第3章 聖人君子の伯爵とひねくれた捨て子の物語
歯車ひしめく王都。……などと情緒的な呼称が存在する都だが、そのほとんどがこの下層階級が生息する稼働街を示している。工場や機械がそこかしこに溢れている光景は、一介の貸本屋兼代筆兼翻訳兼写本師である私にとっても(……こうやって改めて書き並べてみると何とも長い……)、身近なもので。
何かの工場と何かの工場の間に、肩身狭そうに挟まれているのが、私の住むアパートである。明らかに古びた煉瓦を適当に積み上げただけのお粗末な建物で、6階建て。錆びついた巨大な歯車が、その側面に風車のようにくっついている。稼働街の一角らしい外装だが、この歯車が動いているところを私は見たことがない。
私の部屋は、そんな家賃格安アパートの5階にある。ギシギシと軋み音を上げながら、壁ではなく手すりに四方を囲んだエレベーターが、私をそこまで押し上げる。
今宵もふらふらとした足取りで自分の部屋の前まで来た私は、ベルトにぶら下げてた鍵を扉の鍵穴に差し込んだ。ドアノブの上には、拳ほどの大きさの歯車が3つ4つと組み込まれている。鍵をまわせば、それに呼応して歯車たちも回転。ガチャンと開錠を知らせてくれた。この音だけは小気味いい。
中に入り、鍵をかける。内部には外側のよりひとまわりは小さい歯車がやはり数個貼りついている。こちらも小さく駆動音を立てて、施錠を教えてくれた。
昨日は疲労困憊ですぐにベッドで力尽きたものの、今日は体力にまだ余裕がある。だから、見慣れた部屋をぐるりと見渡した。……ここが私の、私だけの城。
室内は、外から見るよりも結構広い。天井からは私が両手を広げて作った輪よりもひとまわりは大きい歯車が、半分ほど顔を出していた。壁の上の方にも、大きな歯車がいくつか食い込んでいる。
これは歯車と空間を上手く掛け合わせたもので、これによって実際よりも広い空間を作り上げているらしい。産業国家と謳われるここ英国では、空間学の発展が特に目覚ましい。「空間」という非物理的なものと「歯車」という物理的なものを掛け合わせるなんて、世界に類を見ない画期的な発明だ。
下層階級はとにかく、人口が多い。けれど工場や巨大な歯車もひしめいている稼働街は、人の住むスペースというものがまったくもって足りていない。
そこで工場で有り余っている歯車を掛け合わせ、実際よりも広い空間を構築するこの魔法のような技術を駆使したわけだ。下層階級の収納スペースが増えて、不要な歯車も処理できる。まさに一石二鳥だ。
これが逆に上流階級の住まう屋敷にはなかなかないらしい。というか、そんな歯車があるなんて家の恥というか。下層階級がお世話になっている技術を使わなければならないほどスペースに余裕がないのか、と影で嘲笑されることになるらしい。そんなわけで、エドワードおじ様のお屋敷なんかも、見事に歯車が皆無だった。
私はドアの内側にある郵便受けのふたを開けてみた。仕事の依頼が自宅の方に届くことがたまにあるからなのだけど……、
(……あれ?)
上等なものだと、ひと目で分かる封筒。仕事の線も考えられたけれど、嫌な予感がする。
いっそ開けるのを明日、ううんもっと先にしようかとも思ったけれど、後回しにすればするほど面倒になることは骨身に沁みている。短くため息をついて、差出人も宛名も書かれていない封筒にペーパーナイフを押し込んだ。――ご立派な封蝋には、剣をくわえたフクロウの紋章。でしょうねとしか言いようがない。
『親愛なるフランへ』
見慣れた流れるような達筆に、思わず天井を仰いでいた。……今日はベッドよりも椅子の気分。そちらに腰かけて、嫌々目を通していく。こんなに気が進まない読み物もなかなかない。ついつい新聞を買ってしまうことだってあるぐらいには、読み物好きの筈なのに。
『元気にしているかな? まぁ居眠りや朝寝坊をするぐらいだから、元気だとは思うんだけど』
「はいはい、元気にしてますよ」
むしろ今朝のことを綴った手紙を、夜にはこんなところまで届けさせるおじ様の方がよっぽど元気だ。おかみさんからの知らせを聞いたのは、どんなに早く見積もってもお昼頃だろうに。ご苦労なことだ。
『寝る子は育つというからね。きっと君も成長期なんだろう。魅力的な女性になることを楽しみにしているよ。もちろん、今だって充分魅力的だが』
「………………………………………………………………………」
もう返事をするのも嫌になってきた。
『それとパトリシアがかわいいフランの給金を減らしたいと言ってきたんだけど、それはやめてあげてと頼んでおいたよ。彼女は話せばわかる女性だ。減給は取り消してくれたから、お礼を言うといい』
