曲がり角に立つ者
白木奏
曲がり角に立つ者
「おはようございます!」
「はい、おはよう」
道の少し先に集団登校の子供たちと見守りの大人との会話が耳に入ってくる。ぼくは、かろうじて自分の三歩前が見えるように、帽子のツバを下げた。
大きな黒いブーツを履いた大人の足が視界に飛び込んでくる。
「……おはようございます」
あいさつを交わさないと、また変に気をつかわれるから。
「おはよう。いってらしゃい」
大人の大きい手が励ますようにぼくの肩を軽く叩き、前に押し出した。ブーツを履いた足が視界の後ろへ消えていく。
商店街の二つ前の曲がり角に、ちらりと、緑のスニーカーを履いた足が見えた。
ぼくはもう一度帽子のツバを下げ、早足で商店街の先にある学校へ向かう。
『立山あおいくんの失踪から二週間が過ぎましたが、依然として有力な目撃情報は入っていません。県警は、今回の事件と先月起きた二件の児童誘拐事件は、同一犯による犯行の可能性が高いと表明し、情報提供を呼び掛けています……』
どこかの店から、テレビニュースのアナウンサーの声が聞こえてくる。
「かわいそうに……早く帰ってきて欲しいわね」
スカートに白いパンプスを履いた足。
「三件ともこの近くで起きた事件でしょう。早く犯人を捕まえてほしいわ」
スラックスに黄色いヒールを履いた足。
「すみません、これ二個ください」
ズボンに革靴を履いた足。
「ねえ、きみ!」
突然腕を掴まれ、ぼくは驚いた。掴まれた腕に目を向けると、ジーンズにスニーカーを履いた足が視界に飛び込んできた。
「きみ、立山守くんでしょう」
「はっ、離して」
振りほどこうにも振りほどけない。
「今回の誘拐事件、つらい思いをしてるでしょう。弟をさらった犯人に、何か言いたいことあれば聞かせてくださいっ」
まくし立てる声が怖い。なんでぼくがこんな目に遭わないといけないんだ。
パシャリとシャッターを切る音が響き、ぼくもつかんで離さない手も、一瞬止まった。
「被害者の家族を追っかけまわしてネタにするのが記者の仕事なのか」
怒気を含んだ声と共に、ビジネスパンツに黒い革靴を履いた足が狭い視界に映る。
「子供に付きまとってる写真、アップしたら大変おいしいネタになると思いますが」
舌打ちの音が聞こえ、腕をつかんでいる手が離れた。スニーカーを履いた足が小走りに去っていく。
「あ、ありがとうございました」
ぼくは顔を上げることができず、黒い革靴を履いた足にお辞儀して、学校へ急いだ。
あおいはぼくの弟で、帰ってこなくなった日から半月ほど経った。
ニュース番組を見る度に涙ぐむ母さんを、父さんはきっとすぐに警察が連れて帰るよ、と慰める。
でもぼくは知っている。あおいは決して帰ってこないことを。
商店街の二つ前の曲がり角。振り返ると、今日もそこに静かにたたずんでいる。
ぼくにしか見えない弟の姿は、何かを訴えるわけでもなく、ただ虚ろな目でそこにたたずんでいる。
あおいが立っている曲がり角を通って学校に行くのはいやだ。
初めてあおいの空洞のような目を見た時は、凍り付くような寒さが全身を駆け巡った。いないはずの人間が目の前に見えるのが、こんなに怖いことだとは思わなかった。
目をつむって通ればいいのに、と頭では分かっていても、通り過ぎた後に振り返って確認せずにはいられなかった。
目を合わせるのが嫌だから、地面に視線を這わせ、少しずつ探っていく。
緑色のスニーカーに、細い足、半ズボン。
間違いなくあおいだ。
そこにいるのが怖い。でもいなくなったらもっと怖い。
だっていなくなったら、次に現れるのが、家の玄関前かもしれないし、ぼくの寝室の中かもしれないから。
記者を追い払ってくれた黒い革靴の人と、時々話すようになった。あおいの失踪事件が誘拐事件だと認定されてから、通学路の見守り隊のボランティアを始めたという。苗字は松本で、下の名前は分からない。
「まだ犯人は捕まってないから、家にいたほうがいいよ」
学校のない日、通学路の裏にある公園で一人ブランコを漕いでたら、松本さんに声をかけられた。今日はゆったりめのズボンとブーツという楽そうな格好だ。
「……家にいても息がつまるだけです」
ぼくは正直に答え、松本さんは心得たようにあぁ、と相槌を打った。
誘拐された不幸な子供の兄、可哀そうな被害者。よくそんな目で見られるけど、松本さんはそんなものを押し付けないから、話すのも楽だ。
父さんも母さんも、戻ってこない(戻ってくるわけがないのに)弟の心配ばかりして、目の前のぼくはまるで見ていない。
他の親戚や先生も、しっかりしてねと繰り返すばかりで、ぼくはずっと悲しんでなければいけないみたいで、嫌気がさしてくる。
「まあ、息抜きは必要だよね。パーッと遊べたらいいのに」
松本さんは同意しながら隣のブランコに座った。
「あおいが消えてから、公園で遊ぶ子も減ってつまらない」
松本さんは大人だけど、話し相手がいるだけでもぼくにはうれしかった。そして、ぼくの大好きなカードゲームを松本さんもプレイしていることが分かってから、話は盛り上がった。
