シ線

アナマチア

シ線


 「見たら駄目よ」


 左隣に立っている友人がささやくように言った。

 そのかたい声が耳を打って、私はピタリと動きを止める。そして振り向きかけた体勢から、ゆっくりと顔を正面に戻した。


 「……みてる?」


 内緒話をするようにそうたずねると、友人──照美てるみはうなずいた。

 私は長いため息をはく。


 ──危なかった。


 ホッとしていると、横からわき腹を小突こづかれた。


 「アンタ。たちの悪い連中に好かれるんだから……もっと警戒しなよ。いつもそう言ってるじゃん」


 照美は大仰おおぎょうにため息をついた。

 私はうっ、と言葉に詰まってしまう。


 ──返す言葉がない。


 どうやら私は「取りきやすい人間」ならしい。そのせいか、たちの悪い連中──私は「よくないもの」と呼んでいる──に目をつけられる。


 ──霊と視線を合わせる。


 それが危険だということはわかっている。


 (……ちゃんとわかってたもん)


 でも、体の方が勝手に反応してしまったのだ。

 まるで、軟体動物のように私の肌をはいずる──視線に。

 決して私は、自分の意志で振り向こうとしたのではない。


 「気をつけてたのに……」


 私は不満をあらわにしながら、口をとがらせてつぶやいた。

 

 「アンタ、いつもぼけっとしているけど。そんなことじゃあ、いつか本当に危険な目にあうわよ。──ちょっと、聞いてる?」

 「へっ? ああ、うん! 聞いてる聞いてる! 気をつけまーす」


 エヘヘと笑って、私はおどけた調子で敬礼してみせた。


 ──照美は怒ると怖いのだ。


 こちらを半眼はんがんでじっと見つめたあと、照美はやれやれと言ったふうに、ため息をついた。





 私たちは毎日、電車に乗って通学をしている。

 田舎といえども、朝のラッシュ時には車内は激しく混み合う。にもかかわらず、シートの端にひとりぶんの空席があった。

 私はチラッと隣を見た。


 ──照美は強い霊感の持ち主だ。


 彼女が注意を払うということは、あの席には怖い霊がいるのだろう。


 ──立っているのか、座っているのか。はたまた浮いているのか。


 背中にねっとりと粘りつくような視線を感じる。

 私はハァとため息をついた。


 (朝からゆううつ……)


 私は霊を見ることは出来ないけれど、その存在を感じ取ることができる。そしてなぜか──。


 (じっと見られると、つい振り返っちゃいそうになるんだよね……)


 私はぎゅっと目を閉じた。

 視線から意識をそらそうとすればするほど、それは全身にからみつくように思えた。


 ──手足の自由を奪われてしまいそう。


 (……こわい)


 ポールを握る手にグッと力が入る。

 私は全身にじっとりと汗がにじんでくるのを感じながら、窓を流れる景色をながめた。





 それからしばらくたったある日のこと。

 トキ色に染まった空の下。

 私は学校を出て、急いで帰路きろについていく。


 ──田舎の電車は一本のがすと命取り。


 全力で走ればギリギリ間に合うかなぁ、と少し、絶望的な気分になったときだった。


 「ひゃっ」


 突然おこった一陣いちじんの風。

 その風は意志を持っているかのように、私の背を押して吹き抜けていった。私は思わずたたらを踏んでしまう。


 「やだ、すごい風……」


 ひとみを風から守るように、強く閉じていたまぶたを、ゆっくりと開けた。次いで、私はえっ、と目を見張る。

 すぐ目の前に、小道がひとすじ通っていた。それは、密集した家の塀を沿うようにして、ひっそりとその場にあった。


 ──こんな道、あっただろうか。


 私は首をかしげた。

 静まりかえっている家並みの間を、人ひとりぶんの道が真っすぐに伸びている。それは見たところ、駅の方へ続いているように思われた。


 ──駅への近道かもしれない。


 少し躊躇ちゅうちょしたあと、私はそこに足を踏み入れた。





 両側を塀にはさまれた道は薄暗い。


 ──まるで、外界から切り離されたような場所だ。


 塀の向こうには家々が寄り集まっている。


 (さっきまで夕日が見えてたのに……)


 それは住宅のかげに隠れてしまった。

 私は言葉に出来ない不安な気持ちに突き動かされた。

 奥へ奥へとひた走る。

 しばらくすると、無人駅のホームが見えてきた。

 私はホッと安心して笑顔になった。


 (ほらぁ〜! やっぱり近道だったじゃん!)


 目的地に近づいている。

 そうとわかって、気がくままに走った。


 (もうすぐここから出られる……!)


 と、思ったのに。

 後ろから強い力に引っ張られて、思わず立ち止まってしまった。


 「──えっ? な、なに……?」


 なにが起こったのかわからない。

 私はひどく混乱した。

 すると突然、なにかが首筋をなでた。ぞわりと肌があわ立つ。

 私は棒を飲んだように立ちすくんでしまった。


 「やだ……なんなの……!?」


 全身の毛穴からどっと汗がふき出す。

 まるで、マネキンのように弾力のないもの。それが私の肌をはっている。

 ぞろりと頸動脈けいどうみゃくをなぞられて、不快感にぶるりと震えた。それは時間をかけて上へと移動していく。そして、あごをなでると、強い力で顔をつかんだ。


 「ヒッ……!」


 冷たくて血の通わない感触。──これは人間のものではない。


 早くここから逃げなければ。

 と、思うのに。私は指一本、動かすことが出来ない。それはさながら、クモの巣にかかった羽虫はむしを思わせた。

 恐怖と不安で足がふるえ、激しい心臓の鼓動が耳の奥でひびく。

 おでこから汗が流れて、吸い込まれるように目に入り、そのからさに目を閉じた。──その瞬間。

 自分の意志ではなく頭が動きはじめた。

 私はひゅっと息をのむ。

 糸であやつられる操り人形のように、首がぎこちなく動いていく。


 (いや!)


