12

 ばたばたと大きな足音が聞こえてきたが、私は顔を上げなかった。その荒々しさに、何となく次の展開が予想できたからだ。

「レイン! お前、執務室にまで女連れ込むなんて、どういう了見……って?」

 けたたましく開けられた扉と付随した怒鳴り声は、その勢いを突如失った。私は予想通りすぎる展開にゆっくりと顔を上げる。

 レインの執務室に飛び込んできたのは、立派な体格の男性。年は三十代の前半だろうか、レインを呼び捨てにしたり何のためらいもなくこの部屋に入ってくるところを見れば、どこかの家の当主かもしれない。

 彼がどんな誤解をしたのかは考えるまでもないが、私もレインも動じない。私たちに何らやましいところがないのは一目瞭然だ。

 なぜならレインも私も、執務室にあるそれぞれの机に向かって仕事をしていたからだ。

 この情景を見ても「仕事場にまで女を連れ込んでお楽しみ中」だと思う奴がいたら、頭の中が妄想で沸いているだろう。

「ロジャー、今の自分の発言に対し弁解や謝罪の意志があれば、今だけは聞いてやる。ただし、俺じゃなくジュリアに言え」

 淡々とした、だが底冷えのする声が響いた。レインは声を荒らげない時の方が怖いということは、付き合いの浅い私ですら察している。一族の者だろうこの男が、それを知らないはずもないだろう。

「あの、これは」

 狼狽する男の様子に冷たい視線を投げてから、レインはかたわらの私を見た。

「無礼極まりない誤解をしたこいつに、お前から何か言いたいことはないか?」

「別に何も。お二人で話があるなら、私は外します。だけどその前に報告だけ」

 私は自分の机から立ち上がると、先ほどまで取りかかっていた書類をまとめて、レインの机まで持っていった。

「こっちの要請文の清書、下書き通りだと言葉が硬くて威圧的な感じがすると思ったから、私の独断で少し柔らかくしてみた。もし前のままがいいのなら、やり直すから言って。それとこの間見せてもらった新造艦の報告書、資金調達の流れが凄く判りづらかったんで表で整理した。文章のままよりは、把握しやすいと思う」

「どう考えても、俺よりお前の方がまともな文章が書ける。そのままでいい。出納表は助かる。できれば他のもまとめてくれるとありがたい」

「じゃあ後で、急ぐところから指示して。優先的に片づけるから」

 それでは、と席を外そうとした私に、男性は「待ってください」と声をあげた。そして深々と頭を下げる。

「下世話な誤解をしてしまって、申し訳ない。許していただけませんか」

「当然の誤解です。どうせシェイラが『兄様なら姉様と執務室でご一緒してます。お二人の邪魔しちゃ駄目ですよ?』とか言ったのでしょう?」

「……よくご存知で」

「あなたが初めてではありませんから」

 この数日、そうやってシェイラは遊んでいるのだ。これに引っかかり、この執務室に怒鳴り込んできたり冷やかしに来たりした者は一人や二人ではない。

 確かにシェイラの言葉に、嘘も間違いもない。だがわざと誤解を招くような言い方をするのは、意地が悪いのか彼女が一族の者たちを試そうとしているのか、私には判別がつかない。最初は気にも障ったが、ここまで来るとさすがに慣れた。

「見ての通り、俺の仕事を手伝ってもらっている。いやもう、ありがたくて涙が出るくらい使える秘書だぞ」

 手放しの賛辞に、レインがどれほど自分の仕事に辟易していたのかが実感できた。

 私がレインの仕事の手伝うようになったきっかけは、ささいなことだった。モス家の夕食は基本的にレインとシェイラ、そしてすっかり客分で落ち着いてしまった私の三人で摂っている。その日の献立に合うワインを選ぶことも私の仕事になってしまったのだが、全ての用意が整う時刻になってもレインが食卓に現れない。執務室に様子を見に行くと、当の本人は据えつけてある大きな机で、ペンを片手に頭を押さえていた。