「じゃ、今度家に遊びにおいでよ。まあ、外で遊ぶよりも安全だと思うから」
松本さんが言った。
「行きたいっ!松本さんのおうちはこの近くなの?」
ぼくは勢い込んで聞いた。
「ああ。家は君の通学路の途中にあるから、見かけたこともあると思うよ。えっと、商店街のひ、ふ……二つ手前の曲がり角の所だ」
松本さんのブーツから視線を上げ、ぼくは初めて彼の顔を見た。
穏やかで、人好きそうな笑顔を浮かべている顔だった。
それから、ぼくはたまに松本さんの家に行ってはカードゲームをするようになった。
松本さんのお母さんは病気で入院していて、今は松本さんが一人で住んでいる。小綺麗な一軒家で、白いガレージもあるから、車を持ってるのと聞いてみたら、修理に出してからずっと戻ってきてないんだ、と松本さんは困ったように肩をすくめた。
松本さんは負けてもちょっと悔しそうににこにこしているだけだから、カードゲームの対戦は楽しい。でもぼくには、もっと知りたいことがある。
松本さんがジュースの用意やトイレで部屋を離れている間に、音を立てないように気を付けながら、クローゼットやベッドの下など探しまわった。
一度、ベッドの下から出るのが遅れて、ジュースを手に部屋に戻った松本さんに見つかったけど、「エロ本を漁るなんてまだ早いっ」と頭を軽く叩かれただけで済んだ。
ぼくはどうしても確かめたいんだ。
なんであおいは、松本さんの家の外にずっと立っているのか。
今日は、朝早くから松本さんの家に来た。たたずむあおいの顔を見ないように、帽子のツバを下げて、曲がり角を曲がる。緑のスニーカーの履いた足がちらりと視界の端をよぎった。
「なんかあったのか、こんな朝早くに」
ドアを開けた松本さんは意外そうな表情を見せながら、部屋にあげてくれた。
「今日は……」
話は電話の着信音にさえぎられて、松本さんは電話を取りに部屋を離れた。
ぼくは縁側から部屋に差し込む朝日を見て、ふと思い出した。
ぼくは、まだこの家の庭に入ったことがない。
縁側まで出て、庭を見渡す。石を敷き詰めた庭。奥には幹が丸々とした木が一本生えていて、道路側には花壇があった。
庭の一角を囲うようにできた花壇は、ぼくの腰くらいの高さがある。花壇に使われてるレンガはくすんだ壁の灰色に馴染まない、真新しい赤色をしている。
ぼくは庭用のスリッパに足を入れて、花壇を見に行こうと歩き出す。
「何してるの」
突然肩を掴まれ、歩が止まった。振り向くと、そこには松本さんのこわばった顔があった。
「……コスモス、綺麗に咲いてたから」
ぼくは心を読まれないように、そして松本さんの心を読み取ろうと、目を合わせたまま答えた。
「そうか、そう、だな……あれだ。この秋からガーデニングを始めたばかりだから、まだ人に見せされるようなものじゃないよ」
松本さんはぼくの肩を掴んでいた手を放し、気まずそうに自分の頭をかく。ひきつった笑顔で頬の肉がぴくぴく動くのが見えた。
ぼくはもう一度、花壇と松本さんの顔を見比べ、口を開いた。
「今日はお別れの挨拶しに来ました」
松本さんは意表を突かれたように、眉を上げて瞬いた。
「うち、明日引っ越します。あおいがいた場所から離れたほうがいいって父さんが決めたんです。今までありがとうございました」
ぼくは深々とお辞儀をした。
松本さんの家から出て、ぼくは家に帰ることにした。
曲がり角の所――ちょうど花壇のしつらえられた一角の外側――を通ったら、あおいは相変わらずぼんやりとそこに佇んでいる。半ズボンに緑色のスニーカー。
ずっとあの夜着てたのと同じ服だ。
ぼくは弟が嫌いだ。さらさらの髪が嫌いだ。いつも人の顔色を伺うような目が嫌いだ。転んだ時すぐに泣く性格が嫌いだ。
そんな弟を心優しいとか言ってかばう父さんと母さんも、弟を理由にぼくを笑うクラスメイトも嫌いだ。
だから両親の帰りが遅いその夜、ぼくはおやつを買いにコンビニに行こうと弟に言った。
人のめったに通らない交差点の陰に隠れ、横から入ってくる車のヘッドライトを見計らって、彼を突き飛ばした。
最初に曲がり角であおいを見かけた時、本当に怖かった。彼を突き飛ばした交差点からけっこう離れた場所だったから、ぼくを追いかけてきたんじゃないかって。
でも違った。
たぶんあおいをひき殺したのは松本さんで、彼は死体を隠すために花壇を作った。
ぼくは誰にも追いかけられていないし、何にも怯える必要はないんだ。
死体があの花壇から掘り出されない限り、あおいはずっとここに立っているかもしれない。
でもそれはどうでもいいことだ。だって明日引っ越すんだもん。
「バイバイ」
ぼくは誰にも聞こえない低い声で呟き、すっきりした気持ちでその場を離れた。
曲がり角に立つ者 白木奏 @Shiraki_Kanade
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