「ねえ」

 と背中のほうから声がした。私はいっきに後ろに振り返った。すると私のすぐ近くに、小さな――本当に小さな子供が立っていた。そして子供はいかにも子供っぽい声で、

「おにいさん。一人でなにやってんの?」と言った。

「はあ? な、なに言ってんだこの子供! 子供だろお前? 子供がなに言ってんだ! なに言った――私に――子供ガア!!」


 私の注意に、子供は顔色一つ変えなかった。少しも反省している様子がない。


 子供はナマイキな声で「そこ空き家だよー」と言った。

「バカなこと言ってんナア! 子供は黙ってろ! もう夕方なんだぞ? 怒られろ、おおお、親に。ハッ! ザマアミロ! 怒られろ。『いつまで遊んでんだ』って! 『早く帰ってこいバカヤロウ』って! 怒られろ――ザマアミロ! 子供がバカなこと言ってるからこんなことになるんだよ。バカだお前、ザマアミロ!」

「バカはおにいさんだよ。あたしは母さんにオツカイ頼まれて外に出てんだから」子供は左手のこうをこちらに向けると、中指だけをピンと立てた。「バ~カっ」


 おそらくこの子供には、口でいくら言ってもシツケにならないのだろう。それならと私は、ちょうどズボンのポケットに入れていたカナヅチを取り出し、それで子供の頭を思いきり叩いた。

 すると子供は、パタリと地面に倒れてしまった。あお向けだ。のんきに手足を投げ出している。目を開けたまま寝ている。そのままピクリとも動かない。幼さまる出しの寝相にイラダチを覚える。だがそれとは反対に、スカートのポケットからはみ出している、カワバリの長財布の大人っぽさが、とても好ましく感じられた。


「バチあたるよ。ネコにそんなことして」

 女が言った。それに私は振り返る。

「ネコ……? ネコってなんです? はやりのジョークかなにかですか?」

「たぶん死んでしまっていますよ。そのネコ。ああ、かわいそうに」

「死んだ? そんなわけないでしょう。寝ているに決まっているでしょう……? ホラ、夢を見ているじゃないですか、ホラ」


 死んでる? なにを言っているんだこの女は……?


 死んでる。

 寝ている。


 ホラ。『寝ている』のほうがしっくり来るじゃないか。じゃあ寝ているんだ。そうだ、そうだよ。うん、うん。うんそのまま。


「そんなことよりも話をらさないでくださいよ。ネコだろうが子供だろうが今はそんなことどうでもいいんです。この青リンゴを埋めてください。重要なのは、これだけです。……いいか、私はたしかに言ったんだ。そしてあなたは、たしかにそれを聞いた。この事実は、なにがあろうと揺るがないものなんだ。埋めなきゃ転ぶ、あなたは転ぶ、絶対に。埋めなきゃ転ぶ、夜道で転ぶ、絶対に。分かりますか!? ヒザをくとものすごく痛いんですよッ!?」


 私は心を込めてうったえた。それなのに女は、スタスタと奥へ引っ込んでいくようだった。


「待て! 話は終わってない! オイ、戻ってこい! 殺すぞ! オマエ殺すぞ!! 殺すからなッ!?」


 中に押し入ろうと強引にカキネをき分ける。とその時、突然後ろから声を掛けられた。


「おい、そこのお前、なぁ~にヤッテンダー!」


 言うが早いか後ろのそいつは、私の上着のエリをつかんだ。断りもなく他人のエリをつかむなんて信じられないことだ。失礼にも程がある。エリをグイグイとひっぱられ私はぶったまげた。赤の他人にこんなことをするなんて。


 振り払おうと私は暴れた。とにかく暴れた。必死に暴れた。しかし別の手が私に伸びる。仲間がいるらしい。腕をつかまれ、肩をつかまれ、胴に両手をまわされる。たくさんのアラアラしい息。相手は全員男であるらしい。髪をひっぱられ、脚に抱きつかれ、首に腕をまわされる。振り払っても次から次に群がってくる。まるで死体を食うカラスだ。ブタのような鼻息が耳をくすぐる。首筋に熱い息を掛けられる。実際になめられたかのような湿りを感じた。


 私はメチャクチャに暴れ続けた。だが男たちはイヌのようにハアハア言いながら、いつまでもしつこく組みついてくる。そして口々に野太い声でワメキチラス。頭のイカれた恥知らずの声だ。こいつらはいったい何がしたいんだ? 『マナー』の『マ』の字もないじゃないか。本当に頭にくる。こっちは大事な用事があるというのに。


