08

 次に目覚めた時、目に映ったのは天蓋だった。無論アルベルティーヌ城やガルテンツァウバー王宮のかつての自室のものとは比べるべくもないが、十分立派といえる寝台で私は目覚めた。

 絹の敷布の滑らかな手触りが、懐かしくもくすぐったかった。

「お目覚めになりました?」

 半身を起こした音を聞きつけたのか、カーテンの向こうから柔らかな声が投げられた。水を張ったたらいを手に、枕元に歩み寄ってきて少女はにっこりと笑う。

 金髪と青い目が人目を惹く、文句なしに愛らしい少女だ。

「ずいぶん顔色もよくなりましたね。――失礼、熱も下がったかな」

 少女の白い手が私の額に触れた。自分の額の熱と比べて、うんと頷く。

「お体、まだ痛みますか? 医師には、骨や内臓に異常はないようだけれど、痣が消えるまでは大分かかるだろうと言われています。あとで湿布替えましょうね」

「あの……」

「なんです?」

「あなたが私を看病してくれたのですか? ありがとう」

 自分が長く寝込んでいた自覚はある。発熱し、痛む体を抱え寝ついた長い時間があった自覚も。おそらくここへはあの黒髪の青年が連れてきてくれたのだろう。

 だとしたら、なにはさておき自分は礼を言わなければならない。そしてその上で、あまりにも大きすぎる借りを清算しなくては。

「その上でお尋ねしてもよろしい? あなた方はどちらの方で、どうして私を助けてくださったのでしょう?」

「そんなにかしこまらないでください、お姉様。私も兄様も、そんな風に恭しくされるのに慣れません。そういう身分の者だと思ってください」

 少女は苦笑した。そして私を真っ直ぐに見つめた。

 きらきらと、大きな目が何かを映して輝いていた。

「ようこそ、モス家へ。私はシェイラズ・モスと申します。どうぞシェイラとお呼びください」

 その名に、ちくんと胸の奥が痛む。その名は私の最愛の人に、よく似た響きを持っていた。年の頃だって十七、八歳――亡くした頃のアイラと変わらない。

 懐かしさと切なさと痛ましさに、胸の奥が疼く。

「そしてお姉様をここに連れてきたあの馬鹿の妹に当たります。どうぞよしなに」

「あの馬鹿って、そんな」

 思いがけない暴言に反応に困った私に、シェイラは何ら動ぜず言い放つ。

「あんなの、馬鹿で十分です。さっさと止めに入ればお姉様はこんなひどい怪我をせずにすんだというのに、何をぐずぐずしてたのか。不甲斐ないにもほどがあります」

「なんで大枚はたいて助けに入った俺が、そこまで言われにゃならんのだ」

 その時扉が開き、声が入ってきた。だがシェイラはむっとした顔をして言い返す。

「女性の寝室にノックもせずに入ってくるなと、何度言えば判るのですか、お兄様」

「ノックしたのに返事をしなかったのはどっちだ」

「だからって、入ってきていいってことにはならないでしょうが。遠慮とか気遣いとかをいつまでたっても身につけないから、女運が巡ってこないんですっ」

 いきなり私を置き去りにして始まった兄妹喧嘩に、私はあっけに取られた。口をはさむこともできず所在をなくした私に、やがてあの黒髪の青年は問うた。

「もう起きれるのか?」

「ええ、もう大丈夫です」

 寝台から降りようとして、私は腹部に走った鈍痛に顔を歪めた。平静を装うことはまだ無理だった。

「無理すんな、寝てろ」

 指で軽く額を突かれて、私は背もたれの大きなクッションに沈没した。そのぼすっという緊張感のない音と、その体勢で言うにはあまりにも間が抜けていると思ったが、とにもかくにもそれを口にせずには始まらない。

「あの、助けていただいてありがとうございました」

「馬鹿なことをした自覚はあるか? 殺されても文句は言えなかったぞ」

 それは判っていた。だがそれでもあんなことをしたのは、心のどこかで思っていたからかもしれない。

 殺されてもいい、と。

 何度も死のうとして死ねなかった。そして甲斐のない、下らない人生を送っていた。そこから逃れ過去に来てなお、自分の身一つ養うこともできず、何も成せずうらぶれていくのならば、ここで死んでも構わない。そう心のどこかで思っていたのではないか。

