雨が降っても立ち上がれ

放睨風我

雨が降っても立ち上がれ

おれは荒野をさまよっていた。


どこから来たのかも、どこに向かっているのかもわからず、ただひたすらに歩いていた。足はくたびれ息はあがり、ぼろぼろの身体で、それでもひたすらに歩いていた。


おれの心は乾いていた。どこに向かっているかはわからないが、ひとつだけ、切実に求めるものがあった。


家族だ。


いつかは安全な場所で家族と暮らすのだ。どこにあるかも、いつ辿り着くかもわからない暖かな新天地を夢見て、おれは荒野を歩いている。


荒野には風が吹き、乾いた地面をがらがらと撫でてゆく。ここが危険であることはわかっていた。だからこそ、安全な場所を目指して歩いているのだ。だが、ゆけどもゆけども、先が見えない。


「……」


おれの心は孤独であったが、傍らには「仲間」がいた。そいつがどこの誰なのか、おれは知らない。その姿かたちと、求めるものが同じであることから、おれたちは共に旅をしていた。


ふたりで歩き始めてから、どれだけの時が経過しただろうか。


そいつは天を見上げて呻いた。


「やつらは僕たちを根絶やしにするつもりらしい」

「やつら?」


おれは重い足を引きずりながら聞き返す。問われ、そいつは怪訝な顔でおれを見た。


「君は知らないのか?」

「何をだ?」

「【死の雨】だよ」


そいつは天を指差した。そいつの指し示す先を見上げるおれは、いつの間にか視界いっぱいに渦巻いている暗い雲を発見する。


「空から降ってくる僕たちの天敵だ。ひとたび【死の雨】が現れると三日三晩は降り続き、あたりを水の底に沈めてしまう。たっぷりの水は激しく流れてごうごうと荒れ狂い、僕の父さんは洪水に流されてどこかに消えてしまった。水が上がったあと、生き残っていたのは僕だけだったんだ」


おれはひどく喉が乾いていることに気が付いて、ごくりと唾を飲み込んだ。ひゅう、と、荒野に風が鳴っている。


空に渦巻き風に流れる雲たちは、まるで無力なおれたちを見下ろして舌舐めずりをしているように思えた。


おれは空を見上げたまま、傍のそいつに問いかける。


「……その【雨】は、どうしておれたちを殺そうとするんだ」

「知らないよ、そんなこと」


そいつは悲しそうに言う。もちろん曇天はおれの疑問に答えてはくれず、ただ静かにそこにあり続けた。


「理不尽で、不条理で、決して許せない僕たちの敵だ。いま僕たちは無力だけど、いつかは安全な場所に辿り着いてやる。そうだろ?」

「……ああ」


おれは首肯する。


「だから何としても……」


と、そいつの言葉がぶつりと途切れ、不思議に思ったおれはそいつを振り返る。そいつは空を見上げていて、少しずつ険しくなる表情は、徐々に恐怖と怒りをその目に映すようになって――


「――隠れろッ!」


そいつはおれの身体を突き飛ばした。おれは突き飛ばされた勢いでそのまま駆けて、離れた岩の陰に身を滑り込ませる。一拍遅れ、そいつもおれに続いた。高い位置で屋根のように曲がった岩は、おれたちの身体を空から覆い隠してくれていた。


おれたちは、岩陰からおそるおそる曇り空を見上げる。


「……降るのか?」

「ああ、たぶんな……。来たぞ!」


そいつが叫んだ次の瞬間、ぽつぽつと小さな雫が土を灰色に塗り替えはじめ、すぐに、天から降り注ぐ水が激しく地面に叩きつけられるざあざあ降りの豪雨となった。


そいつは疎ましそうに空を見上げてぼやいた。


「これは……激しいな」


おれは、そいつの身体が小さく震えていることに気が付いた。それは寒さによるものか、それとも身近な存在を奪った【死の雨】の恐怖を思い出しているのか。おれには判別できなかった。


だからおれは、なるべく明るい声色で後ろからそいつに声をかけた。


「おい、楽しいことでも話そう」

「……楽しいこと?」


そいつは振り返り、目に疑問符を浮かべる。おれは神妙に頷いた。


「たとえば……おれたちの目指す理想郷について」


おれの言葉にそいつは苦笑する。おれは何となく、そいつには笑われてもいいと感じていた。


「そうだな、それはいい……まずその理想郷には、この厄介な【死の雨】が降らない」


おれは頷いて、そいつの言葉を続ける。


「暖かくて、ちゃんと天井に覆われているのが最高だ」

「たくさんの家族が平和に暮らしていける」

「食べるものもたっぷりあって」

「しっかり僕たちを隠してくれるんだ」


おれたちの隠れる岩はやや小高い丘のような位置に立っていた。おれたちがうつろな理想郷を語る間も、ざあざあと【雨】は降り続いていた。その勢いは留まることがなかった。荒地に水たまりができたかと思うと、またたく間に水位は上昇し、さっきまでささくれた大地であった場所が、おれたちをいとも簡単に飲み込むであろう大河の奔流と化した。


