おぼれる青リンゴ

倉井さとり

 アテもなく町をさまよっていると、突然後ろで『パン』と拍手のような音が聞こえた。私は後ろに振り返った。――が、そこには誰もいなかった。さては空耳だったのだろうか。

 私はハッとした。いつの間にか夕方になっていたからだ。一瞬で日が暮れたような気がして、なぜか少しユカイだった。


 目に映るものすべてがペンキをぶちまけたように赤い。アスファルトや、そこにへばりつく雑草や紙クズ、転がる小石、口をしばられパンパンにふくれあがったビニール袋、潰れた空き缶、飛び出し注意の看板、ギョウギよく並んだ電信柱、たるんだ電線、どれもシレっと真っ赤になっている。


 ふと私は気がついた。遠くに見えるブロック塀の曲がり角から、長いカゲが伸びている。それをじっと見たまま、私は猫背になって口を薄く開いた。そして、そのまましばらくそのカゲを眺め続けた。その間、カゲはほんの少しも動かなかった。それがどんなに人のカゲに見えようと、動かないのであれば問題はない。

 私はハジかれたように後ろに振り返った。そして、ゆっくりと歩き出した。


 しばらくすると民家のカキネにさしかかった。大きな庭木が目につく。カキネを越えて垂れさがる枝葉には、リンゴがたくさん実っていた。青リンゴだった。どれもバカらしいくらい真っ青だ。


 『パン』と拍手が一つ鳴る。気がつくと私は枝葉に手を伸ばしていた。そのまま実の一つをくるりとひねり――もぎ取った。実がもげる瞬間、また『パン』と音が鳴る。


 青リンゴをそっと地面に置き、じっくりと眺めてみる。赤い夕日を浴びようが、青リンゴは青白く光るだけだった。


吉田よしだいえの奥さん、とうとう亡くなられたそうよ」とカキネの向こうから声が聞こえた。「発作が三日も続いたそうな」


 歌うように澄んだ声だった。コロコロと笑うのが目に見えるみたいに。


 私は青リンゴに右足をのせた。そのままゆっくりと体重を掛けていく。――シャリ――という音が耳をくすぐる。靴ごしにも青リンゴをハッキリと感じる。――シャリ――吸いつくようにやわらかい――かと思えば急にツンとカタくなる――シャリ――。潰れそうで潰れない感触は、まるで青リンゴが押し返しているみたいだ。そう思うと、足のウラが急にくすぐったくなる。


「最後の言葉は――」拍手のような『パン』という音。「――『もう殺しておくれ』だったんですってぇ」


 ハッとして、飛びのくように青リンゴから足をどかす。よかった、潰れてない。汁の一滴さえ漏れていない。ただ、カワの一部分が少しめくれていて、そこから中の果肉が見えていた。胸がドキンとした。


 ――青いユカタを着た、色白のオトメ――。ふとそんなイメージが起こる。――彼女は自宅のエンガワに腰かけながら、遠くで打ちあがる花火を眺めている。夏祭りに行きたくても行けないからだ。


 どうして?

 ――彼女はきっと病弱なんだ。


 体にさわるからと医者に外出を止められている。だから祭りに行けない。それでもせめて祭りの気分だけでも味わいたい。

 だから彼女は、わざわざひっぱり出してきたユカタを着て、遠くの花火を眺めている。ちょうど庭のカキネの上に顔を出す――リンゴほどの大きさしかない、小さな打ち上げ花火を――。たまに水っぽい咳をしながら、いつまでもボンヤリと眺めている。かすかに聞こえる『パン、パン』という花火の音に耳を澄ませながら――。


 そうした光景を思い浮かべてしまうくらいに、青リンゴの果肉は人の肌のようにつるりとして、心をき乱されるくらい真っ白だった。


 私には、青リンゴが照れているように思えた。――ハダけた服を気にしている――真っ青な顔をして、それでも心では恥ずかしがっている――そんな気がした。


 青リンゴの真っ白い肌を眺めていると、みるみる血のケが引いていった。気がつくと私は地面に尻もちを突いていた。


『パン』


 なぜだろう。右腕が勝手に動き出した。

 右腕は、上着の内ポケットをガサゴソと探り、『何か』を抜き取った。そして、すぐにそれを私の口の中へと放り込んだ。しゅるり――口のイブツに舌をわせてみる。しゅるり。うっすらと甘みを感じる。しゅるり。思いきって奥歯で噛んでみる――ボキリ――。

 香ばしくて味の良いそれは、噛むたびに、ボソ、ボソ、と鳴った。ヒトリゴトに似た響きだ。――ボソリ、ボソリ、ボソボソ――。


「それでねぇ……」とっておきのヒミツを打ち明けるような声。「ダンナさんはアレコレ悩んだすえに、気が狂ってしまったんですって。ああ、かわいそうに」


 私は立った。すぐに青リンゴをひろいあげた。青リンゴは、砂と足跡で汚れていた。顔がヒクついた。ヒザが震えて、奥歯がカチカチ鳴った。冷や汗が出て、頭が真っ白になった。突然首の後ろで、息を吸うような音がした。すぐに続けて、『パン』と音が鳴る。驚いたわけではないのに全身がビクッとした。


「ごめん――ごめんな――」私はささやいた。


 なぜだろう。勇気が湧いてきた。今ならなんだってできる気がした。


 私は青リンゴを磨いた。ていねいに砂を払って、上着のスソでコスった。息を吐きかけながらコスった。何度もコスった。ひたすらコスった。


 青リンゴは、元通りにキレイになった。それを見て、ものすごく安心した。目がうるむくらいホッとした。一つ深呼吸をした。やるべきことはもう決まっていた。私はカキネの向こうへ声を掛けた。まったくの他人に――それもカキネごしに――話しかけるというのに、私の心はひどく落ち着いていた。


「――ひっ! ひょ! すす、すみません。あの。もし? 少し、よいでしょうか? あひぃっ! す! すみませんこちらに来てください……!」

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