リバース
僕は夏海を愛している。
これだけは誰にも負けない自信があった。
夏海のマンションの駐車場に車を停めた。
フロントガラスから見える空は分厚い雲で覆われている。
今にも雨が降り出しそうだ。
夏海とは付き合って二年になる。
彼女は仕事上、家に籠ることが多いため、僕が彼女の家に行くことがほとんどだ。道もすっかり覚えてしまった。
今日は「夕飯を作りにいくね」と連絡した。返信はなかった。スランプなのだろう。
スランプ中は書くこと以外すべてどうでもよくなるのが夏海の性分だ。
恋人の僕のことすら。
……でもさあ。
そんなの、許せないよね。
僕たちは付き合っていて、僕はこんなに夏海のことを愛しているのに。
同じだけ、僕を愛してくれなきゃおかしくない?
***
僕はペットボトルのウーロン茶とガラスの小瓶をカバンから取り出した。
小瓶の中には、細かな白い粉末が入っている。
ウーロン茶のキャップを外し、その粉末をすべて入れて軽く振る。
そしてそれらをカバンに戻した。
スーパーのビニール袋を持って車から降り、夏海のマンションのエレベーターに乗る。
合鍵を使って玄関の扉を開けた。暗い廊下が迎えてくれる。
換気のしていない澱んだ空気が、ぬめりと肌を撫でた。
僕は靴を脱いで部屋に上がるが、それでもきっと彼女は気付いていないだろう。
台所に向かい、ゴミ箱の蓋を開ける。
案の定カップラーメンの空容器で溢れていた。ゴミ箱の蓋を閉める。
スーパーで買ってきた食材を袋ごと空っぽの冷蔵庫に押し込んだ。
冷蔵庫を閉めて、この家の中で唯一光の漏れる扉に近付く。
夏海の仕事部屋だ。
ここまで近づいても彼女はまだ僕に気付いていない。
でもいいや。もうすぐ僕しか見えなくなる。
扉を開ける。
カーテンの閉め切った部屋で、一心不乱にキーボードを打ち込む猫背の彼女。
「夏海、二時間だけ時間をくれない?」
***
僕たちは外に出て、停めてある車に乗り込む。空は変わらず真っ黒だ。
「はい、お茶」
「ありがとう」
助手席に座った夏海にウーロン茶のペットボトルを手渡す。
彼女がそれを飲むのを見届けて、僕は車のキーを回す。
ちょうど30分をかけて丘に着くようにスピードを調整する。
運転中、睡眠不足の彼女は助手席で眠ってしまうので自身の変化には気付かない。
万が一夏海が眠らない時のために、車内にはラベンダーのアロマを焚いておいた。
ラベンダーの香りには睡眠薬に匹敵するほどの眠りを誘う効能がある。
問題は運転手の僕まで眠くなるということだが、その時は太ももに針でも刺して目を覚ませばいい。
あれ、でも針とかあったかな。
赤信号で車を止める。
予想通り、発車して数分で夏海は眠ってしまった。
僕は助手席の彼女を見る。
静かに寝息を立てながら眠る彼女はかわいい。
首がこくりこくりと動くのもかわいい。
……ああ、かわいいなあ。
ぼんやりとそう思いながら、僕はドアポケットに入っていたボールペンを握った。
***
「はー! ついたー!」
僕は大きな声を出して彼女を起こす。
ボールペンをドアポケットに戻して車を降りる。
「うわ、星すごっ!」
助手席から降りてきた夏海は空を見上げて驚く。
僕は「今日すごく晴れてたからねー」なんて適当に上を見ながら返した。
どうやら今回も成功のようだ。
彼女には、この雲に覆われた真っ黒な空が、満天の星空に見えているらしい。
「あ」
僕は声を出した。
彼女の視線をこちらに向けるためだ。
夏海がこちらを見なければ意味がない。
「なんか走りたくなってきた」
言って、僕は走り出した。
驚く彼女の声が背後から聞こえる。
野原の固い地面がダイレクトに足に響く。
太ももの痛みに一瞬よろめいた。
***
「ところで執筆は順調?」
「……いや、絶賛スランプ中」
「だと思った」
わかりきったことを改めて聞く自分に苦笑する。
「なんでわかるの」
「スランプ中の夏海は、眉間に一本しわが増えるから。あと目のクマもひどくなるし、カップ麺のゴミも増える」
「う……」
彼女は苦い表情をして言葉に詰まる。
「よく見てるなあ晴也は」
「よく見なくてもわかるよ。追い詰められたような顔してる」
「まあ、ね。締め切りは待ってくれないから。それまでに書かなきゃって」
段々と落ち込んでいく夏海。呼吸も少し荒い。
でも、ここまでが毎度のテンプレート。
夏海はいつも同じことで悩んでいて、そしていつも同じ疑問を空に投げる。
「書くことが好きで、書きたい、って始めた仕事のはずなのになあ。あの時の自分はどこ行っちゃったんだろう」
僕はその答えをもう知っていた。
「案外、裏側にでもいるんじゃない?」
口を開けたまま夜空を見上げる彼女を向く。
「多分、そんな簡単にいなくなったりしないんじゃないかな。そういう自分」
それは本音だった。
表も裏も、そんな簡単にいなくならないよな。
***
「ありがとね、誘ってくれて」
「急にどうしたの」
「家に引きこもってた私に気分転換させてくれたんでしょ?」
「……まあね」
にこにこと笑顔の彼女に、僕は小さく苦笑した。
「気分転換と、仮眠かな」
「仮眠? ……あ」
「帰りもゆっくり寝てていいからね」
「やば」
夏海はその細い腕で僕に抱き着く。
「大好き」
それは、僕がずっと聞きたかった一言。
……ああ、やっぱりかわいい。
僕だけを見て、僕だけに好きだと言う君は、本当にかわいい。
よかった、僕は夏海が大好きだ。
これでまた彼女を愛して生きていける。
「さ、じゃあ帰ろうか。夕飯もまだだし」
そう言った瞬間、ぽつり、と頬に何かが当たるのを感じた。
雨が降り始めたようだ。
「ねえ晴也」
「ん?」
夏海は僕の背後から、呂律のうまく回らない声で僕の名前を呼んだ。
「星、綺麗だね」
焦点の合わない目でこちらを見つめる彼女に、僕は微笑む。
「君の方が綺麗だよ」
***
――マジックマッシュルーム。
シロシベ・クベンシスを代表とする毒キノコの総称で、特に幻覚作用を引き起こすキノコがそう呼ばれる。
過去には合法麻薬として使用され、現在は違法だが手に入るルートはある。
夏海のウーロン茶に溶かしたのは、それを粉末状に砕いたものだ。
キノコが見せる幻覚は、多幸感を感じるものであることが多い。
固い地面が絨毯に思えたり、普段の景色が綺麗に見えたり、目の前の人物をとても愛おしく感じたりする。
ただしマジックマッシュルームの幻覚症状が発症するには少し時間がかかる。
経験上、空腹の夏海の場合はだいたい30分前後だ。
副作用はあるが、死に至るほどの毒ではない。
人によっては重いバッドトリップとなり投身自殺、というケースはあるが、直接毒で死んだ例はないはずだ。
そして夏海がバッドトリップをするタイプでないことは、これまでの五度にわたる服用で証明されていた。
***
僕は夏海を殺したいわけじゃない。
こちらを向いて、好きだと言ってほしいだけなんだ。
そうすれば僕も夏海をもっと愛することができる。
一方通行の愛ほど、空しいものはないからさ。
……気持ち、分かるよね?
リバーシブル・スターナイト 池田春哉 @ikedaharukana
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