雨上がりの聖女
石田宏暁
想いが通じる五分前
雨上がりの美術館に僕らはいた。
翼を広げた女神。繊細な色使いに軽やかに舞いあがる羽根と、女性特有の柔らかいシルエット。女神の表情はほのかに笑っているように見える。美術部の後輩である中村玲子はため息交じりに言った。
「綺麗ですね、柴田先輩の描く絵は」
「ああ。我ながら、よく書けたと感心している。中村も実力はあるんだから応募だけでもすればよかったのに」
中村は美術部の後輩だが、僕にずけずけとアドバイスをくれるチビでうるさい女だ。僕の話にはよく笑う子だが、決して美人とは言えない容姿である。
だが色使いが上手く、的確な色彩や筆使いを知っていた。僕が諦めそうになると何度でも応援してくれる。前向きでメンタルの強い子なのだ。
「私が応募したらこの絵は落選したと思いますけど。先輩に花を持たせたんです」
「とにかく凄い自信だね」
彼女は美術部でも浮いた存在だ。家が貧乏なので絵具や筆もろくなものを持っていないし、着ている服も流行りじゃない。
今時信じられないくらい分厚い眼鏡をしているし、化粧っけも女っけも全くない。美に対して羨望するくせに、自分のオシャレに関しては徹底的に無頓着である。美を疫病か何かと思っているのだろうか。
「僕ほどじゃなくても、センスはある」
「知っています。モデルが良かったですね。これって西野先輩ですよね」
「!?……やはり中村にはバレてしまったか。お前、どうして彼女と仲がいいんだ。学年も委員会も違うのに。さてはバイトか?」
西野晴子とは、僕らの通う教銘高校の三回生であり、僕のクラスメイトである。その美貌は県外にまで轟くほどで、全校生徒の九割が彼女に淡い恋心を抱いていると言われるほどの恋愛モンスターだ。聖女と呼ばれている。
彼女を一目見た時に僕は産まれてきた意味を知った。彼女の為なら何でも出来ると思ったのだ。そして彼女をモデルに描いた絵はみごと県の最優秀賞に輝いた。さすがは僕、さすがは西野晴香。
中村は眼鏡を軽く持ち上げてうなずいた。とある駅前の喫茶店で彼女がウェイトレスをしているのは確認済みの事実。そうでなくては、中村をわざわざ美術館まで引っ張り出す意味など皆無だ。
「実は、そうなんですぅ。西野さんの家で経営してる喫茶店でバイトさせてもらってるんですぅ」
「ほお、それは、それは、それは。まさか、まさか、まさか。この先の女神のロゴマークが付いてるマグカップの喫茶店ではないか。ちょうど、喉が渇いたな。奢ってやろう」
「……素直に紹介して欲しいって言えばいいのに。分かってますよ」
中村はうつむいて、少しだけ返事に迷っていたようだ。僕が西野さん目当てだと確実にばれてる。
「あの……ひとつ寄り道したいんですけど、いいですか? 先輩は奉仕活動に殉じる必要があります」
「意味が分からない」
「奉仕活動と、殉ずるのどちらが?」
「ぶっ、バカにするな。言葉の意味は分かってる。自信はないけど……まあ、いい。それが条件というわけだな」
僕は団地の裏にある老人ホームに連れてこられた。二階建ての薄汚れた建物だったが、中庭は良く手入れがされていた。
生命力に溢れた魔女みたいな婆さんが三人いて僕らを迎えてくれた。さっそく炊事場に案内されボランティアの仕事が与えられた。
中村は洗い物をテキパキとこなした。僕がゴム手袋に苦戦している間に皿洗いは終わっていた。食器類はピカーンと光って見えた。最初の婆さんが言う。
「今日も完璧ね……ありがとう。少ない水で汚れ一つ残ってない。私が料亭で働いてた時は、これが出来ない子がいっぱいいたのよ」
「ふふっ、新井さんは料理の腕も一流ですからね。勉強させてもらってるお礼です」
「ほんと中村さんは、いいお嫁さんになるわ」
どうせ皿洗いを気分良くやらせる口実だと思った。こんな地味な作業に上手いも下手もないだろう。二人目の婆さんの仕事は洗濯物のおたたみだった。
またも中村はアイロンをしゅっしゅとかけ、しわひとつ無く同じ大きさで洋服をたたんでいった。僕がアイロンのコードと格闘している間に作業は終わった。
定規で図ったような美しいたたみ作業は速すぎて、何をしているのか分からないレベルだ。あっという間に服がシャキーンと積み上げられている。
「ブティックでは、これが出来ない子ばかりで何人もクビにしたわ。これなら値札を付けたら直ぐに店頭に並べられるわね」
「この前に頂いた値札付け用のピストル、使ってますよ。フリーマーケットで、サイズとか素材表示を付けるのにはまってます」