ごうごうと水が流れ、その河はまもなくおれたちの足元にまで上昇してくることは確実であった。


おれは岩陰から天を仰ぎ見ると、眉をしかめた。


「これは……岩に登った方がいいな。このままだと流されるかも知れない。行こう」

「あ……」

「?」


岩陰から出ようとするおれに、そいつは奇妙な表情を向けた。おれは目で問いかけるが、そいつは何でもないと言うように首を振る。しかし、その場から動こうとしない。


業を煮やしたおれは、さっと岩陰から出て【雨】のもとに身を晒した。冷たい水滴がばちばちと身体を打ち、どんどん熱を奪ってゆく。その雨量によって、水位は既に岩のふもとまで迫ってきていた。


おれは岩に手をかけてのぼると、岩陰で不安そうにしているそいつに手を伸ばした。


「おい、危ないぞ。はやく登ってこい」

「……」

「【雨】を凌げないのは辛いが、水流に飲まれるよりはマシだ」


そいつはおれの伸ばす手をしばらく凝視したかと思うと、意を決したようにがしりと握り返してきた。おれは、ぐいとそいつを岩の上に引き上げた。


岩の上はあたり一帯でもっとも高いようで、周囲は既に水に飲まれてしまっている。おれは不安を押し隠すように、軽い口調でぼやいた。


「こいつは、まさに孤島だな。このままやり過ごせるといいが」

「……ああ、そうだな」


そいつは【雨】を産み落とし続ける空を見上げて、上の空で返事する。何かを心配しているようにも見えるそいつに、おれは疑問をぶつけた。


「なあ、さっきからどうした?」

「いや……悪い。僕の思い過ごしだったみたいだ」

「思い過ごし?」


そいつは古傷を吐き出すような表情で、低く呟く。


「ときに【死の雨】は、わずかに身体に触れるだけで死をもたらすことがある」

「なんだって?」


おれは目を見開く。


「降ってくる【雨】の水で、溺れたり流されたりするから【死の雨】なんじゃないのか?」


そいつは、恐怖に耐えるように身を震わせている。


「身体を溶かす【死の雨】が降ることがあるんだ。僕の幼なじみはそれで死んだ。ぽつりと振ってきた【雨】を見て、なんだ、大したことないなと思った僕は……彼女と一緒に、遊びに出掛けようとしたんだ。だって、ずいぶんと小雨で、とても溺れそうにないように思えたから」

「……」

「ところが【死の雨】が彼女の顔を濡らした瞬間、じゅうじゅうと音を立てて、彼女は……僕の目の前で溶けていったんだ」

「じゃあ、この雨ももしかすると……」

「そういうことだ」


そいつは目を伏せ、首を横に振りながらそう言った。


おれはそいつの無頓着な表情を見つめながら、胸の奥からある感情が湧き起こってくるのを感じていた。


「だから……怖かった。でも、この【雨】は大丈夫らしい。僕たちはとにかく流れに飲まれないように……」

「――おい」


おれの怒気をはらむ低い声に、そいつはびっくりしたように顔を上げる。


「な、なんだ?」

「なんだ、じゃねえだろう。お前は【死の雨】でおれの身体が溶けるかも知れないと思っていながら、何も言わなかったな」


そいつは、じり、と後ずさりしておれから距離を取る。


「そ……それは」


不信。


ひとたび芽生えてしまったそれは、小さな岩の上でおれたち二人を決定的に引き離した。激しく飛沫を飛ばす水流が、岩のまわりをごうごうと流れている。


冷たい【雨】がおれの肌を這い落ちる。おれはそいつを正面に見据えて、低く宣告するように告げる。


「他に隠していることがあるなら、聞かせろ」

「な……ない。何もない。悪かった」


そいつはおろおろと謝りながら、また一歩後ろへさがろうと――


「あっ!」


そいつは足を滑らせて、ばしゃんと音を立てて水に落ちてしまった。激しく上がった飛沫は、即座に渦巻く水流のそれに一体化する。


――おれは、迷った。


だが、迷いはほんの一瞬だった。おれの身体は勝手に動いて、飛びつくようにしてそいつの手を掴んでいた。そいつは半分水に沈みながら、驚愕を孕む瞳でおれを見つめる。


「何やってんだ、速くあがってこい!」


そいつの身体は荒れ狂う水流に翻弄されて、おれの手を振りほどこうとするように暴れ回った。何が正しいかなど、考えている余裕はない。身体に残るわずかなエネルギーを振り絞って、おれはその手を離すまいと渾身の力でそいつの手を掴んでいた。