「……ジュリアか、どうした……って、ああもう夕飯の時間か」

 がりがりと苛立たしげに頭を掻き、レインはペンを置いた。

「このままじゃ煮詰まるだけだな。先に飯食うか」

「何か難しい案件でも?」

「いいや、俺が単に事務仕事に向いていないだけの話だ」

 深いため息をもらし、レインは私に一枚の紙片を示した。そこには彼が書きなぐったであろう文章が綴られている。その字は、お世辞にも綺麗とは言えない。

「なんでこんなに、やってもやっても終わらないんだ。確かに総領である俺が決済し、承認しなきゃならないものがあるのは当然だが、総領というのは一族の代表であって、事務屋じゃねえと思うんだがな……」

 その文面から、彼が頭を悩ませていたのが、都市防衛団とレーゲンスベルグの間の契約書だと察した。契約条項の変更点についての記述が、言葉を換えて幾つも並んでいる。おそらくは条項についての表現で、彼は悩んでいたに違いない。

 私は紙面を取り上げ、しばし考える。そして隙間に一文を書き込んだ。

「……こんなのはどう?」

 レインは私の文章をしばらく凝視すると、不意に笑った。それはこれまで見てきた冷徹な表情を思えば、驚くほど愛嬌を含んだものだった。

「ああ、そうか、こう書けばいいのか。……どうしてこういう文章、思いつかないかな、俺は」

「それは今自分で言ったじゃない、向き不向きだって。剣に才能があるように、文にだって才能ってものがあるでしょう。あなたは剣才の上に、文才まで欲しいって言うの?」

 六対四で自分には敵わない、とヴァルトに評されたレインであったが、彼らの手合わせを見て私は息を呑んだ。その二人があまりにもずば抜けていることは、素人目にも明らかだったからだ。

 レインは死に物狂いで努力したんだよ? そんな私にヴァルトは笑って言ったが、努力だけでこの境地に達せられるとはとても私には思えなかった。だからこその発言に、レインは苦笑する。

「まあ、な。身につけられるものなら、欲しい」

「そのために時間を割いて、延々苦労するより、秘書の一人も雇った方がいいのではないの? そりゃあなたでなければ判らないこともできないこともあるでしょうし、機密もあるのでしょうけど、信頼できる相手ならば」

 私の言葉に、レインはふと私の眼を凝視した。黒い瞳が私の緑の目をひたと見つめてやがて。

 まるで悪戯を思いついた子どものように、笑う。

「じゃあ、お前がやれ」

「え?」

「延々恩が返せないだの居候だのと気にするくらいなら、働け」

「だけどあなたは」

 その時私の口をついて出たのは、一番心の底にある疑念。

「あなたは私を、信用するの?」

 問いかけに、レインは私から目をそらさない。むしろ挑みかかるように、瞳は強さを増す。

「お前は今ここで、機密を持って商売敵に走るような恩知らずなのか?」

「冗談じゃないわ!」

 思わずかっとして、私はレインを怒鳴りつけた。どれほど私が彼らに疑念を抱こうと、たとえ彼らがこの先私を裏切ろうとも、それで私と彼らが袂を分かつことになったとしても、それでも私から彼らを裏切ることはしたくない。

 彼が私を、あの窮地から救ってくれたことには変わりないのだから。

 あの時彼が助けてくれなければ、私は今頃娼館に繋がれて、体を売らされていたのだろうから。

「じゃあ、決まりだ」

 何となく釈然としない思いを抱えながらも、そうして私はレインの秘書をすることになった。彼の執務室のかたわらに自分の机をもらい、様々な雑務を預けられて、そして今日に至る。

「ロジャー・ローレットと申します。ローレット家の当主として、レーゲンスベルグ傭兵団の団長を務めてさせていただいております。あなたの噂は傭兵団の下の者たちから伝え聞いておりましたが、いや、その……お美しいだけではないとは、レインも本当隅に置けないというか、女の見る目だけは確かだというかその」

