靴ちがい/人ちがい

布原夏芽

靴ちがい/人ちがい

 最悪だ。この靴は、俺のじゃない。


 乱痴気騒ぎの飲み会からやっと解放されると思ったら、よりによって帰るために絶対必要な靴を取り違えられるとは。店内の客はおおよそが既に姿を消している。トイレで用を足していて遅れた俺は、誰かが忘れていった革靴を前に絶望した。


 大方、酔いつぶれて正体をなくしたやつが、自分の靴だと勘違いして俺のを履いて帰ったのだろう。かく言う俺も相当酔っぱらっている。そんな間違いが起こりうることは理解する。


 駅前で煌々と明かりを浮かべるこの居酒屋は、チェーン店らしく大箱で、いつ来ても酔客がひしめき合う。靴を脱いで寛げるのはこの店の魅力のひとつで、仕事終わりに足もとまで自由になった開放感からだろうか、どいつもこいつも羽目を外して酒に呑まれていた。


 一段上がった座敷席には、なけなしのプライバシーを守る襖障子が部屋どうしを区切っていて(大声で盛り上がってるのにプライバシーも何もあったもんじゃないけど)、だけども座敷から降りたところにある幅の広い土間に仕切りはなく、隣のグループのものも含めた履き主不明の無数の靴がぶちまけられていたのだった。


 店員も、宵のうちは客の靴を揃えているものの、夜が深くなり客どもが酔い出してからは知ったこっちゃないと言わんばかりだ。


 実際、黒い前掛けが炭火で煤汚れた若い店員に、靴を取り違えられたと酔いの醒めやらぬ頭で訴えてみたが、「所持品が紛失した場合の責任は取りかねます」などとマニュアルそのままの文言を放たれただけだった。


 間違いに気付いたやつが連絡してきたときのため携帯の番号を伝えてから、誰のかもわからない靴をひっかけて帰路につくことにした。まったくもって気は進まないが、裸足で外を歩くわけにもいくまい。


 履いた瞬間、強烈な違和感が俺を襲った。いくら似たような量産型ビジネスシューズだからって、間違えるやつの気が知れない。まるで履き心地が違う。サイズもわずかに大きいし、俺のものより心なしかボロっちい。


 そんなだから、履いていった相手も翌朝になれば絶対に気がつく。得体の知れない靴を手もとに置いておく理由なんぞないから、明日にでも居酒屋を経由して連絡があるはずだ。




 と思ったのだがあれから一か月、何の音沙汰もない。こちらから居酒屋に何度か問い合わせてみたが、そんな申し出は受けていないと、やる気のない店員が呆れ声で返してくるばかり。靴を間違えた当事者として、俺のことを馬鹿にする様子さえ窺える。何ということだ、俺は被害者だっていうのに。


 持ち主のわからない革靴は今も、玄関の隅に放置してある。靴箱の中に仕舞い込むのには抵抗があるし、もう期待していないとはいえ、ひと月越しに連絡が来ないとも限らないから捨てるわけにもいかない。


 俺の靴は今どうなっているだろう。自転車泥棒の多くはいっとき移動の足が欲しくてちょろまかすだけで、その後も盗んだ自転車を使い続けることはなく乗り捨ててしまうと聞く。今回の靴事件も故意に盗んだのではないにせよ、俺の靴はとっくに捨てられているのではないか。


 俺だけが一縷の可能性を捨てきれず気を揉んでいるのは、割に合わない。一応靴は置いておくが、もう忘れることにしよう。


 それにしても近ごろ、何かが変だ。どこが変なのか聞かれても、特定の何かを名指しできる気はしないのだが……。身の周りが以前と違って見える。先ほどもトイレに行こうとして扉を開けたら物置だった。職場では半年前から任され軌道に乗っていたはずのプロジェクトが頓挫するし、彼女にも一方的に別れを告げられた。「こんな人だとは思わなかった」のだそうだ。好みでもない女だったのでどうでもいいのだが。


 そうだ、他人の靴が出しっぱなしなのも鬱陶しいからゴミ袋にでも包んで、やっぱり靴箱に入れてしまおう。


 靴箱を開けると中には、見覚えのない靴が何足も納められていた。それが合図だったかのように、室内の家具も小物も何もかもが俺のものじゃないことに気がつく。それどころかこの家は、俺が契約したアパートじゃない。知らない家だ。


 ――俺はいったい、誰だ?


 唐突に思い出す、一か月前のあの夜を。そうか、あの晩飲みに飲んで酒に呑まれ、挙句あの場に飲み込まれて前後不覚の俺は、混ざり合った誰か別の人間のそとつらを、自分のものと取り違えてかぶってきた、のか?


 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。見知らぬ男の<人間>なんて、すぐにでもかなぐり捨てたい。でもそれは無理だ。よりによって、生きるために絶対必要な<人間>を取り違えるなんて。


 そうして完全に酔いが醒めた今、あの日居酒屋から嫌々履いて帰った靴だけが、唯一もとの俺の所有物だったという真実にようやく行き当たった。




 同時刻、駅前の居酒屋チェーン。仕込みに勤しむ二人の若い店員が、愚痴をこぼし合う。


「居酒屋のバイトなんてやってらんねぇよな」


「まったく、頭おかしい客多いからな。先月なんか、<自分>を取り違えられたって喚いているやつがいたぜ。靴を履こうとして体が違うことに気付いたんだとかなんとか」


「なんだそりゃ。その後どうなったんだ?」


「店にはもう誰もいなかったんで取り乱して出て行ったよ。それでやっと店を閉められると思ったら、今度はトイレに残ってた別の客が靴が違うって騒ぎ出すし散々だった。あいつら今頃どうしてんのかね」


「どっちのやつも案外、間違えたまま馴染んでいたりして」

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靴ちがい/人ちがい 布原夏芽 @natsume_nunohara

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