最終話 触れた願い
それから数日後の晴れのち雨。
ビニール傘を差した神立は「今週末、新しい犬を見に行くんだ」と水溜りを跳び越える。
あれから彼女は自身の気持ちを全部伝えて、両親を納得させたらしい。
「お母さんとも話したの。何であんなこと言ったのか、ちゃんと教えてくれたよ」
泣いても泣いても終わらない悲しみがこの世にはたくさんある。
それならいっそ、全部忘れてしまうのが一番幸せだ。
悲しかったことも、悲しんだ自分も、全部忘れてしまえば、明日からまた楽しく生きていけるから。
神立母は娘にそう話したらしい。
「私に苦しんでほしくなかったんだって」
彼女は言った。
「でも、それでも私は忘れずに生きていきたい、って言ったの。そしたら、わかったって言ってくれた」
多分わかってないけど、と彼女は笑う。
「君のお母さんは優しい」
「うん、私もそう思う。……もしかしたら、お母さんも私と同じように生きてきたのかもなあ」
だとしたらやっぱり家族だ、と彼女は嬉しそうにビニール傘をくるりと回す。
よかった、と僕は思った。
そして同時に。
どうしても一つ気になることがあった。
「で、新しい犬の名前はどうすんだ」
「あー名前ね、そりゃ先代がポチ太郎だよ? そんなの決まってんじゃん」
「うーん、ポチ次郎とか?」
「いやいやいや。だから神立家のネーミングセンス馬鹿にしないでって」
「じゃあなに」
「ポチ太郎2号」
「…………」
僕は言葉を失った。神立家、ブレねえ。
「ポチ太郎2号」
「だから二回も言うな。じわるから」
「もう自分のものにしてる」
さすがだねえ、と彼女は笑って。
「じゃあ一回しか言わないよ?」
「え?」
文脈がよく分からず聞き返す僕に、彼女は言った。
「――私と付き合ってください」
彼女の予想外の告白に頭が真っ白になった僕は「え、なんで」とだけ言う。
そんな僕を見ながら彼女は笑った。
「この前言ったでしょ。片思いを忘れるには、ってやつ。だから私は告白するほうを選んだの」
「いや、そうじゃなくてさ。なんで僕を?」
今まで全然そんな感じなかったのに。
僕が訊くと「そうだなあ」と彼女は小さな水溜りを跨ぐ。
「雨は止むように、人は変わる。やっぱり私はそう思うよ。だから今の君だって、いつかは止むと思うの」
左手の小指で頬にかかる髪を避ける。
彼女は真っ直ぐに僕を見つめた。
「でも私は、あの日傘を開いてくれた君を一生忘れないと思う」
彼女の黒い瞳に僕が映る。
「それだけだよ」
そう言って隣を歩く彼女の気持ちは。
その気持ちは、ため息が漏れるほどにあの日の僕と似ていて。
だからそれはそのまま返事だった。
「……僕も、同じ気持ちだよ」
「うれしい」
柔らかくほころんだ彼女の先に十字路が見えてきた。
僕は二人の時間の終わりを予感する。
「ねえ、ごめん」
最後にもう一つだけ、と言って彼女は急に――。
透明な傘がぶつかる。
踏み込んだ彼女の足元の水が跳ねて僕の靴に乗った。
彼女は傾けた顔を寄せて。
唇の直前に止まる。
「……でも、止まないで」
バリアに弾ける雨粒が音を失くして、触れた願いが僕の中に響いた。
無色透明と、歩く。 池田春哉 @ikedaharukana
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