コンパニェーロ

深川夏眠

compañero


 吾輩は路傍で保護された白猫である。この家での名前はブランコ。ふらここではない。スペイン語のブランコのネーミングによる。これまで人間どもからいくつの違う名で呼ばれてきたろうか。いつ頃だったか覚えていないが、ある時点から年を取らなくなったので、不審に思われないよう、住人に不満がなくても、そっと立ち去っては別の場所に落ち着くことを繰り返している。現在の飼い主はばあさまと彼女の娘とその夫、そして、孫が一人だが、吾輩はばあさまにしか気を許しておらず、他の三人には決して愛想を振り撒かない主義だ。

「ブラちゃんや、セニョール・ブランコ。お洗濯を始めたから、簡単にお掃除してしまおうね」

 娘夫婦と孫が出かけた後のルーティーン。ばあさまと吾輩は手早く午前の家事を済ませ、後はのんびり音楽を聴きながらお茶を飲んだり、夕餉のための食材が届くのを待ったりしつつ、ゲームなぞを楽しむ優雅な暮らしを送っている。今朝、吾輩はダイニングテーブルに広げた新聞のクロスワードパズルが気になって首っきだったが、筆記具を握れる手ではないので難渋していた。取りあえず、ばあさま愛用のタブレットを借りてメモを取る。タッチキーボードを肉球でするのは得意だが、如何いかんせん誤変換や脱字、衍字、はたまた無駄なスペースが多くなるのが悩みの種。

 リビングのソファに収まったばあさまは読みかけの本に栞を挟み、

「調子はどう? ブラちゃん」

「ニァ」

 猫の発声器官は人語を操るのに適していない。時折、意図したとおりの言葉を相手に聞き取らせるのも可能だが、文字を使って意思の疎通を図った方が手っ取り早い。……。ばあさまが声に出して読み上げる。

「横のカギ8。スペインの人気女性ポップス歌手、マドリード出身。あの人かな。でも、数が合わないわね。縦はどう? どれどれ、インド神話に登場する甘露、不死をもたらす……」

 それはアムリタだな。

「そんなこと本当にあるのかしら」

 呟きながら、ばあさまは吾輩が指示したマスにボールペンでカタカナを書き入れた。吾輩はキーボードを素早くして、死なないかどうかはともかく、長生きのために新陳代謝を遅らせようと人工冬眠を実践する人間の話があったではないかと入力した。ついでに、そのエピソードを紹介していた本の情報も表示してやった。

 ばあさまはフフフと笑って、

「そう、眠ってしまえばね。案外寿命が延びるかもしれない」

 ばあさま、手術のとき麻酔のせいで随分長く寝ていたんだろ。

「まさか、あれがきっかけだったなんて……」

 ばあさまは十五年ほど前に外科手術を受けた後、外見がサッパリ老けなくなったという。鏡を見てそう感じるだけで、他人は確実に老いを嗅ぎ取っているはずだと、最初は常識的に考えたけれども、髪や肌の具合からして、自分だけ時間の流れから取り残されたのではないかと不安を覚えるに至ったそうな。以来、カラーリングでいわゆるグレイヘアをキープして、周囲に不自然さを覚えさせないよう配慮しているとか。

「もっと若いうちだったらよかったのに、変なところで老化が止まっちゃって、この先どうすりゃいいのよね」

 いいや、小娘のまま外見が固定しちまう方がずっと厄介だと思うぜ。ともあれ、吾輩も不老長寿。仲良くやろうよ、ばあさま。何なら程々のタイミングで、この家を出たっていい。

「ありがとう。コーヒーでも淹れようか。本当は猫にカフェイン与えちゃいけないんだけど。ブラちゃんは普通のと違うから」

 そうともさ。

「カフェラテね。クリーマーでミルクをフワフワにしてあげましょう」

 かたじけない。あ、そうだ、ばあさま、さっきの答え。文字数がマッチしないのはなかぐろのせいだろう。西洋人の名前ったってパズルなんだから、あれは考慮しなくていいんだぞ。なあなあ。

 そのとき、吾輩は玄関に接近する足音を聞き取った。集金人やメンテナンス業者に成り済ました強盗ではあるまいな。気をつけろ、ばあさま。

 ピンポーン。チャイムが鳴った。ばあさまは慎重にモニタ付きインターホンで応対した。

「あら!」

 知り合いか。しかも久方ぶりの対面と見た。のっそりと現れたのは、長身のだった。

きょういちろうさん、お久しぶり。あれから何年経ったかしら。お元気でした?」

「途中ちょっとした問題もありましたが、今はこのとおりです」

 じいさまは痩せ型だが、若い頃に鍛えた肉体を老齢になっても維持している風で、タイプといったところ。髪はフサフサで白銀に光っており、きれいに整えた同じ色の口髭に風格が備わっている。吾輩はこっそりキーボードをしてを漢字変換してみたのだが、これで合っているだろう。

