翡翠の子
いときね そろ(旧:まつか松果)
緑の髪のケーニャ
今日、タオラが髪を上げる。
昨日まで自分と同じ側にいた少女が、大人側の一員になってしまう。それを思うだけで、ケーニャは重い気分になった。
◇ ◇ ◇
ケーニャに母はいない。生まれもはっきりしない。
背の高い養父に連れられて、ここツェリ・ヅェリの里に来たのは寒い時季だった。薬師のモイネ
養父のラズリとは、はてどこで出会ったものやら、いつから一緒にいたのやら。カジュケフ山を見上げつつ一角リャイパの背に揺られ揺られ、気が遠くなるほどの長い旅をしてきたような気がするが、その記憶は定かでない。ただ覚えているのは、常に鎧のような黒い服に身を包み口数少ない養父が、ケーニャに触れるのを避けていたこと。ケーニャからも特に懐こうとはしなかったこと。「おまえは生きていかねば」と言われて、ああそうなのかと思ったことくらいか。
モイネ御婆は穏やかな人だった。炉の使い方を始め生活に必要な知恵をケーニャにいろいろ授けてはくれたが、いわゆる変わり者の部類に入るのか、里と森の境に住み、薬草を採っては干し、あるいは煮詰めて日を過ごす。他の里人とは少し距離を置いたおいた生活をしていた。
暮らしに慣れてくると、ケーニャにもいろいろわかってきた。
この里は、女が動かしている。
まず、モイネの双子の姉と言われるのが長老のクイネ御婆。彼女の一言で良くも悪くも里は動く。その次に里人から信頼を得ているのは
それから女衆。皆、快活でよくしゃべり、よく働く。彼女らの頭巾は刺繍で飾られ、華やかだ。その周囲に子どもたち。誰が誰の子なのか覚えられないが、あまり数は多くない。
男衆は・・・・・・よくわからない存在だ。成人するまでは里の者、その後は風の者と言われるらしい。ようするに季節によって里に住んだり他所に出たり、かなり流動的なのだ。里の重要なことは女衆に任せて、気楽にその日を生きているようにも見える。
そして女衆にも男衆にも属さない人間が何人か。例えばモイネ御婆とケーニャだ。
モイネは若い頃に一度死んだ身だそうで、薬草だらけの小屋にずっと独りで暮らしている。黒い頭巾を被り、子は持たず、虫や草を相手にするのが好きなようだ。この暮らし方はケーニャには都合がよかった。なにしろケーニャは他の子どもといろいろ違いすぎる。
まず髪の色だ。日を浴びた木の葉のような、輝く緑色をしている。目の色も緑、さらに言えば睫毛や眉も、皮膚の色さえもうっすらと緑が混じっている。こんな姿の子がどこにいようか。
食も違う。里人と同じやりかたで穀物やイモを食べることはできない。せめてどろどろに煮たものでなければ、ケーニャは吐き戻してしまう。肉や魚など論外だ。
なにより大きく違うのが、成長の早さだ。ふつう子どもは季節を追うごとに背が伸び、体つきが変わっていくもの。そして泣いたり笑ったりと騒々しいもの。
だがケーニャは成長がおそろしく遅い。背は小さく手足も胸も小枝のように痩せたまま。感情は・・・・・・まったくないわけではないが、いちいち表に出すことはない。無愛想と噂されても、ケーニャには愛想の意味がわからない。
「たまにそういう子が生まれるんだよ」
と、モイネ御婆は言った。
「
「わたしはどっちなの」
「さあねえ。どっちにしたってお前のせいじゃない。あれをごらん」
御婆の枯れ枝のような指が、天井の一角を指した。何種類もの草を逆さに吊した中に、毒々しい黄斑の一束がある。
「薬草?」
「そう、フスベカズラの葉さ。使いようによって薬にも毒にもなる。同じ葉なのに、薬草と呼ぶも毒草と呼ぶも人の都合で決まるんだもの、カズラにとっちゃいい迷惑だろうよ」
乾いた笛のような声で御婆は笑った。
「お前も同じ。祝いだの呪いだの、周りが勝手にそう決めて勝手を言うだけさ。お前は好きに生きれば良い。痩せっぽちでも大きくならなくても、それがどうしたね」
モイネ御婆は灰色に濁った眼を細め、ケーニャの緑の髪を梳いた。