そいつはごぼごぼと水を飲みながらも、水流に負けないように声を張り上げた。


「ほんとうに……悪かった!僕は、君を……!」

「――まず生き延びろ!」


何か言い募るそいつを、おれは遮る。そいつの目の中にはわずかな恐れと後悔が浮かんでいた。


「くそっ、水が――」


水圧と必死に戦っていたおれは、ふと、いつの間にか濁流の水面が白く泡立っていることに気が付いた。


「……何だ?」


ぶくぶくと広がる泡が、徐々にその面積を増大させていた。そいつの身体はほとんど水に沈んでいて、わずかに手と顔だけが水面に出ている。白い泡は水に浸かっているそいつの身体に食らいつき、そして――


「ああああああああああ!!!」


そいつは――悲鳴を上げた。絶望的なその声は、おれの耳をもぎ取っていくのかと思うほど激しかった。


「お、おい……!?」


おれの手にかかる重さは、どんどん軽くなっていた。そいつの身体が、水に浸かっている部分から次々に崩れていったからだ。泡にまみれたそいつの脚が削げ落ち、胴が分離して、片手が流れ去り――とうとう、おれの手を握っている片手と上半身だけが残った。そいつは虚ろな目でおれを見据え、ぱくぱくと口を開閉させる。おれは、そいつの言葉に耳を澄ませるが――


「……」


そいつは何の言葉も残すことなく、泡にまみれた身体をばらばらに崩壊させながら濁流に飲まれていった。おれの手の中には、そいつの片腕だけが残されていた。



◆◆◆◆◆



【死の雨】は果てしなく続いたように思えた。おれは岩の上でひとり蹲り、ごぼごぼと泡立つ崩壊の足音を間近で聴き続けていた。【雨】があがったとき、しっかりと握りしめていたはずのあいつの片腕はどこかに流されてしまっていた。空は嘘のようにからりと晴れ上がり、地面はみるみる乾いてもとの荒野へと様変わりした。


「……」


おれはそうして、またひとりで荒野を歩いていた。


おれは、たぶんたったひとりの仲間を失いたくなかったのだろう。それはあいつのためではなく、純粋におれのためだった。おれはおれのために、あいつを助けたかった。おれはあいつを完全に信頼することができなかった。それは、あいつも同じだろう。仕方がないことなのかも知れない。でも少なくとも、雨が降り始めるとき、あいつはおれを突き飛ばして岩の下に逃げ込ませてくれたのだ。だからきっと、希望はあった。


【死の雨】を前にしておれたちは、しっかり手を繋いでいながらも、決定的なところで途切れてしまった。


「……」


おれは空を見上げた。そこにはまた雲が渦巻いている。


――やつらは僕たちを根絶やしにするつもりらしい。


あいつの声が脳裏に蘇った。おれは、こみ上げてくる笑いを抑えることができなかった。根絶やし。おれたちが何をしたというのか。おれたちはただ生きて、ただ……そう、生きたかっただけなんだ。それが、どうして……


おれは天を仰ぐ。ぽつり、ぽつり、と現れた【死の雨】はまもなく土砂降りとなり、おれの全身を激しく打った。おれの身体がしゅうしゅうと音を立てて、煙とともに溶けていく。おれは天を凝視して終わりの音を聞いている。


【雨】の荒野には、いつまでもいつまでも、乾いた笑いが響いていた。



◆◆◆◆◆



スーパーマーケットの入り口で、小さな子供がとてとてと母親に駆け寄る。母親は振り返ると、その子に声をかけた。


「ユウキ!ちゃんとおててシュってした?」

「したもん」


ユウキはマスクの下でもわかるほど、ぷうっと頬を膨らませた。同じくマスクをつけた母親はユウキの手を引っ張って、入り口に設置されているアルコール消毒スプレーを何度か吹き付ける。


「ウイルス怖いんだからね。おうち帰ったら手洗いとうがいもやるのよ」

「んー」


ユウキは不満そうに小さな両手をこすり合わせ、消毒液を両手に馴染ませた。

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