「ジュリア・シュパリスホープです。奇縁でこの館の皆様にお世話になっています、が、あの。私は別にレインとそういう関係ではなくて……」

「ロジャー、お前、会議前に俺に話があって来たんじゃないのか? それとも俺を説教するためだけに来たのか? どっちなんだ」

 私とロジャーの会話に割り込んで、レインは声を荒らげた。話の成り行きが都合が悪かったのか、そうではなかったのかは判らないが、その怒声にロジャーは手にしていた書簡をレインの机の上に置いた。

 封蝋に押された紋章に、レインの顔色が変わる。そしてその紋章は私でも判るほど有名なものだ。

 その紋章に押された文書が、レーゲンスベルグ傭兵団団長の元に届いたということの意味は、おそらく。

「オフィシナリス王家から、ローレットにということは」

「傭兵団への依頼と見るのが妥当だろう。だが、今オフィシナリスが傭兵を集める理由といったら」

「ブールソールからも依頼が来てる。もしかしたら、かち合ったか」

 レインはもどかしくナイフで封を切ると、文書を広げた。その真剣な顔つきが、さらに曇る。

「まずい、オフィシナリス語で依頼書書いてきやがった。俺でも読めないことはないが、正確には訳せないな」

「じゃあ早いところ、通訳に連絡して――」

「それが駄目なんだ。じいさん、腰痛で寝込んでるらしい。とてもここまで来れないだろう」

 文書に視線を落とし、レインはしばし考え込んだが、やがて不意に私を見る。

「ジュリア、お前、オフィシナリス語読めないか?」

「え?」

 それは藪から棒だ。傍から見れば、あまりにも突然な問いかけだろう。だが私は、心臓が跳ねる音を聞いた。

「どうして、そんなことを聞くの?」

「お前ほど教養のある女なら、外国語も話せるだろうと踏んだだけだ。お前アルバ語以外に、何ができる?」

 嘘をつくべきか否か、私はその瞬間迷った。だが嘘をつけば、あの黒い眼に見透かされそうで、それが怖くて、私は結果正直に答える。

「オフィシナリス語とフェディタ語。あと日常の会話をする程度なら、センティフォリア語とノアゼット語と……ガルテンツァウバー語」

 私はアルバの第一王女として、他国の王族に嫁ぐことを前提として育てられた。そして第一王位継承者としてほぼ確定となった時点でも、他国の皇子を婿として迎えることが想定された。だから私は、どんな言葉を話す相手と結婚しても困らぬよう、様々な国の言語を教えられて育った。

 その中でも、アルバ語と並ぶ大陸公用語であるオフィシナリス語は、みっちりと仕込まれた。だから今、オフィシナリス王家からの文書を訳しろ、と言われたら、おそらくやりこなせるだろう。

 だが。どうしてレインは、私がオフィシナリス語を話せるだろうと思ったのだろう。

 考えられるのは、シュパリスホープがオフィシナリス貴族であるということを、レインが知っているということだ。その可能性は低くない――レインが二年前まで航海に出ていたというのならば、オフィシナリスに行ったこともあるだろう。他国の貴族や王族に明るくても、何の不思議もない。