「仕事を楽しめるのは、偏見がなく素直だからよ。思いやりがあるから成長も早いわ」
なんじゃその理論、と思った。この雑用が上手くなるとベストキッドみたいな達人にでもなるのだろうか。
最後の婆さんは、少し違った。目が見えないようだった。
中村の顔や体をベタベタと触りながら、親しげに話をした。もともとは画家だったらしい。こうして人間に触れては頭の中で絵を浮かべるのが唯一の楽しみだそうだ。
「中村さん……本当に美人ね」
「ぶっ!!」
「なんか文句あります? 先輩」
「いや、よく分かってるなって」
三人目の婆さんは上品に笑った。まるで見えているみたいに所作が綺麗で、背筋もまっすぐ凜としていた。
「ええ、触っただけで何もかも分かるもんですよ、中村さんが美人だって。だって骨盤もしっかりしてるし、目鼻立ちも素敵。学校でもさぞやモテるでしょ?」
中村は眉を吊り上げて僕を見た。彼女がモテる世界線は思い付かないが、婆さんの手が中村の胸や尻にいくと、こっ恥ずかしくなった。
「……は、はい。そりゃもう」
「彼氏さんは、自慢だわね。でも人を見かけで判断しちゃ駄目よ。あなたが迷子になったとき助手席に居て欲しいと思える人と結婚しなさい。きっと彼女みたいな娘でしょうね?」
「結婚っ! って、も、もう、いいでしょ。行きましょ、先輩」
中村は恥ずかしそうに僕の腕を引っ張り、部屋を出た。車椅子の並んだ玄関から二階へ行くと壁には一枚の絵が飾ってあった。
それは抽象画で、綺麗な線が幾つも幾つも折り重なってカラフルな独特の世界を映している。
「おお、完成したんだ。お前の……これが見せたかったのか?」
「それもありましたけど、お爺ちゃんに紹介したかったんです。
奥の部屋に入ると肩幅のあるしっかりとした老人が座っていた。白髪に白ひげ、足や腕は細いのに手は大きかった。
「お爺ちゃん、また来たよ」
「おやおや、文恵。雨があがったね。今日は大介君を連れてきてくれたのかい」
「……?」
何処の誰と間違えてるんだ、と耳を疑った。呆けちゃってるという中村の言葉を思い出して僕は話を合わせることにした。
二十分ほど話をした。美術館に作品が展示されたとか、学校での授業や部活動、バイトの話に天気の話。
外は雨があがったね、というセリフは三回聞いた。はい、ところで……外は雨があがりましたね、と言ってやった。僕らはやっと爺さんから解放されて、老人ホームを後にした。
「誰と勘違いしてたの? 爺さん」
「アハハ、私の両親です。ごめんなさい」
ふと思い出したのは、中村は両親を交通事故で亡くして、叔母さんの家で厄介になっているという話だった。
だから洋服やお洒落に使うお金なんかは持っていないんだ。ボランティアなんかする必要もないだろうが、爺さんの為に何かしたかったのかもしれない。何故、どうしてと聞くのは野暮な気がした。
普通の人間が適当にやるような雑用を、中村は楽しんでやっていた。しかも完璧に。周りを幸せにしてる。ある意味、本物の聖女だ。
人は独りじゃ生きていけない。婆さんたちは手伝いが必要なら、手伝って欲しいと堂々と言うし、中村は楽しんで応えているだけだ。
「西野先輩の喫茶店に行くんでしたね。遅くなってしまいましたね。急ぎましょう」
「ああ……もう、いいよ」
「怖じけづいたんですか?」
僕は話題を変えようとした。それにしても、雨があがったねと言うと、何回言ってるんですかと突っ込まれた。仕方ないので飾ってあった中村の絵について感想を言った。
「あの絵、綺麗だね。老人ホームとお爺さんのために描いたんだろ」
「いえいえ……やだ、そうです。色々な線が重なりあって、見えなくなっちゃう線もいっぱいあって、だけど、だけど」
彼女はいいかけて言葉を詰まらせた。何を言いたいのか分かる気がした。一枚の絵の中には隠れていても、ちゃんといると言いたいんだ。
死んだ両親も、若き日の爺さんも、中村自身も……皆がいると言いたいみたいだった。それを僕は絵を見た時から知っていた。そこに僕は居るんだろうか。
「すごくカラフルで、人生みたいだ」
「そうです。ありがとうございます。ほ、ほんとに、こんなことに付き合わせてしまって、すみませんでした」
大袈裟に耳を赤くして、中村はもじもじとしながら顔を真下に向けた。分厚い眼鏡がカチャンとアスファルトに落ちて転がった。