「猫とお留守番ですか」

「はい。お気兼ねなく」

「お昼にいかがかと思いまして」

「ご馳走になります」

 ばあさまは土産を受け取り、キッチンへ。じいさまは吾輩の専有スペースであるタルト型クッションの横に腰掛けたが、眼鏡のブリッジに指を当て、吾輩と新聞紙を不審げに見比べると、何やら不明瞭な独り言を漏らした。

「お待たせ」

 小洒落たサンドウィッチの群れ。美味そうだが、吾輩には手の出しづらい、厄介な代物だ。しかし、ばあさまは嬉しそうに皿を並べ、じいさまにコーヒーを勧めるのだった。

「ごめんブラちゃん、ミルクを温めなくちゃね……」

 いつもみたいにあしつきフードボウルの真ん中にカフェオレばちを置いてくれるつもりだろうけど、いいよ、ばあさま、来客中なんだから、手を抜いて。

「これは失礼。お名前は?」

「ブランコといいますの」

「なるほど、きれいな白猫だ」

 じいさまは膝の上に優雅にハンカチを広げ、サンドウィッチを一切れ摘んでパンを外すと、フライドフィッシュをほぐして吾輩を招き寄せた。気が利くな。褒めてつかわす。

「ニァーゥ」

「どういたしまして」

 吾輩は礼儀として、束の間、客にを撫でさせてやった。その様子を、ばあさまは、こちらが息苦しくなりそうなほど切なげな眼差しで見つめていた。

すみれさんは、いつもこんな感じですか。平日の過ごし方」

「そう。のんびりしたもので。本を読んだり、お裁縫したり、チェスも好きです」

 ばあさまの胸奥で昔日の恋の燃えさしに火が点いたと見える。それを相手に悟られまいとして多弁になりかかっている。

「チェスを? この猫と?」

「ええ。今日ブランコはクロスワードパズルに夢中で、全然気が向かないみたいだけど」

 じいさまは吾輩の背筋に指を滑らせ、まなこを覗き込んできた。

「菫さんのコンニェーロか。かな、セニョール。わたしは以前、バックギャモンの得意な猫を知っていましたよ」

「猫が? バックギャモン?」

「ハハハ」

 それから二人はポツポツと、仕事上のパートナー時代の思い出を取り上げて懐旧に耽った。途中でばあさまはハタと顔色を変えて、

「いけない、馨一郎さんは紅茶党だったわね。今、お湯を……」

「ああ、いいんです。座っていてください。それにしても、菫さんは昔と全然変わらない」

「いいえ、すっかりおばあちゃんになりました。頭なんか、灰を被った鼠みたいだし」

「人は対面した相手が年を取っているかどうかを髪の状態で判断しがちですね。毛量が多いか少ないか、はたまた黒いか白いかで」

 ばあさまが微かにギクッを肩を竦めるのがわかった。

「その点、セニョールはいいな。白猫さんは、ずっと真っ白だ」

 まあね。

「きれいですよ、菫さん。あの頃と一緒だ」

 ばあさまは照れてモジモジしていたが、吾輩同様、じいさまがたまたま近くを通りかかって立ち寄ったわけではなく、止まった時計のネジを巻いて関係を修復しようという明確な意志を持って現れたのだと、気づいたらしかった。

「馨一郎さんも……そのままなんですね」

「菫さんに会えなくなってドッと老け込みましたが、十年前にちょっとした手術を受けたら、幾分若返ったみたいで、以来、あまり変化はない」

「奇遇……」

 白状するが、吾輩は以前、徒然なるままに日記を綴らんとしてタブレットを触り、ばあさまの備忘録を覗いてしまったのだ。よって、馨一郎という名のじいさまが、ばあさまが早くに夫を亡くしてから始めた仕事のコンパニェーロだったとか、じいさまも伴侶と死別していて、二人は恋仲と言っていい間柄だったのだが、諸事情が許さず再婚に至らないで破局しただとかは、とうに承知していた。じいさまは本日、満を持してのご登場だと思うが……ええと、六曜は…………おいおい、仏滅じゃないか。いや、待てよ、「仏滅は〈物滅〉でもあり、物が一旦滅んで新規に始まるという解釈から、新しいことを始めるに吉との説もあり」云々。ふむ。どうなんだ、じいさま?