 けれども、本当にそれだけか。それだけ、なのだろうか。

「なら決まりだ。これからすぐ当主会議が始まる。その場でこれを訳してくれ」

「ちょっと待って。それは私にも、会議に参加しろということなの」

 部外者の私を、一族で最も重要な会議に立ち入らせていいのか。その言外の問いをレインは判っているだろうに、こう答える。

「あと、茶の用意もしといてくれ」

「レイン!」

 私と同じ思いだろうロジャーが上げた声に、レインは執務室を出ていきかけながら、こう言い放った。

「俺はこいつを信じている。だからお前も信じろ」

 それは有無も言わさぬ言葉だった。一族の総領の言葉に、ロジャーは反論を持たない。そうして私ははからずも、当主会議の場に足を踏み入れることになる。

 オフィシナリスからの文書は、やはりレーゲンスベルグ傭兵団の派遣要請だった。雇用条件を私が読み上げると、居並んだ面子の顔つきが険しくなる。

 そんな座に、レインが円卓の一席からもう一枚の文書を示した。

「それでここに、ブールソールからの派遣要請書がある。今オフィシナリスとブールソールは、フィリペス鉱山の採掘と帰属を巡って争っている最中だ」

「おそらくブールソールが事をしかけようとしていて、それをオフィシナリスが察したというところでしょう」

「だとしても、揃いも揃ってうちに話を持ってこなくてもいいのに」

「まったくだ」

 ため息と同意がこぼれ落ちた。レインは二枚の要請書を並べると、問いかける。

「この条件ならば、双方ほとんど差はない。そしてこの程度なら、今の傭兵団の規模ならさもない依頼だ。正直どっちを受けてもいい。……だが、どちらを受ける?」

 その問いかけは、簡単にして難問だった。ブールソール、オフィシナリスとも決め手に欠けることは、私の眼にも明らかだ。どっちでもいいという事態は、かえって決断力を要する。

「今回受けなかった国は、しばらく敵に回すことになりますね」

「とはいっても、この程度ならば、ブールソールもオフィシナリスも全面衝突したいということではありますまい。ただの小競り合いで終わるでしょう」

「だが、要請を拒んで敵対したという事実には変わりはない。我々が拒んだ方が負ければ、恨みを買うのは必定だろう」

「じゃあ、依頼を蹴った方にわざと負ければいいってか? んなアホな」

 議論は平行線を辿る。人数分の茶を淹れ終えた私は、黙って会議室を外そうとした。書類の翻訳は終わったし、茶汲みも終わった。これ以上私にすることもないし、立ち入る必要もないだろう。そう思ったのに。

 そっと出ていこうとした私を、レインが留める。

「ちょっと待て、ジュリア。出ていっていいとは言ってないぞ」

「これ以上、私がいていいとは思えないのだけれども。もしオフィシナリス語の文書を作らなければならなくなったら、呼んでください。すぐ来るから」

「お前の意見が聞きたい」

「……え?」

「お前が俺の立場だったら、どうする?」

 レインの言葉に、場がざわめいた。当惑と非難を織りまぜて上がるその声にも動ぜず、レインは私は見つめる。

「どうして、私にそんなことを?」

「お前は人の上に立つべく育てられた人間だろう? 下手すりゃ、俺よりずっと沢山の人間の命と人生を背負って立つようにな。そんなお前なら、どう判断するか聞かせろ」

 私はその瞬間、確信を抱いた。彼自身が違うと断定しておきながらも、もうそうとしか言いようがない。そう考えなければ、納得がいかない。

 レインは、私のことを、オフェリアだと思っている。

 アルバ王国の王太女、オフェリア・ロクサーヌだと。

 私は鎌をかけられているのだろうか。一族の者以外には危険すぎる赤薔薇園を見せられたのも、王家の人間――このアルバで唯一、赤薔薇を見慣れた人間であるかどうかを試すためだったのだろうか。

 彼は城にいるオフェリアが偽物で、ここにいる私が本物だと、そう考えているのだろうか。

 判らない。判らないけれども、一つ、どうしても不思議でならないことがある。

 最初から不思議でしょうがなかったことが。

 どうしてレインも、シェイラも、私を助けた後、私に帰るところがあるかと聞こうともしなかったのだろう。

 それを確かめもせず、当然のようにこの家に居続けることにしてしまったのだろう。

 それは彼らが、私に帰るところがどこにもないことを、最初から知っていたからではないのか。

 それは私が、偽王女とすり替えられてしまった存在だと、彼らが思っているからだろうか。あの謎の手紙が示唆した陰謀が、実行されてしまっていると思っているからなのだろうか。

 そうだと思えば、彼らの言動が納得できるところもあるのだが、しかし。

 まずは、この場を、どうする?