 その捨てる命で、自分と同じ苦しみを味わっていた少女が救えるのならば、いっそ重畳だと。

 だがそれを、見も知らぬ相手に――しかもあれほどの大金を費やして自分を助けてくれた相手に、言えるはずもない。だから、ただ私は俯くしかない。

「あんなやり方で人を救おうと思ったら、命がいくつあっても足りない。それともお前の命は、そうやって投げていいほど軽いものなのか?」

 青年の言葉は正論だった。だが私にも判っている。

 人を助けるには、それだけの力がいる。この青年が私を財力という力で助けてくれたように。

 そして何も持たない私には、あの子を助ける代償として差し出せるものは、己の身しかなかったのだ。

 力なき者が人を救いたいと願うのは、もしかしたら思い上がりなのかもしれない。そしてそのツケが、この怪我と莫大な借金だ。

 だが不思議と後悔の念は湧かなかった。だから顔を上げて、青年に伝える。

「沢山ご迷惑をおかけしました。使わせてしまったお金も、今は返せないけど、いつか必ず返します」

 二十万サレットという大金を、今の私がどうやって用立てたらいいのか。そのことを考えれば目の前が暗くなるが、それでもそう言うより他ない。

 そんな私に、シェイラは事も無げに言った。

「あんなの、お兄様に払わせておけばいいのです。どうせお兄様のお小遣いですから」

「お、小遣いっ?」

「お前っ、ちょっと待てそれは」

 シェイラの言葉は、私と青年を別の方向で狼狽させた。だがそんな私たちにも彼女は全く動じない。

「いつも適当に遊んで使っちゃう人ですから、いいのです。――お兄様、今回はこんな縁をモス家に運んできてくださったのだから、大目に見て、前借りは認めます。ですがこれを機会に、少しは身を慎んでいただけると、シェイラは嬉しいです」

 私は愕然として、兄妹を見つめた。

 それはありがたい申し出だった。本当は涙が出るほど。だが人のお小遣いで何とかなってしまう自分の身が情けなく、なんて人には差があるのだろうと実感する。

 自分は一日の食べるものさえ事欠く有様だったというのに。

 だがそう考えて、不思議な感慨を持った。

 ああ、そうか、と不意に納得した。

 こんな風に、王女だった私は国民に恨まれたのだと。貧しい者たちは、こんな風に奢侈に耽溺した王家を恨んだのだと。

 それは当然かもしれない。私が身につけていた耳飾りの一つで、救えた命はどれほどあったか。飢えを満たして温かいところで眠れた人たちは、どれほどいたのか。

 それは「生まれが違う」の一言で納得するには、あまりにも理不尽だ。

 知識ではなく実感として、初めてその感情が――感覚が、理解できたような気がした。

「そしてお姉様は、気に病むことはないのです。お兄様とモス家にとっては、あなたを助けることに二十万サレットの価値があったのだ。そうお考えください。そして私は、あなたがここにいてくださること、これからしてくださることに、それだけの価値があるものと信じます。あなたにとっては大金で、あなたの身を救うことのできる額のお金であっても、この家にとってははした金です」

「でも」

「それでも気に病まれるというのなら、お金を返すのではなく、私たちにとって二十万サレット以上の価値があったと認められる人間になってください。私はあなたが、それができる方とお見受けしておりますが、どうでしょう?」

 優しいが、ある意味有無も言わさぬ言葉だった。年下の少女が持つ威厳に圧倒され、私は引きながら答えた。

「が、頑張ります……」

「それでよろしいのです。そこでずいぶんと話が脱線してしまって、いまさらなんですが、お姉様のお名前も聞かせてください」

 確かに私はまだ名乗っていなかった。いくらかの警戒と緊張を込めて、私は二人の兄妹に告げた。

「ジュリア・シュパリスホープといいます。どうぞよろしく」

 その名は、アルベルティーヌで宿を取る時に必要となって、考えた名だ。さすがにオフェリア・ロクサーヌを名乗ることなどできはしなかったから。

 そしてその名は、決して完全なる偽名とは言えない。ジュリアは私の正式名の一部だし、シュパリスホープは祖母――母親の母親の家名だ。祖母の生家であるシュパリスホープ家はオフィシナリスの大貴族ではあるが、だが遠い他国の貴族の家名まで、アルバ人が知っていることはないだろう。

 青年はそう名乗った私の顔を、しばらく凝視していた。彼が何を考えているのか――私の名乗りに、不審を感じたのか否かは判らない。だがやがて、彼は静かに問いかけてきた。

「こう言われることに、お前はもしかしたら辟易してるかもしれんが、それでも一応俺も聞く」

「……はい?」

「お前、誰かに似てるって言われたこと、ないか?」

 その瞬間、心臓を見えない手で掴まれたような気がした。私は懸命にその動揺を隠し、小さく浅く息をついて、そして笑う。

 彼が言うように、その問いにはもう辟易しているとばかりに。

「オフェリア王女殿下でしょう? もう飽きるぐらい言われてきました」

「そうだろうな」

「ではあなたは、私がオフェリア姫だと、本当に思っておられる?」

「お前が本物なら、面白いなとは思う。だが姫は今、国王と一緒にゴルトクベレだ。それに俺がお前をこの家に連れ帰ってから、もう四日になる。それほどの間王女が行方不明になって、離宮や城が動かないはずがない。だからお前がオフェリアであることはあり得ない」

 その発言に、私はさらにきりりと心臓が痛むのを感じた。

 なぜこの男は、アルベルティーヌから多少なりとも離れたこの地で、かくも詳しく王家の動静を掴んでいる?