 恐怖のあまり思考がマヒしていく中で、あの言葉が脳裏のうりをよぎった。


 『いつか本当に危険な目にあうわよ』


 ──このままでは本当に取り返しのつかないことになる。


 心臓の鼓動が激しくなるにつれ、息苦しさも増していく。さらに体の震えも激しくなり、私は歯をかちかちと鳴らしながら、ふーっ、ふーっと荒い呼吸をくり返した。

 周囲の音は完全に消えていた。

 私の鼓膜を震わせるのは、早鐘のように鳴っている心臓の鼓動と、歯の根の合わない音。そして、苦しげな息遣いだけだった。

 呼吸が荒くなるにつれて、両手足の指先はしびれ、頭がもうろうとしてきた。

 全身からどんどん熱が失われていき、視界が赤く染まっていく。ついに意識が遠のきかけたとき、親友の顔が脳裏に浮かんだ。


 (照美……)


 そう心の中で呼んだ、そのときだった。


 「有依子ういこ


 うしろから名を呼ばれて、私は目を見開いた。

 そうして、ふと気づく。さっきまでの重苦しい空気が散ってなくなっていることに。

 私は自分の体を見下ろした。

 手と足が動く。息苦しくもない。体の自由を取り戻している。

 私はホッと体の力が抜けていくのを感じた。


 (わたし……助かったの……?)


 でも、どうして?

 私はしばらく考え込んだ。

 てっきり、あのまま取り込まれると思ったのに。

 あきらめたのだろうか? よくわからない。

 私はかぶりを振った。もう考えるのはやめよう。

 とにかく助かったのだ。今はそれを喜ばなければ。

 私は胸の前で祈るように両手を組み合わせた。


 『有衣子』

 

 私はハッとした。

 そういえばさっき、名を呼ばれたのではなかったか。

 私は思い出したように振り返った。するとそこには、見慣れた顔が立っていた。

 照美はほほ笑みながら言う。


 「有衣子」


 その声を聞いて、私は思わず嗚咽おえつをもらした。

 照美がいる。

 私、本当に助かったんだ。

 よかった。本当によかった。

 私が涙ぐんでいると、照美が手を差し出した。


 「いっしょにいこう」


 私はこくこくとうなずいた。

 そうだ。家に帰らなければ。

 というか、一刻も早くここから立ち去りたい。

 私はためらうことなくその手を取った。


 「……え?」


 私は顔をこわばらせた。

 つかんだ手が、おそろしいほどに冷え切っていたからだ。

 氷を放り込まれたように、恐怖が背中を走る。

 私はごくりとのどを鳴らして照美を見た。

 照美はほほ笑んでいた。──貼りつけたような顔で。

 これは、だれだ。

 私はつないだ手を振り払った。それから一歩後ずさる。


 「照美……?」


 疑心ぎしんに満ちた声で言う。

 照美は口元に笑みを浮かべている。そして、

 

 「いっしょにいこう」


 さっきと同じ言葉をくり返した。

 彼女は笑っている。でも、その目は笑っていない。

 それに気がついて、私はもう一歩後ろへ下がった。

 目の前にいるのは、私が知っている照美ではない。

 では誰なのか。きっと人間ではない。なぜ照美の姿をしているの。それに私の名を知っていた。

 私は警戒心をあらわにして、じりじりと後退する。

 照美の感情のこもらない暗い目は、その様子をじっと見つめていた。

 冷たい汗がこめかみを伝う。

 逃げなければ。

 私はきびすを返した。

 しかし、逃亡はかなわなかった。

 なぜなら、信じられないほどの強い力で腕をつかまれたからだ。


 「いや! 放して!」


 必死になってあらがう。けれど、腕をひねりあげられて、私はうめき声を上げた。

 みしり、と骨がきしむ。

 下手に動けば腕の骨が折れてしまう。

 とてもじゃないけれど、私の力ではかなわない。

 ならばせめて、と両足を踏ん張った。

 私は歯を食いしばって必死に抵抗する。

 腕が痛い。肩の関節が外れてしまいそう。

 私は泣いてしまいそうになり、歯をかみしめた。


 (だれか助けて……! お父さん……! お母さん……!)


 たすけて……!

 私は心の中で叫んだ。

 息もえな私は、切実な思いを声に出すことも出来ない。胸中きょうちゅうで叫んだとて、当然、誰に聞こえるはずもなかった。





 まるで土のうのように、ずるずると引きずられていく。

 私は疲れ果てていた。


 (私……どうなっちゃうんだろう……)


 ホームへと続く階段をのぼる。

 体がきしんで、足がもつれそうになった。

 そうしてホームにたどり着いたとき、駅のアナウンスが電車の到着を知らせた。電車のごう音が近づいてくる。


 「いっしょにいこう」


 (え?)


 背中に衝撃しょうげきが走った。

 あまりにも突然のことで、悲鳴をあげることも出来なかった。

 体がちゅうに放りだされる。

 まるでスローモーションのように景色が流れていった。

 線路上へと落下していく体。一瞬、視界の端にその姿をとらえた。

 そこに立っていたのは血まみれの女の人。

 三日月の型をした口元から、黄ばんだ歯がのぞいていた。


 「いっしょにこう」


 (……どこで間違ってしまったんだろう)


 私が最後に見たのは、おう魔が時の薄闇だった。

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シ線 アナマチア @ANAMATIA

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