「私とて分は弁えているつもりです」

 責任をさりげなく転嫁するように、私は円卓の一同を見渡す。

「私のように得体の知れない女が、このような大事な席で発言するということを、皆様がご不快に感じないはずがないでしょう。違いますか?」

「私は聞いてみたいけどな」

 座から上がったのは、まだ若い声。その声の主は、柔らかな笑顔を私に見せて言った。

「コモン・モスと申します。レインの従兄弟で、代わりに武装船団を預かっています。今日は船団が帰港していたので、当主ではありませんが責任者の一人として、この場に参加させてもらっています」

「……初めまして」

「レインは見かけ以上には思慮もあるし、一族に対して責任感を持っている男ですから、この場にあなたを招いたことも、あなたに意見を求めることも、故のないことではないでしょう。舎弟の一人として、兄貴分の企みに乗せていただきたいところなんですが」

「見かけ以上にってのが余計なんだよ、コモン」

 ぼそりと漏らした苦みばしった言葉は、私に笑いをもたらしはしない。そしてコモンの言葉は、私の狙った座の反発を鎮めてしまった。逃げ場をなくした私は、小さくため息をついてレインに問いかける。

「女の浅知恵、部外者の無責任な言いぐさって、怒らないでよ」

「当然だ」

 私はため息を重ね、意を決して口を開いた。

「ブールソールとオフィシナリス、どちらの依頼を受けても、どちらかを裏切ることになる。そしてその裏切りを隠すことはできない――片方の依頼を受けたことを、片方に知られずにすむ方法はない。だとしたら、まず最も消極的な選択肢は、双方から依頼があったことを隠して、双方ともに断ること」

「ああ」

「でもこの選択肢では、面倒は避けられるけど、得られるものは何もない。だからもう少し積極的な選択肢としては、双方から依頼があったことを表沙汰にして、双方を断る手もある。どちらとも対等でいたいので、今回はどちらの味方もしないと宣言して、ささやかな恩を双方に売る手もある。ささやかな反感を買われる可能性もあるけれども」

 私の提案に、座の気配は同意を示した。ここまでの選択肢は誰にでも思いつくし、妥当なものだ。

 レインが要求しているのは、おそらくこの先だ。積極的にどちらかに加担するならば、どうするか。

「双方の依頼を受けることは、同士討ちになるから、選択肢としては決してあり得ないのよね? だとしたら、最後の選択肢はどちらかの要請に応じること、その決定をどうするかということになる。……一つの手は、双方から依頼があったことを双方に明かし、報酬なり見返りなりを吊り上げてきた方と契約する」

「あこぎだな」

「でも定石でしょう。そうでなければ、こちらから欲しいものを要求する。今回、相手国との断絶を覚悟して貴国の依頼を受けるのだから、相応の見返りを要求する、と」

「でもそれは、ささやかどころでなく反感を買うな」

「ええ。だからあまり大きなものを要求しない。最低限、恩が売れればそれでいい。レインはオフィシナリスとブールソール、どっちに恩を売っておきたい?」

 私の問いかけに、レインは即答した。

「俺ならオフィシナリスだ。貿易船団も武装船団も、ブールソールよりオフィシナリスに寄港する回数が多い。どっちかの港が使えなくなるとしたら、オフィシナリスを取る」

「そのことを楯に、寄港時の融通をはかってもらうという手もあるし、オフィシナリスなら……ああ、そうだ。レイン、貿易船団は当然東と――ヘルモーサとやり取りしているわよね。その時リンドリー運河って、使っている?」

 オフィシナリスが開発・管理しているリンドリー運河を通れば、東のヘルモーサやオドラータへの海路がぐっと短縮される。だがそこを現実使っているのは、オフィシナリスの船だけのはずだ。

 そして、その理由は単純。

「あんな馬鹿高い通航料取るところなんか、使えるわけないだろう」

「そうだと思った。それで、今回ブールソールの依頼を蹴ってオフィシナリスに加勢する見返りに、リンドリー運河の通航料を、一族の所蔵する全船で永続的にまけてもらう、というのはどう?」