「……お詳しいのですね」

「俺はレーゲンスベルグの軍務に携わっているからな。王家の動静くらい掴んでおいて当然だ」

 私は思わず、男の顔を驚愕の眼差しで見た。

「……軍人でいらっしゃるの?」

「傭兵か海賊の方が、軍人よりは近い」

「え?」

「だからそんな風に敬語で話されると気持ちが悪い。一族はでかいし稼ぎは上げてるが、もともとここは無頼の家なんだ。お前みたいな育ちのよさそうなお嬢さんに、恭しくされると身の置き所がない。ついでに言うと、この館に出入りする連中はどいつもろくな育ちじゃないんでな、無礼があっても容赦してやってくれ」

 ともかくも、と青年はため息とともにこぼして、私に告げた。

「じゃあジュリアと呼ぶ。それでいいな」

「ええ」

「レインズ・モスだ。レインと呼べばいい。一族の者も、皆そう呼んでいる」

「ご主人様やお館様、そう呼ばなくてよいと?」

「……あのな、俺は確かにお前助けるのに金は使ったが、その金でお前買ったつもりはねえぞ」

 私の言葉の背後にあるものを的確に読んで、レインは顔をしかめた。心底虫酸が走る、といった態で、レインは言った。

「俺にも一応、立場がある。どんな理由があったって、人一人なぶり殺しにされるのを黙って見ていたなんて言われたら、街の治安と防衛に関わっている者としての沽券にも関わる。かといって、向こうには向こうなりに立場も理も存在してた。どこにも角を立てずに治めるには、俺が金を払うのが一番適当だったってだけだ」

「お兄様、素直じゃない……」

「何が言いたいんだ、シェイラ」

「そういう方向を間違ったかっこつけは、すれ違いのもとになるだけだと思います」

「だからお前は何が言いたいんだ」

「言葉の通りです。理解できないとしたら、それは兄様が自分のことを見ようとしていないだけです」

 またしても私を置き去りにして展開され始めた兄妹喧嘩に、私は所在をなくした。

 だが唖然呆然とするばかりではなく、冷静に思いを巡らせる。

 私をこうして保護することは、この兄妹にとってどんな意味があり、得があるのか。それはまだ判らない。だがこの容姿が陰謀を巡らせる者にとっては垂涎の的であることは、あの謎の手紙が示した通りだ。

 彼らは信じていいのだろうか。

 あの熱に浮かされ、悪夢にうなされた時、差し伸べられた手は――あの優しく冷たい手を、私は信じていいのだろうか。

 正直惑った。どうしていいか判らなかった。それは彼らの法外すぎる優しさのせいもある。その理由が判らないからもある。

 けれども、もう一つ、理由があった。

 こうしてレインの横顔を見つめれば判る。あんな意識が朦朧としている時ではなく、こうして少し快復して、落ち着いて見つめれば、どうしても感じてしまうのだ。

 こんな特徴的な黒髪と黒目の青年など、会ったことはないはずだ。私の知る黒髪黒目の男性は、カイルワーンだけ。にも関わらず、私はレインに既視感がある。

 私は確かに、レインに見覚えがある。

 それなのに、それがいつなのか、どこでなのかが、思い出せないのだ。

 無論、聞くことなどできはしない――もし本当に会ったことがあるのならば、それは私がオフェリアとして彼と会ったということなのだから。

「この館は無粋な野郎どもばかりで、年頃の娘としては正直辟易しておりました。お姉様がここの空気もきっと華やかにしてくださるものと、期待しています」

「おお、そうだ。お前はジュリアから、礼儀作法や立ち居振る舞いを教えてもらえ。お前みたいにがさつじゃ嫁にも出せん」

「お兄様、血の雨見たいですか」

「そんなものより、俺はお前の花嫁姿が見たい。見れるもんならな」

 こんな二人に、疑惑も疑念も謎も不審も何もかもを押し隠して、私は曖昧に笑うしかなかった。

 ただそれに、苦みが混じっていなかったかといえば、いささかも自信がなかった。

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