 菫と馨一郎が熱い眼差しで、ほとんどを交わすに等しい空気の中、視線のやり場に困った吾輩はパズルの続きに取りかかろうかと思ったが、その瞬間、無粋な着信音が鳴り響いた。

「ちょっと失礼」

 ばあさまは立ち上がって固定電話の応対。吾輩は機を逃すまじとダイニングテーブルに飛び乗った。じいさまが釣られて近寄ってきたので、素早くタブレットのキーをして用件を伝えた。じいさまは呆気に取られた様子でポカンと口を開けていたが、文面に目を通して頷き、意を決したように拳を握った。いいぞ、行け!

「ごめんなさい、大した話じゃないのに長くなって」

 ばあさまが戻ってくると、じいさまは咳払いをして、

「すみません、急用ができまして。おいとまいたします」

「えっ……」

 ばあさまは約束を反故にされた幼子のように、悲しみと落胆の色を湛えた瞳を見開いて潤ませた。

「申し訳ない。また、すぐ寄らせてもらいます」

 ばあさまは、じいさまの袖を引いて押しとどめそうな気振りを示したが、グッと自制したらしかった。

「お気をつけて。いつでもお待ちしています」

「はい」

 じいさまが出て行くと、ばあさまは疲れ切った様子でとソファに身を沈め、深い溜め息をついた。

「どうしてこうなのかしら、あたしって。昔もそうだった。つい物分かりのいい女を演じて、大切な人を取り逃がしてしまうのよ。後で泣いたって、しょうがないのに……」

 ごめんな、ばあさま、ちょいと刺激が強すぎたか。まあ、いいだろう。自分の本心を再確認できたんだから。これからは嘘もごまかしもナシだぜ。

 吾輩はソファの背凭れの縁に飛び乗り、ばあさまの肩をさすって慰めてやった。ややあって、彼女はティッシュペーパーを引っ張り出し、思うさま鼻をかんだ。それから無理に笑顔を取り繕って、

「そうだ、カフェラテ。ミルクを……」

 いいから、ちょっと読め。吾輩はまた急いでテーブルに上ってした。大事なことを言い忘れていたが、馨一郎は何代か前の飼い主だったのさ。ヤツはさっきブランコを遊具と誤認せず、すぐさま吾輩の毛色のブランコだと理解したろう。もっとも、当時はドイツ語でヴァイスと呼ばれていたがな。

「それじゃあブラちゃん、バックギャモンも強かったの?」

 ツッコミどころはそこじゃないだろう、ばあさまよ。

「今度も長いお別れになるんだったら、馨一郎さんの好きなお茶を淹れてあげればよかったわ。ブラちゃん、気づいてた? ウチにある紅茶が、あの人の愛飲する銘柄だって……」

 もちろん承知。吾輩も嗜みますぜ。

「シロニバリ。あれを淹れましょう。ミルクも用意して」

 うん。白磁のポットで、たっぷりな。カップは三つだ。そろそろカウントダウンを始めようか。いや、話しながらだと間違えやすいから、砂時計を使おう。五分計があったろう。そう、それ。

 さて、ここから先はサプライズのため、ばあさまには教えまい。吾輩は先ほど、じいさまに一世一代の勝負に出ろと指示してやった。そこの商店街の花屋へ行って引き返してこいってな。じいさまは別れ際に言ったろう「アスタ・プロント」って。そろそろ帰ってくるはず。白バラ十二本の花束を抱えて。花言葉は「わたしはあなたに相応しい」、本数の意味は「妻になってください」だ。ああ、早足で歩く姿が瞼に浮かぶ。少々息切れもして、時々、轟く胸を手で押さえて。衣擦れのみならず、ラッピングペーパーとリボンが触れ合う音もカサコソ聞こえる気がする。

 少しだけ心配なのは、意気投合した二人の眼中から吾輩が弾き出されてしまわないかってこと。新生活をどこで始めようと、同じ不老の仲間として、このヒゲの生えたキューピッドを末永く傍に置いてもらいたいのだが、いかがかね?



              compañero【el fin】


                         *2020年10月 書き下ろし。

   **縦書き版は2021年3月作成。Romancerにて無料でお読みいただけます。

         https://romancer.voyager.co.jp/?p=176632&post_type=rmcposts


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