クラクションと急ブレーキの音が鳴り響いた。僕は拾いに手を伸ばす彼女の腕を掴んでいた。危うく派手な外車に牽かれるところだ。
「危ないっ!」
「……きゃ!」
潤んだ瞳が、目の前にあった。僕は心臓が飛び出しそうになった。外車にじゃなく、中村があんまり綺麗な瞳で僕を見たからだ。
「だっ……大丈夫か!」
外車から出てきたのは若い女性だった。背中が広く開いたパーティードレスに身を包んだ綺麗な女性だった。
「あぶないわねっ! どこの田舎者かしら」
運転席からは金髪の男と、助手席からはまたまた美人の女性が現れた。美男美女だが中身はろくなもんじゃない。
「あ、あの……ごめんなさい」
「気を付けろ、ブスっ!」
「あらぁ、眼鏡割れちゃったみたいね。新しいの買いなさい。じゃあね」
車が発進して水溜まりから跳ねた泥水が中村のズボンにかかった。彼女は怒って文句を言いたそうだったが、僕はむしろ礼を言いたかった。
こんなチャンスは二度とないと気付いたからだ。やっと分かった。叔母さんの家に居候している中村は洗面所もバスルームもゆっくり使えないんだ。それにサイズのあった制服や洋服もひとつとして持っていない。
性格はポジティブ、優しいし、色彩センスもあるし炊事も洗濯もプロのレベルで骨盤もしっかりしてる。
眼鏡を取ってサイズのあった服を着るだけで、中村の容姿は格段に跳ね上がる。そこに化粧なんて、しようものなら……。
胸がドキドキした。僕の美的センスが、本能がそう思うんだから、間違いなんかあるもんか。それに、もし僕が人生で迷子になった時は、中村に……そばに居て欲しい。
さっきみたいな美人だろうが、傲慢で我が儘で自分の事しか頭に無いようなヒステリー女なんかは絶対にごめんだ。意を決したとき、彼女は僕に言った。
「先輩……実は西野先輩には既に話してあります。柴田先輩は優しくて、想像力があって、私が出す難題も、何でも楽しめる可愛くて正直な人だって。そしたら、ノリノリで是非とも紹介して欲しいって。ちょっと癪だったから、ボランティアに誘ったんです」
優しくて楽しくて素直で、しかもそのプロみたいな奴に持ち上げられた。
「はあ? もう西野さんなんて、どうでもいい。中村、今から買い物いくぞ、買い物。お前にぴったりの服とか眼鏡を買ってやる。いや、買わせてくれ」
「どうしたんですか。急に」
「一度しか言わないから、よく聞いてくれ。つっ……付き合ってくれないか。僕の彼女になってくれ。僕は中村が、中村が好きだ!」
しばらく時間が止まったような感覚があった。中村はどう返事をすればいいのか分からずに困った顔をしていた。
「悪い冗談ならやめてください」
「……冗談なもんか。なんなら婚約して欲しい。あれ、まだ高校生だから駄目かな」
更に固まる中村は、事態が把握出来ない様子だったが、顔を赤くして上目遣いで僕を見た。
「だって、さっきまで西野先輩を紹介しろって言ってましたよね?」
「あちゃあ! それは……それは間違いだった。多分何年かしたら、最初は他の女性を紹介しろなんて言って近づいたけど、本命は自分だったなんて、笑えるエピソードだなってお互いに笑える時が来ると思うんだ。結婚式の二次会あたりにはさ。ほら、もう、そんな過去があったと思うだけで笑えるだろ? 中村、ちょっと笑ってるじゃん? わ、笑ってくれてるじゃん」
「……笑ってませんけど」
「おかしいな。いや、懐かしいなぁ、若かったんだなぁとか言って子供たちにからかわれたりしてさ。人生のきっかけは不思議だね、みたいになったら笑えるさ。笑えるだろ?」
「……笑えませんよ!」
「でっ、でも。くっ、駄目か、僕の何処が駄目なんだって……こういうところかな。爺さんと婆さんになって、孫を抱く頃なら笑えるかもしれない。もしくは僕の墓標を見たら、最期の最期に笑ってくれるのかな。今は泣きそうだけど」
中村は項垂れる僕の手を引っ張って恥ずかしそうに笑って言った。その顔には溢れるような笑顔があった。
「あは、あはは、あははは。先輩の想像力には呆れます。いつの間にか、添い遂げちゃってるじゃないですか。誰も最期まで笑えませんよ、そんな未来の妄想話」
「……で、でも笑ってる」
「私で良かったですね」
僕らは笑っていた。互いに声を出して笑っていた。雨上がりの空は何処までも澄んで、虹がかかっていた。
雨上がりの聖女 石田宏暁 @nashida
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