だがその暮らしも長くは続かなかった。薬師としての仕事をケーニャが覚えるのを待たず、モイネ御婆はあっけなく死んでしまった。養父は遠い町にいるとて便りの一つもない。つまり、ここで頼りとすべきものが、ケーニャにはまるでなくなってしまったのだ。
べつにそれが悲しいとか寂しいとかいうのではない。
里人はモイネ御婆の『二度目の死』を大いに嘆いたが、ケーニャには人の死と悲しみがなぜ結びつくのかわからない。ただ、暮らしていく手立てを失ったのは理解できた。
まだ仕事ができないケーニャは、糧となるものを何も生み出せない。では他の誰かの養い子になるかと問われれば、それは否だ。里人の心配をよそに、ケーニャはこのまま自分も草木のように枯れるのか、などと静かに考えて過ごした。
ぼんやりと過ごす暗い小屋の戸を開けたのは、小母ズルカだった。
彼女は養父と同じ言葉を言った。
「生きていかねばならないよ」と。
ズルカは機織り小屋に来るよう言った。
冬の間、里の女衆は機織り小屋で農閑期の「つくりもの」をせっせと作る。籠編み、糸紡ぎ、毛織り物などなど。それらの仕事をケーニャはひとつも知らなかった。モイネは生活に必要な品々を自分で作るのではなく、薬と交換して手に入れていたからだ。
だがこれからは、女衆と同じ仕事を覚えねばならない、それがゆくゆくは生きる手立てになる、とズルカは諭し、ベラ麦の粥をくれた。
久しぶりに口にするあたたかい粥は、意外なほどするすると胃に収まり、なるほどこれが生きるということならそんなに悪くもない、とケーニャは思った。
仕事を教えてくれたのは、少し年上の娘、タオラだった。タオラは華やかな顔立ちをしている。おまけに負けん気が強い。ゆえに里の娘たちの間では衝突も多かったが、不器用なケーニャのことをいつも気にかけてくれる人でもあった。
「姉」という言葉とその意味を、ケーニャは機織り小屋で覚えた。
◇ ◇ ◇
そんな冬の日々も、いつの間にか終わってしまった。
カジュケフの高い頂には万年雪が輝いているが、その白銀を際立たせている空は、遮るものとてない深い青ではなく、雲を抱いた明るい青に変わっていた。雲が生まれるは水の御技、とはこの地の言い伝えだが、たしかに川は流れ、木々や草の新芽が呼吸し水滴を生んでいた。東の峰クイネと西の峰モイネ(御婆たちと同じ名前だ)、そこから連なる山々もすでに緑に覆われている。そして山麓ツェリ・ヅェリの里ときたら、一斉に咲き競う野花と――うんざりするほどの羽虫だ。
家畜小屋からリャイパの鳴き声とともに、ざりざりと音がする。今日は野に出してもらえないから、角を壁板にこすりつけているのだろう。風向きが変わると、草食の獣特有の臭いが漂ってくる。
きたない。春はきたない。どうして季節は変わるのだろう。ケーニャは野に咲く花々を睨んだ。大人の仲間入りをする「姉」のために花を摘むよう言われて野に出てきたが、手籠いっぱいの花を摘んだとて、それになんの価値があるのだろう。
羽虫が目に入らないように袖先を振り回しながら、春など来なければよかったのにと呟いて、ケーニャはぬかるんだ土を踏みつけた。
機織り小屋の中は、むっとする香油の匂いに満ちていた。
祭りの装いに着替える女衆の、けたたましい笑い声が耳につく。機織り機には布が掛けられ、今日ばかりは作業も休みだ。
「あらケーニャ。花はいっぱい摘めたかい」
手を止めずに声をかけてきたのは、髪結いのウルマァだった。髪を結われているのは――タオラだ。胸から下に白布を巻きつけ、肩を出した格好だ。その背に長く波打つ黒髪。いつもなら何本もの細い三つ編みにして垂らしてあったものを、全てほどいて、梳かして。こんなにも彼女の髪は長かったか。
ウルマァの手は休むことなく動く。梳かした髪をひとふさずつ捻っては頭頂部に留め、それを繰り返す。
せっかく長く伸ばした美しい髪を、なぜ結い上げなければならないのか。
ケーニャは不満に思いながら、小屋の隅に座った。
