07
1217年のあの時――アルベルティーヌ城より落ちのびた時、セミプレナ運河のほとりで、私は死を選んだ。だが己に向けた刃はグラウスに阻まれ、私は虜囚となった。
ガルテンツァウバーへの海路、私は何度も自害を試みたが、全て未然に防がれた。一筋の傷さえもつけぬよう配慮された結果として、最後には体の自由をほぼ奪われた。それを虜囚と呼ばずに、他に何と呼ぼう
そうして連行されたガルテンツァウバー帝国の後宮。待っていたのは、皇太子ではなく皇帝による凌辱だった。
皇帝は私の抵抗も悲鳴も意に介さなかった。むしろそんな私を力でねじ伏せ、屈服さて愉しんだ。
アルバがガルテンツァウバーによって滅んだように、敗者である私もここで勝者である皇帝に征服されるのだと。そう言って皇帝は、泣き叫ぶ私をいいように弄んだ。悲鳴も罵声も呪詛も哀願も、何もかもを勝者の愉悦の中に呑み込んで、幾日も貫き責め苛んだ。
傷つき疲れ果て、抵抗する気力の全てを失った頃には、婚礼の準備が整っていた。豪奢な花嫁衣装を着せられ、皇太子との式に臨まされて初めて、あの時のグラウスの言葉の意味を知った。
ガルテンツァウバーの次代皇帝になるはずの男は、まともではなかった。
なぜなら己の結婚式に、当人が出てこなかったのだから。
まるでそこに皇太子がいるかのように結婚式は行われ、代理人が宣誓を行い、結婚は神の名において成立したとされた。その場の厳かで白けきった雰囲気に、私はこの国の宮廷の歪みをまざまざと見せつけられた。
やがて私は、皇太子がこの十数年、まったく自室から出てこないままであることを知った。その原因が何なのかは私には判らない。心の病なのか、何らかの障害を抱えているのか、それが自分の意思なのか他人の思惑なのかも、何一つ。そしてそれを知ったところで、どうなることでもなかったので、敢えて追求もしなかった。
『お判りになったでしょう。あの皇太子では、この国を治めることはできません』
結婚式から数日後、私を訪ねてきたグラウスは、そこでようやく自らの真意を語った。
『皇帝には側妃との間に、まだ皇子が幾人もいるはず。なぜ彼らを擁立しようとはしないのです』
『それは端的に、皇太子が皇后の唯一の御子だからです。皇后はノルマリスの王女だ。これでお判りでしょう?』
確かにその一言で、事情は推測できた。ノルマリスはガルテンツァウバーの隣にある大国で、双方の建国以来衝突を繰り返してきた。現在は同盟を結んでいるが、それは皇帝とノルマリス王女である皇后との政略結婚により成立しているものだ。
ここで皇后の子である皇太子を廃太子にしたら、同盟関係に亀裂が入る。最悪、全面戦争への引き金を引きかねない。
そして記憶違いでなければ。
『ノルマリスの王位継承者は、確定していないのではなかった?』
『王太子が先日死去しましたからね。継承権順位から考えれば、皇太子でも王位を窺うことは不可能ではありません。そこまでしないまでも、これからノルマリスが王位継承で揺れるとすれば、ガルテンツァウバーがノルマリスの王位継承権を持つ者を手放すことなど考えられない。そういうことです』
ここでもう私は、ガルテンツァウバーの企みが全て理解できた。
どうして私が、皇帝の後宮に納められるのではなく、皇太子妃の位を与えられたのか。本人が妻を娶れる状態でもないのに、結婚を強行――偽装したのか。その上でなぜ、皇帝が私を執拗に求めるのか。その理由が、全て。
必要なのは、私ではない。私の子どもだ。
アルバとガルテンツァウバーとノルマリスの王位継承権を持つ、私と皇太子との間の子ども。皇帝とガルテンツァウバーが必要としているのは、その子どもだ。
私の産む子どもは、アルバの国民感情を考えれば、庶子ではなく嫡子でなくてはならない。だが皇帝はノルマリス王女である皇后を廃し、私を新たに皇后にすることはできない。だから私は、皇太子妃にされた。だが皇太子には、私との間に子を生す意志がないし、もしかしたらその能力もないのかもしれない。
だから皇帝が、私を犯す。それはアルバ王女を征服し従属させるという、皇帝自身の欲望もあるのかもしれないが、それは一番の目的ではない。私は子を産む道具だったのだ。私自身が必要だったのではない。アルバ王位継承権を持つ皇帝の子を産める女であれば、誰でもよかったのだ
そうして私の産んだ子を皇孫として、皇太子を飛ばして次代の皇帝に据える。そういう計画だったのだ。
『私は何も弁解はいたしません。ですが私はあの日、貴女に申し上げたでしょう。――貴女にガルテンツァウバーを治めてもらわなければ困る、と。その言葉は偽りではありません』
