リバーシブル・スターナイト
池田春哉
ある一面
「
ある日の夜、
「星を見に行こう」
「え、いつものあの丘?」
「そうそう。僕たちのとっておきの場所」
「今日流星群とかあったっけ」
「いや、知らないけど」
晴也は首を傾げた。
「そんなに星好きだっけ」
「まあ普通かな」
「じゃあなんで行くの」
「でも、星空って綺麗だなとは思うよ」
星を見に行く理由なんて、そんなもんで良くない?
彼はそう言った。
「……まあ、そうかも」
確かに、最近そういう気持ちになっていなかった。
いつから自分を動かすのに大仰な理由が必要になったんだろう。
二時間。二時間だけならなんとかなるか。
「……わかった」
「じゃあ行こう」
彼は右手に車のキーを、左手に私の手を取る。
手を引かれながら部屋の電気を消して、靴を履く。
扉を開けて、私たちは真っ黒な夜に入った。
***
「はー! ついたー!」
運転席から降りた晴也は両腕を上げて、大きく伸びをした。
開いたドアからラベンダーの香りが車外に漏れる。
車で30分の距離にある名前もない野原。
私たちがここに来るのは確か六度目だ。
細かいことは憶えていないが、いつもここに私たちは星を見に来ていた。
晴也が用意してくれていたウーロン茶をドアポケットに置いて助手席から出る。
道中ぐっすり眠っていた私は、急に現れた視界一面の星空に圧倒された。
「うわ、星すごっ!」
私は思わず声を出す。
あまりの美しさに、私は一気に幸せな気持ちになった。
「今日すごく晴れてたからねー」
彼は頭を垂直に上に向けて、空を見ながら笑った。
そっか、今日は晴れてたんだ。
「あ」
「ん?」
「なんか、走りたくなってきた」
晴也は急にそんなことを言ったかと思えば、一目散に走り出した。
「ええっ」
戸惑う私を置いてけぼりにして、彼はどんどん遠くなっていく。途中で一度だけ足をもつれさせて転びかける。
すっかり小さくなった彼は振り返り、楽しそうに両手を振って「おーい」と私を呼んだ。
湾曲した地平線に立つ両手を挙げた彼のシルエットは、地面に落ちた星に見えなくもなかった。
「早くおいで!」
「もー!」
寝起きのせいもあり、少し重たい体をふらつかせながら、私は彼のもとへ走った。
踏んだ草が柔らかい絨毯のように優しく私の足を圧し返してくれる。
「上、見て」
ようやく彼の下に辿り着いた私は乱れた息を整えて上を向く。
誰もいない原っぱの中心で見上げた降るような星空の、そのあまりの美しさに息を忘れた。
何がそう見せるんだろう。
どうして私は今、この星空から目が離せないんだろう。
「綺麗だね」
彼のその一言で、私はまた余計なことを考えてしまっていた自分に気付く。
何にでも理由を求めるのが癖になっている。
ただ、綺麗、でいいのに。
「うん、綺麗」
「君の方が綺麗だよ、とか言ったほうがいい?」
「せめて私の方を向いてから言いなさい」
「そりゃそうだ」
二人して夜空に釘付けになりながら笑った。
***
「星空って、神様が下界を覗くために夜空に針で穴を開けてできたんだって」
不意に、彼は言った。
「へえ。じゃあ、あの空の裏側には神様がいるの」
「そうだね。神様からしたらこっちが裏側かもしれないけど」
どっちが表で裏なのか分かんなくなる時あるよね。
リバーシブルなのかな、と晴也は言った。
「ところで執筆は順調?」
「……いや、絶賛スランプ中」
私は月間雑誌に定期連載している短編小説家だ。
ただ最近は、筆が重い。
書かなきゃいけないのに、手が動かない。
「だと思った」
彼の横顔は笑った。
「なんでわかるの」
「スランプ中の夏海は、眉間に一本しわが増えるから」
晴也は自分の眉間を人差し指で示す。
「あと目のクマもひどくなるし、カップ麺のゴミも増える」
「う……」
彼の言う通りだ。
何も思いつかない時、何も書けない時がある。
でも変わらず時間は進んでいく。
そんな時が一番焦るんだ。
ご飯とか、睡眠とか、そんなことに使ってる時間が惜しい。
一秒でも多く、一文字でも多く、考えないと。
「よく見てるなあ晴也は」
「よく見なくてもわかるよ。追い詰められたような顔してる」
「まあ、ね。締め切りは待ってくれないから。それまでに書かなきゃって」
自分で言って気が付いた。
――書かなきゃ。書かなきゃ。
いつからそう思うようになってしまったんだろう。
「書くことが好きで、書きたい、って始めた仕事のはずなのになあ。あの時の自分はどこ行っちゃったんだろう」
自分の中の疑問を夜空に吐き出す。
その言葉は星になる前に、彼に吸い込まれた。
「案外、裏側にでもいるんじゃない?」
彼は私を向いて言った。
「多分、そんな簡単にいなくなったりしないんじゃないかな。そういう自分」
「……そう、かな」
そうだったらいいな、と思った。
昔のそんな自分はどこかに行ってしまったんじゃなくて、裏で見守ってくれてるんだとしたら。
今の自分も、もう少しだけ頑張れる気がしてくるから。
「ありがとね、誘ってくれて」
「急にどうしたの」
「家に引きこもってた私に気分転換させてくれたんでしょ?」
それを聞いた彼は小さく苦笑して「まあね」と言った。
「気分転換と、仮眠かな」
「仮眠? ……あ」
私は声に出してから、心当たりに気付いた。
「帰りもゆっくり寝てていいからね」
「やば。大好き」
想いが溢れて思わず抱き着くと、彼は嬉しそうに笑った。
***
彼から腕を離してもう一度空を見る。
ちかちかと星が瞬き、まるで私たち二人を祝福してくれているようだ。
そういえば、星が降るような、とは誰が言ったんだろう。
そんなことを思った瞬間に、ふと内から湧き上がる感情に気付いた。
――書きたい。
特別な理由はない。
ただ、書きたくなった。
満天の星空。柔らかい草原。ぬるい夜風。目の前の、愛しの彼。
それら全てを文字で表現したらどれだけ美しい物語になるだろう。
本当に晴也の言う通りだなあ。
こんなに近くにいたんだね、私。
「さ、じゃあ帰ろうか。夕飯もまだだし」
そう言って彼は車に向かって歩き出す。
私がそれを追いかけようとすると、頬に何かが当たった。
よく見ると、ぽつりぽつりと星が降ってきていた。
「ねえ晴也」
「ん?」
先を行く後ろ姿に呼び掛けると、晴也は振り向いた。
「星、綺麗だね」
そう言うと、彼はこちらを見て「君の方が綺麗だよ」と言った。
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