続いてタオラのうなじに、肩に、背中にまで香油が塗られる。小屋に満ちている匂いはこれだ。ケーニャは腕で鼻を覆った。
タオラはくすぐったそうに笑っては、たしなめられている。
が、何かを察してふいに真面目な顔になり、しゃんと姿勢を正した。
女衆もハッとしゃべるのを止め、小屋は一気に静かになる。
長老のクイネ
男衆にも負けないほどの堂々大柄に灰色の長着。幾冬を越えた古木のごと揺るがぬ気をまとう
「今年はこの娘だけかい・・・・・・準備はいいようだね」
「はい。お願いいたします、クイネ様」
ウルマァから渡された剃刀を手に、クイネ御婆がタオラに近づく。
あの刃物で何を、と慌てるケーニャの肩を押さえた者がいる。
「産毛を剃るだけよ。危なくはないわ」
「なぜ? そんな必要ある?」
「そのほうが髪を上げたときに綺麗に見えるの。おとなしく見ておいで」
ズルカに優しく諭されては反論できない。ケーニャは渋々見守った。
よく研がれた剃刀が光を反射した。その刃が首筋を滑り、肩を滑り、御婆は手慣れた様子で細かいところまで整えていく。
ケーニャは目を見張った。
タオラはもともと身ぎれいにする娘だ。そのうなじや肩をさらに整えただけ。それだけの作業だ。
だが剃刀が走るごとに、彼女は変わっていく。私を見よ! とでも言いたげな輝きを肌に纏っていく。
これは何だ。何の儀式だ。
そうして御婆が役目を終えた頃には、すっかり自信に満ちた表情のタオラがそこにいて、ケーニャに笑いかけた。
「さあ、お花をちょうだい。ウルマァに飾ってもらって、今日はとびきり綺麗な私になるんだから!」
外はすでに祭りの準備が整っていた。
男も女も装い歌い、
「ツェリ・ヅェリ一番の器量よし、機を織ればかなう者なし、おまけに踊りの名手は誰だ?」
タオラ、タオラ、と皆が声を合わせる。
手拍子に口笛が飛び交い、今日の主役の登場を待つ。
「祭りにしかめっ面するんじゃないよ。ほら花を持って。しっかり祝ってやんな!」
背中を押されて、渋々ケーニャも祝いの列に加わる。だれのお古なのか、刺繍の入った上着と前垂れを付けさせられたのは不本意だ。ただ頭巾だけは黒を通した。それは譲れない。
くだらない。
なにが大人だ、何がめでたい。
成人すると、男衆の中から誰かを選ぶ資格ができるらしい。くだらない。
やがては子を産むかもしれない。春仔を産んだリャイパのように? つまらない。そんなタオラは見たくない。
うつむくケーニャの耳に、ひときわ高い歓声が届いた。
鮮やかな緋色の布帛をひらめかせ、タオラが現れた。初々しく結い上げた髪のいたるところに花を飾り、新しい短靴の足首に新しい鈴の輪。
女衆の賑やかな歌が始まった。力強く足を踏み出しそれぞれに鈴を鳴らす。
大地を呼び覚まして新しい命を生み出すといわれる舞だ。
男衆の手を打つ音が、単調な鼓動のようだった拍から次第に複雑になり、速くなる。タオラは中央で旋回を交えて舞い、跳ね、そして舞う。
「去年はダニリがぶっ倒れたんだよな」
ひそひそ声で誰かが言った。
ダニリは昨年成人した男だ。あまりに激しい旋回舞踊に耐えられず目を回して倒れ、おかげでいまだに半人前扱いされていると聞く。
「タオラ、俺の前に来た時にだけ目眩でも起こさないかな」
「馬鹿いうな。それなら俺の前に来た時だ」
ひそひそ言っているのは年若い男たちだ。
ケーニャは鼻で笑った。
どうせ男衆のだれもが、似たような期待をしているんだろう。おあいにくさま。
あのタオラがヨヨと倒れたりするものか。
男衆は知らないだろう。タオラは機織り仕事の合間にも、緑踏舞の練習を欠かさなかったのだ。最初は地面に円を描いて舞い、次第に高い場所へ。しまいには机の上に小さな盆を置いて、その中で軸がぶれずに舞えるまで練習していた。
小鼓の拍が速くなった。タオラの旋回が小さく、速くなる。
鈴の音と手拍子に煽られ、緋色の布が炎のように回る、回る。
リヒヤ、ディヒヤ、アントゥーセ!
