数秒が経って、小さな足音が近付いてきた。一歩一歩、何かを探るような足どりだった。ヤケにのんびりしている。なんだろう。酒でも飲んで酔っ払っているのだろうか。まだ日が落ちる前だというのに。


 さらに数秒を掛け、ようやく相手は近くにやってきた。そのクセに、私のすぐ目の前まで迫ってきた。その姿はカキネのせいでハッキリ見えない。カゲのようにボンヤリしている。小柄なシルエットは、しょうじ紙のように白い。白い服を着ているのだろう。ふと甘いニオイがした。息を吸う音がした。


「どうされました?」

 若い、女の、声だ。


「青リンゴ、青リンゴです。青リンゴ。道に……ホラ。青リンゴが落ちていました。こちらの家のものですよねっ……!」と私は言った。

 なぜか女は少し間を置いてから「それが、どうしたんです?」と答えた。

「そ、『それが』ってことはないでしょう。あ、青リンゴですよ? ホラ、こんなに青くてキレイな、ホラ」

「見れば分かりますよ。枝から落ちたんでしょ? そこらに捨てて置いてくださいな」

「……そんな言い方はないでしょう? いくらこの木の持ち主だからって……」

「はい? イイカタ? ええまあ、ゴミになるのは分かりますよ。ですけどイチイチそんなふうに――」

「ゴ、ゴミぃ!? ひぃ! なななんで! そんなひどいこと……言うんですか……。あなたには、人の心ってものがないんですか……?」

「なんなんですかいったい。それじゃあ、どうしろと?」

「ちゃんと埋めてやるのが筋ではないでしょうか」

「ハア?」

 と女はトゲのある声で言った。いかにも心に余裕がないようで、どこかあわれだった。

 ナマイキなことに、女はいかにも滑舌よく切り出す。

「なんでそんなことしないといけないんですか?」

「それが自然だと思います。庭のやしになりますし。だから――」

「大きなお世話ですよ。あなたにそんなこと言われる筋合い、ないですよね?」

「ノゥノゥノゥ、そうです、その通りです」

「……は? だったら……なん――」

「分からない人だなあアナタもッ!!」


 急に場の空気が静まり返ったような気がした。


 なぜだろう。私が原因なのだろうか。イラダチが声に表れてしまったのかもしれない。


 女はいつまで経っても返事をよこさなかった。


 第一印象を良くできなかった。ただそれだけのことじゃないか。小さな失敗だ。しかし私はそのことにひどく動揺してしまう。女に掛ける言葉が見つからず、頭が真っ白になる。どこかで『パン、パン』と拍手が二つ鳴り響いた。私は我に帰った。そしてすぐに言った。

「大声を出してしまったこと謝罪させてください――ありがとうございます」


 長い沈黙が続いた。にもかかわらず女は平然と喋り出した。


「そんなにそのリンゴが大事ならアンタが勝手にお葬式でもなんでもあげたら?」

「わ私は、お思うのです。こ、こんなにキレイな、青リンゴ、こんなにもキレイな、青リンゴなのです……。ははは、母なる木のそばに埋めてやるのが、イチバンではないでしょうか。私はおも思う、そう考えます考えました私は! ……それが人情でしょう? そうですよ。思います思います、私は思います。その、――アッおリンゴ……埋めてやるべきだと。だってこんなにキレイなんですよ? よく見てください。ホラッ!!」

「知っていますよ。毎日、エンガワから見ているんですからね」

「毎日毎日――雨の日も風の日も朝から晩までずっと見ていながら――なんで埋めてやることもできないんですか? おかしいですよ。絶対におかしい。ママ、マ、マカマカ、こんなことがまかり通っていいはずがない!!」