 私の提案に、座がざわついた。レインは私の提案に、即座に反応する。

「この程度の依頼で、タダは無理だろ」

「だったらブールソールに走ります、と脅しをかけるのも手だし、二割引くらいならいけない?」

「二割では、短縮される日数にかかる費用と、通行料の釣り合いが取れないだろう」

 発言したのは、恰幅のよい四十代の男性。この座においては、年長者だろう。

「貿易船団の代表、ヘイワードだ。お嬢さん、あなたの提案は面白いが、二割引かれてもまだ通航料の方が高いだろう。計算をしてみないと確かではないが、おそらく」

「恐れ入ります、ヘイワードさん。レーゲンスベルグからヘルモーサまで、リンドリー運河を使えば、現在の外回り航路よりどれくらいの日数短縮できますか?」

 ヘイワードと名乗った当主の言葉にも、私は動じない。その皮算用は、もう私の頭の中でもできていた。

「片道五日、といったところでしょうか」

「往復で十日あれば、もう一回近場の航海に出られるんじゃないかしら。近すぎて、海路が築かれていない国へ」

「……といいますと?」

「たとえばミリフィカ辺りなら、片道五日で行けるでしょう? あそこはアルバと中央陸路でつながっているし、海運も強くないから、基本的に交易は陸運です。でも陸運では量が運べないから、あそこの生産物は大量に外国に出てこないし、東のものも入りにくくて相場が上がっているのが現状のはず」

 話が飛んだ、と一同は思ったかもしれない。だが私の中では、全ては一本の線でつながっている。

「ミリフィカまで赴いて直接仕入れるのであれば、単価はアルバ国内で同じものを求めるよりずっと抑えられるはず。――綿織物工場、持ってる方いらっしゃいましたよね? 帳簿で拝見しました。ミリフィカの綿花、質としてはヘルモーサのものと遜色ないと思いますよ。この家の貿易船団の積載量を考えれば、大量に買いつけて輸送することも可能のはず。ヘルモーサから運ぶより安く上がるんじゃないかしら」

「五日余った分を使って、ミリフィカとの定期航路を築けって言うんだな。だとしたら、こっちから船を空にして行くのは馬鹿だ。当然、ミリフィカに売りつける荷も積んでくつもりなんだろう? 何だ」

 一番早く私の話を理解したのは、やはりレインだった。的確な反応に、私は頷く。

「当然お茶。ヘルモーサから綿花を仕入れる必要がなくなったら、ミリフィカ宛の荷を乗せる余裕ができるでしょう。ヘルモーサで仕入れて、レーゲンスベルグに寄港せずに直接向かって、茶を市場に卸して綿花を仕入れて、それでレーゲンスベルグに戻ってきても、外回り航路と比べても日数的にはトントンでしょう。航海に要する費用も、大して変わらないんじゃない? この新しい取引から上がる利益を加算すれば、通航料二割引くらいでいけると思うんだけど、どうかな」

「ミリフィカの貿易商ギルドとうまくやれるか次第だが、悪くない策だな。綿花栽培に投資すれば、うまく友好関係を結べるかもしれない。航路を独占できるなら、なかなか旨味のある話だ」