(風よ、土よ、目を覚ませ!)
リヒヤ、ディヒヤ、パンデゥセ!
(風よ、土よ、命を産め!)
里人の歌と鈴と手拍子と。楽器の音が絡み、それらは熱を持ったひとつのうねりとなる。永遠に続くかのような長い祝い歌の中で、タオラは陶然とした表情で舞い続ける。
と、高く長い笛のひと吹き。
同時に
緋の炎となっていたタオラも、ぴたりと動きを止めた。
ケーニャの予想どおり、彼女はみごと最後までふらつきもせず踊りきったのだ。
息を切らし、汗に輝く顔で誇らしげに笑い、一礼する。それはもう、ケーニャの知っている少女の顔ではなかった。
タオラ! タオラ! 歓声と拍手が一段と高くなる。
その祝いの輪を離れ、ケーニャはひとり、丘に続く道に向かった。
早くも陽は傾きはじめ、カジュケフ山の肩の上には星がひとつ見えている。それを目指すように鳥の群れが飛び去っていく。
どうして。
誰にともなくケーニャは問う。
変化する。何もかもが変化していく。どうやらそれが世界の常らしい。
自分だけが変わらないのは、そして自分だけが異質なのは、なぜだ。
今まで意識したこともなかった疑念が、はじめて胸に湧いた。
山に向かう鳥の群れでさえ、ひとときも同じ姿ではなく、同じ所に留まらないというのに。
羽ばたきながら、高く鳴く一羽がいる。応えて他の鳥も鳴き交わす。
と、それが合図であるかのごとく、ケーニャの両眼からあふれ出すものがあった。
これはなんだ。止まらない、止まらない。
熱くしおからい水が両の目の関を超え、頬へと流れ落ちるのはなぜだ。
あの鳥たちのように呼びかけに応える者とてなく、胸の内側がぎゅうと冷たく萎むのはなぜだ。
これが。
そうかこれが「かなしむ」ということなのかもしれない。
里人たちがモイネ御婆を失った時の嘆きの姿と、今両眼からあふれるものとが、ようやく繋がった。
とすれば、タオラの成人を見届けた自分は何かを失ったのか。弔ったのか。
強い向かい風が吹き、黒い頭巾を奪い去っていった。
とっさのことに頭巾を捕まえることもできず、緑色に輝く髪が風になぶられるままになった。この髪を持つ自分は、祝いの子なのか、忌み子なのか。モイネ御婆さえ
知らない答えを教えてくれるのは、誰なのか。
とうさん、とかすれた声で始めて発音してみる。
黒い服を着た養父の顔を、もっと覚えておけばよかった。
生きねばならないよ、と風の中から誰かの声が応えた気がする。
だがその声の主はどこにもいない。
ひりつく頬を手で覆い、とうさん、とうさん、と何度もケーニャは繰り返した。
傾きかけた陽が、カジュケフの山々をひととき黄金色に染め変える。
あの山々の向こうに、声は届いただろうか。
〈了〉
翡翠の子 いときね そろ(旧:まつか松果) @shou-ca2
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