「あのぅ、ご近所にまで聞こえますから、声を……」

「ワク、ワクワク、分かってますよ……ありがとうございます」

「すいませんけど、お夕飯の準備がありますので――」

「いや、ちょっと待ってくださいっ……! 青リンゴっ……青リンゴ!」

「そんなことしているヒマがないので」

「……ふぅ……! ……うっ、うう、……ううう……、ど、どうして、そんな……かなしいことを言うんですか……言えるんですか……」

「ハアア? ……アンタ、なに泣いてんのよ。すいません、本当に早く帰ってくれませんか。そろそろダンナが帰ってくるので」

「……そんなに時間がないというなら、私がやります、私が埋めておきますから……。玄関はどちらから回ると早いでしょうか?」

「なに言ってんのよアンタ。敷地しきちに一歩でも入ってみなさいよ――すぐにケイサツ呼ぶからね」

「じゃあアンタなにがしたいんだよ! いったいどうしたいんだ! 言ってることがまったくアベコベじゃないかよ! 分かるように言ってくれ、分かるように! お願いだから分かるように言ってくれ!」

「早く帰れ、変質者へんしつしゃ

「あなたにそんなこと言われる筋合いはない!」

「だから、大声を出さないでくれませんか」

「ありがとうございます。そのことは本当に申し訳ないと思っています。ありがとうございます。ホントにありがとう。……だけど、ですけど……、アーッ!! あのですね、最初、最初から、もう一度、心、――そう、心を落ち着けて、よく考えてくださいませんか? 私は、あああ――青リンゴのことを言っているんですよ? 青リンゴです。ア、オ、リ、ン、ゴ。青リンゴです」


 私はいったん間を置いた。女に考える時間をやろうと思ったからだ。けれど女は、すぐに大きな溜め息を吐いてよこした。溜め息までトゲトゲしかった。女の悪意が目に見えるようだった。


「……やめてくださいよ……。そんなふうに、あからさまに溜め息を吐くなんて、ひどいですよ……。あなたは、なにをそんなにムズカしく考えているんですか? 簡単なことでしょう……? くたばったイヌやネコを埋めるより……ずっとずっと簡単です。……あ……もしかして、土いじりにトラウマのようなものがあるんですか?」


 もしそうであるとすれば、これまでの女の態度の悪さにも納得がいく。おそらくそれは事実なのだろう。彼女はきっと、以前になにかツラい思いをして、心に深いキズを負っているんだ。


 私は自分を恥ずかしく思った。人としてイチバン大切な『思いやり』というものを忘れていたのだから。


 私はニッコリ微笑ほほえんだ。そうしたところで彼女には見えていない、と分かってはいたが――微笑ほほえまずにはいられなかった。――そして私は――彼女を怯えさせないように――精いっぱいにやさしい声で――、

「もし私でよろしければ、お話をうかがいますよ?」と語りかけた。

 すると女は突然声をアラげて、

「ベラベラうるさいんだよアンタ――ぶつぶつヒトリゴト言ってないでサッサと帰れバカヤロウ」と怒鳴った。


 こんなの、異常だ。ありえない。イカれてる。まるでケダモノじゃないか。驚きのあまり血のケが引く。正直いうと、女の迫力に呑まれそうだった。だが――私だって一人の人間だ。こんなにも失礼なことを言われて黙っているわけにはいかない。


「ヒトリゴトだと……? それはちょっと聞き捨てならないな。ありがとうございます。それに、バカだと? アンタ知らないのか? バカって言うほうがバカなんだよ。ありがとう。正直、あなたの言っていることすべてが聞き捨てならない。なに言ってんだよアンタ。ナニサマのつもりなんだよアンタ。――ナンデモイイカラ、早くこの青リンゴを埋めてくれよ――頼むからさ、あんまりオレを困らせないでくれよ――。……もし、どうしても埋めないというなら……あなたは夜道に気をつけたほうがいい。あなたは転ぶ、夜道で転ぶ、絶対に。あなただって、夜道で意味もなく転びたくはないでしょう? だ、だから、早く早く! ――早く埋めてください!」

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