『それは……』
『皇帝陛下は先に申し上げた理由で、統治者として不適格な第一皇子を皇太子としていますが、では陛下に万一のことがあった時どうすべきか、その時誰が国権を預かるのかという問題が生じます。それを楯に、他の皇子たちを擁する各派閥も揺さぶりをかけてきています――皇子たちの母親の背後には、有力貴族が控えていますからね。ノルマリスとの同盟も王位も諦めろ、という声は少なからず存在します。決してガルテンツァウバーも一枚岩ではありません。今陛下に何かがあれば、帝位を巡って内戦が勃発するのは必至です』
『でしょうね』
それがどうした、とばかりに淡々と応えた私に、グラウスは構わず言い募る。
『ここまでお話しすれば、私の言いたいことはお判りになるはずだ』
『だから私に、皇太子を傀儡にして実権を握れと? 皇帝との間に子を生して、ゆくゆくは幼い皇帝の摂政として立てと? あなたは本気で、私にそんなことを言うの!』
激して叫んだ私に、グラウスは苦渋をたたえて叫び返した。
『私はこの国が焼けるところを見たくなどない!』
それはなんて、身勝手な言い分だろう。
『私はガルテンツァウバーの国民であり、軍人だ。私にはこの国を守る責務がある。そしてこの方法でしか、内戦を回避する方法が見つからなかった』
グラウスは大まじめに言ってるのだろう。そして自分が誠実だと思っているのだろう。
だが私は、ふざけるなと思う。
『この国を助けてください、姫』
何を寝ぼけたことを、この男は言っているのだろう。そう心から思う。
それならば焼かれた私の国はどうなるのだ。
惨たらしく殺された、父や、母や、妹たちはどうなるというのだ。
どうして他人の国を救うために、私は大切なものを何もかも奪われなければならなかったというのだ。
どうして他人の国を救うために、私は目に見えぬ鎖につながれて、来る日も来る日も辱めを受け続けなければならないのだ。
私の気持ちは、どうでもいいのか。そうやって踏みにじられた私の心や体がずたずたになってもお構いなしか。そんな人間がどうして国を治められると? そんなことを私にしている国を私が守ると、どうしてそんな寝ぼけたことをあの男は考えられるというのだろう。
そうして二年間、皇帝は飽かず私を犯し続けた。抵抗すれば、さらなる責めが待っているだけだ。ならば抵抗するだけ無駄だった。従順な奴隷となった私を皇帝は満足げに責め苛み、宮廷人たちはそんな私を軽蔑した。自分の意志も何もない脱け殻、足を開くしか脳のないお人形だと。
いっそ復讐に走った方が楽だったのかもしれない。憎しみをもって心を律し、皇帝をたぶらかして帝国の実権を握った方が。そうしてガルテンツァウバーを滅ぼすことに一生を費やした方が、いっそ。
けれども、私にはもう何もかもが面倒だった。そうして己をすり減らして戦って、それが何を生むだろう。そうして多くの人たちを傷つけ、殺して、それが何が得られるのか。何が取り戻せるのか。
それでアイラシェールとカイルワーンが、浮かばれるというのか。
ガルテンツァウバーにとって唯一の誤算は、私が妊娠しなかったことだろう。私の子を――それもできることならば皇子を正当な王位継承者として戴き、そうしてアルバへ侵攻する予定だったのに、私は一向に子を身ごもる気配がない。1219年のアルバ侵攻は予定通りではなく、待ちきれず業を煮やして踏み切った結果だったのだ。
私の心は凍りついていた。皇帝に凌辱され、アイラとカイルの惨たらしい死を聞かされたあの日から。
でもそれは、そうしなければ生きていけなかったからだ。これ以上傷つかないためには、何も感じずにいるしかなかった。心を閉ざしてしまわなければ、生きていけなかったのだ。
けれども、と思う。どうして私は、それほどまでの思いをしてまでも、生き続けていたのだろう。
どうして私は、死を選ばなかったのだろう。
どうして、私は、死ななかったんだろう――。
「大丈夫だ」
不意に声が聞こえた。そうして誰かの手が額に触れる。それはうっとりするほどに冷たく、私は自分の中に暗く凝った何かが溶けていくのを感じた。
「悪い夢はもう終わった。だからゆっくり眠れ」
その声の主は判らない。だが私は小さく頷いて、また眠りに落ちた。
体が熱くて、ひどく痛んだ。眠ることさえ本当は苦しかった。けれども額から伝わってくる心地よさに、私はその言葉がためらいなく信じられた。
そしてそれから目覚めるまでは、変わらず痛くて苦しかったけれども、悪夢を見ることだけはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます