごめんなさい…」


「いーのいーの! あんなに素敵な演奏を聞かせてくれたんだし」


「あはは……」


「……最後の、よかった」


 急にミララが喋った。カコさんはおどろいたような顔をした。


「私もそんな曲、歌ってみたい」


 ミララは私のギターを見つめていた。


「ミララったら、欲を出すなんて珍しいわね」


 カコさんは頰に手を当て、苦笑いをした。そしてミララに近寄り、ビンタをした。


 私は何もできなかった。


「ミララはお人形さんなの。お人形さんは夢を見ないのよ。静かに椅子に座ってるだけでいいの」


 カコさんは穏やかな口調で言った。まるで夢見ること自体が夢物語と言い聞かせるように。


「やっぱりお人形には人間らしいことをしてあげちゃダメね〜。また一人でずっと静かに過ごさせるしかないわ」


 ミララはカコさんに腕を捕まれ、カウンターの奥へと連れて行かれそうになる。カウンターの奥は休憩室。休憩室の変なドアの理由がわかりゾッとした。あれは座敷牢みたいなものだったのだ。


 私のせいで、ミララはあの何もない部屋で一人になってしまう。


 私は思わずギターでカコさんを殴りつけた。鈍い音とギターの狂った音が鳴る。カコさんの口から血と歯が飛ぶ。大切にしていたギターはボロボロになって死んだ。


 そして私はミララの手を取って店から逃げ出した。持ち物はスマホとさっきの茶封筒だけ。コートも着ていない。ミララは何も言わずについてきた。


 無我夢中で来た道を走っていく。上がっていく心拍数を落ち着かせるために深呼吸しながら走っていると、冷たい空気が身体に入って浄化されるような気持ちになる。悪いことや嫌なことは吐息にして全部吐き出してしまう。ミララは走っている時もまるで人形のようで息を荒げることはなかった。


 しばらく走ってから背後を見たが、カコさんが追いかけてくる気配はなかった。長い悪夢を見ていただけのような気がしていたが、右手ではミララのことをしっかり掴んでいた。


 ネオンと看板がキラキラする大きな通りに出た瞬間、私は自分のやったことの大きさに気がついて頭を抱えた。傷害かつ誘拐だ。だがミララの傷を訴えれば……と思ったが、それは私の意思でやることではなく、ミララの意思でやることだ。


 隣にいるミララを見ると、会った時と変わらない生気のない表情だった。しかし、汗をかいて顔が上気しているからか気持ち人間らしく見えた。


 冷たい風が吹いて私は自分が薄いワンピースしか着ていないことを思い出す。


 何はともあれ、ひとまず帰ろう。そして休もう。そう思って私は口を開いた。


「ウチにくる?」


 ミララは口角を少しだけ上げて頷いた。


 そしてミララは来た道の方を見て「バイバイ」と小さくつぶやいた。その横顔からは小学校に上がった子供のような喜びをほんの少しだけ感じられた。

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夢見るフランス人形 シメ @koihakoihakoi

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