 レインは興味深そうに、私の提案を吟味する。そして不意に座を見回して、意地悪く笑った。

「お前ら、何ほうけてるんだ? おい、ロジャー、お前の傭兵団の話してるんだぞ」

「……俺らの話してる気がしねえよ。なんで傭兵団の派兵依頼が、いつのまに新航路開拓の話になってんだ」

「成り行き聞いてただろうが」

「聞いてたから、唖然としてるんだよ」

 はあ、と深々とため息をついてロジャーはうなだれ、やがて。

 荒々しく椅子を鳴らして立ち上がると、突然私の手を握った。

「えっ?」

「こんなできる女性、レインにはもったいない。あいつに飽きたら、ぜひとも俺のところに。後悔はさせません」

「あ、抜け駆けはずるいですよ。――ジュリアさん、今度うちの船においでになりませんか? 水平線に沈む夕日はそれは綺麗なんですよ。ぜひ一度お目にかけたい」

「……ロジャー、コモン……てめえら、当主会議で人の女口説くとは、いい根性をしているな……」

 地を這うようなレインの言葉に二人は跳び上がり、私は脱力した。シェイラではなくとも、ここの一族の男はしようもないのではないか、と思いたくなる。

 だがそんなやり取りさえ言葉遊び、もしくはじゃれ合いにすぎなかったのではないかと思うほど、厳しい声音が小さな会議室に響いた。

「この際だ、お前たちにはっきり言っておく。この場にいる誰一人、もはやふざけていられる場合でなどない――約束の時は、もう始まっているのだから」

 その一言に、場が一気に緊迫したのが判った。張りつめた空気に、私は所在をなくす。

「いつお前たちに打ち明けるべきか、ずっと機会をうかがってきたが、今をおいて他にないという結論に達した。歴代総領が守り、我々一族に勝機を与え続けてくれた存在――禁書は、あと二年でその力を失う」

「レイン、お前!」

 恐ろしいほど切迫した叫びが、場に上がった。それが驚愕なのか、非難なのかは私にも判らない。ただ私にも判るのは、それは間違いなく、部外者の私が聞いていい話ではないのだ、ということ。

 そしてレインはきっと、それが判っていてなお、私がいる今この時に、この話を切り出したのだということ。

「俺は最後の禁書の守り手として、初代との約束を果たすための行動に移っている。お前らがまだ知らぬ真実のために、俺はすでに全力を尽くしている。だから今、お前たちは、俺がどんなに不審な行動を取っていたとしても、黙って見逃せ。それがどれほど常軌を逸しているように見えたとしても、それは総領のみが果たさなければならない大事な役目のためだ。畢竟、この一族はその役目のために存在し、それを果たすために今まで力と財を蓄えてきたのだと理解してほしい」

 誰もが声もない。ただレインは静かに、だが威厳をもって、一族の者たちに告げる。

「二年後、禁書がその全ての力を失った時、二百年続いた平穏と守勢の時代は終わり、動乱と攻勢の時代が来る。その時我々は、二百年かけて父祖たちが築き蓄えてくれた兵力と財力を全て費やして、戦うことになるだろう。逃げることも、避けることもできない。俺たちはその時、それぞれの持ち場において、最前線で戦うことになる」

 その言葉に、私は必死に己の叫びを呑み込んだ。

 なぜ、なぜ知っていると。

 同じ言葉を、何度私はレインに抱いたことだろう。だがそれは、今までのそれとは比べ物にならない。

 なぜあなたは知っている。なぜ知っているのだ。

 未来を。

 二年後に起こることを。

 1217年に、ロクサーヌ朝が――アルバ王国が、滅ぶことを。

「まだ二年ある、とも言える。だが二年しかない、とも言える。だからその時に向けて、俺たちはもう備えを始めなくてはならない。兵と武器を持つ者は、練成を重ねろ。財を築く者は、その時に瞬時に資金を動かせるように手筈を整えろ。武器を磨け、実戦経験を少しでも多く積め。一つ判断を誤れば、レーゲンスベルグごと一族は滅ぶぞ。それほどの戦いに、俺たちは挑まなければならない。その覚悟を固めろ」

 凛として、総領の声は響きわたる。

 私はただ、その声の主を見た。

「戦いは、もうすでに始まっている」

 私の視線と、彼の視線が絡まった。ただ彼は真っ直ぐに私に挑み、私は動揺を抑え込んでそれを見返すより他ない。

 だから私は、声にならない叫びをあげる。

 レイン。

 レイン、その戦いの相手は。あなたの戦っている相手は、誰。

 それはもしかして、私?

 二年後に何が起こるか、全て知っている、この私?

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