「――なんなんだオマエラッ放せエエッ! 触るなワタシの肌に! つかむなワタシの服を! いいか? いいのかー!? これは大切な服なんだ。とても、とてもとても……っ! オイッ! ひっぱるナアーッ!!」

「うるさい! 大声を出すな!」

「ありがとうございます」


 わずかなスキを突かれ、私はカキネからひっぱり出されてしまう。そしてそのまま地面に引き倒された。そのせいで上着の内ポケットから妻の遺骨いこつがこぼれ、地面にバラバラと散らばり落ちた。それだけじゃなく、私は青リンゴまで手放してしまった。


 青リンゴはピチピチ跳ねながら地面を転がっていく。そしてそのまま、道の向こうの用水路に落ちてしまった。その瞬間、『どぶっ』と気味の悪い音がした。これはマズいことになった。


「タイヘンだ。そう、タイヘンだあーッ!!」


 すぐに青リンゴを救い出さなくては。私は立った。そして思いっきり地面を蹴った。――が、すぐに自分の足につまずいてしまう。体が宙に投げ出された。――これはマズい――。私はとっさに右ヒザで受け身をとった。右ヒザに激痛が走った。だが内臓が破裂するよりはずっとマシだ。もし腹を打ちつけていたらと思うとゾッとする。それでもヒザがひどく痛む。あまりの痛さに起きあがることができない。


 そんな私のことを、男たちは冷ややかな目で見降ろしていた。――私を囲むようにキレイに並んでいる――みんな頭に白いハチマキを巻いている――みんな祭りの青いハッピを着ている――。

 こいつらの背中には、きっと『祭』の字が書かれているんだろうな。――ズキン――と右ヒザが痛んだ。さすろうと手をのばす――が、それは途中でピタリと止まる。


 待てよ。こんなことをしている場合じゃない。早くあいつを助けてやらなくちゃ。


「待てよ。こんなことをしている場合じゃない。早くあいつを助けてやらなくちゃ」

 私は言った。

 すると、おぼれるように苦しむ、あいつの顔が浮かんだ。

 私は立った。

 すると、子供みたいな顔をして眠る、あいつの姿が浮かんだ。

 私はかけ出した。


「おい、そこのお前、なぁ~にヤッテンダー!」

 男たちは声をそろえて叫んだ。そして、いっせいに迫ってくる。


 かまうものか!! このまま突っ切ってやるッ!!


 私は男たちの壁に全力でぶつかっていった。だが私はすぐに、数人掛かりでうつ伏せに抑え込まれてしまった。


 苦しい。体中に男たちの体温を感じる。体がひどく圧迫され満足に息が吸えない。カンキツ系のニオイがする。吐きそうだ。男たちは奇声をあげながら、さらに体重を掛けてくる。息ができない。視界が暗くチラチラと揺れる。このまま殺されるような気がして、うなじが寒くなった。


「……おい、見ろよ、このガキ、死んでるぞ……。あ、頭が、ほとんど潰れてるじゃないか……。いったい、どうしたらこんなことになるんだよ……」


 大袈裟おおげさに男たちの一人が言った。バカらしい。まるで学芸会かなにかだ。『感情豊かに――感情豊かに――』とでも頭で唱えながら喋っているようで、いかにもコッケイだ。


 完全に抑え込まれてしまい、私はとうとうカンネンした。だが――目の前で妻が踏み潰されるのを目にした瞬間――心に火がつき燃えあがった。


「キサマラアアッ!! よくもマナミをッ!! よくもマナミを殺したナアーッ!! 何で殺したんだあぁぁ……、――マナミがいったい何をしたってんダアーーッ!!」


 私は叫んだ。ひたすら暴れ狂った。

 私の頭を抑える男は負けじとムキになり、私の頭に思いっきり体重を掛けてきた。


「ぅ、アアーッ!! ヤメローーッ!!」


 ああ敵わん。私の首はボキリと折れてしまった。ぐるりと視界が回る。たった今私の首を折った男と目が合う。男は、照れたように微笑ほほえんでいた。いやらしく吊りあがる口のはしから、銀の糸のようなヨダレがツーっと垂れ、とろりと消えた。


 体の力が抜けていく。落ちたマブタが持ちあがらない。息を吸うこともできなかった。だけれど少しも苦しくない。体の感覚がなくなっていた。


 意識が消える最後の時、「――パン――」という拍手の口真似くちまねが聞こえた。無邪気に澄んだ、コトリのような声だった。それはあの失礼な女のものにも聞こえ、同じくらい、妻の声のようにも聞こえるのだった。

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おぼれる青リンゴ 倉井さとり @sasugari

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