(……だから嫌だったのに)
声には出さずに、私はむくれた。エドワードおじ様は、とにかく誰にでも親切だ。あのおかみさんのことまでこんな風に言う。でもその親切さが、私にはどうあがいても苦手要素にしかなりえない。
上流階級の中でも上位の伯爵様。容姿端麗で、慈善事業もいろいろと行っている。自分から下層階級の住む地域の視察に出向いたりもする。妬む人は大勢いるだろうけれど、大抵の人からは好かれる。事業における手腕もかなりのもの。
……けれどそんな人間、本当にいるんだろうか。一応身内と言えるのに、いや、だからこそ、私はそう思ってしまう。
だって、墓堀りの娘なんていう下層階級の中でも下の下の子どもを、普通上流階級の人間が育てようなんて思うだろうか。
まったく美人ではないし、拾われたばかりの頃はとにかくずっと泣くか黙るかだけ。そんな子に衣食住を保障し、教育も受けさせ、その子のやりたい仕事を与えてくれる。
それらに関する打算を未だに感じられないからこそ、胡散臭く思ってしまうのだ。
ついでに言うと、容姿端麗なくせに女性の影がまるでなく、かといえば幼女趣味だとか、同性愛者にも当てはまらない。上流階級が下層階級の女子どもを拾う理由なんてたかが知れているが、私はそういった乱暴をされたことは1度もない。けれど完璧な独身男性ほど疑わしいものはないと思う。
「……せめて男を養子に取るならわかるのに」
本当に、何でこんな小娘なんかを。それを尋ねたことは何度かあるけれど、毎回答えは同じ。
――趣味だよ。
私は首を振って、手紙を最後まで読みにかかった。
『かわいいフランにいい加減会いたいところだが、ここ最近ずっと仕事が立て込んでいてね。次に会うのはまだまだ先になりそうだ』
「……何年先でも構いませんよ」
思わずボソリ。
『何年先でも構わない、と君は言いそうだね。でも、離れていても家族なんだ。私だって若くはない。会える時には会っておきたいんだよ』
「……」
私は思わず渋い顔をした。この、こちらの考えを何でもお見通しなところも正直苦手だ。それに若くないとか言うけれど、おじ様はかなり年齢不詳な見た目をしている。
20代のように若々しくもあり、けれど50代のような深く物事を知っている顔つき。何度年齢を尋ねても「秘密」としか言われなかった。
(……年齢も知らなくて、何が家族なの?)
そんな苦い思いが、わだかまる。
『さて、そろそろ時間がなくなってきたから、手紙を切り上げておくことにしよう。くれぐれも体調には気を付けて、つつがなく好きな仕事を全うしてくれ。かわいいフランにまた会える日を楽しみに待っている。君からの返事も欲しいな。それじゃあまた。君を愛する家族より』
ふー……と、長く息を吐き出していた。どんな長編小説を読んだ時よりも感じる疲労感。私は本当によく頑張った。
正直返事を書くなんて気が重いけれど、お世話になってきた身なのでそういうわけにもいかない。けれど今日書く気力は残っていない。
「……明日にしよう」
ぽんと、机の上に積まれた本の更に上に放った。昨日ほどではないが、今日だってクタクタなのだ。背もたれにだらしなくもたれかかって、天井を仰ぐ。
書庫の片付けは、何とか終わった。……というか、とりあえず本を本棚に片っ端から押し込んだだけなのだけれど。でもそれだって、順調とはいかなくて。
――そろそろ燃えるぞ。
その言葉に、何度手を止めたか分からない。それがなんだかすごく悔しい。
字の読み書きができない人が少なくない下層階級で、貸本屋なんてなかなか浮いている商売だ。だから冷やかしは多い。字の読み書きが当たり前にできる上流階級の人がこんなところまで来ることもそうそうなく、正直、貸本屋以外の収入で生きているのが現実だ。
とにかくそんな奇特な店に来るのは、暇を持て余した若者だったりする。だからあの青年も、その類だと最初は思ったけれど……。
「……なんで違うって、思っちゃうんだろう……」
私は力なく天井を仰いでつぶやいた。
けれど、冷やかしでもなければナンパでもないと、確信してしまうのだ。ナンパはともかく、あんなにもからかいを含んだ言い方をされれば、いつもの私なら冷やかしで片付けている。……それなのに、どうして。
その日は『千年史』も大して頭に入らず、のろのろと眠りについた。
――どれだけのインクをぶちまければ、世界はここまで黒く染まるのだろう。
黒一色の世界で、幼い私は泣いている。やがて救いの羽が舞い降りるのだと分かっていても、この世界は、やはり、……怖い。
私は一体、どの立場からこの夢を見ているのだろう。あの頃の私に戻っているのか。それとも本のページをめくるように、俯瞰しているのか。
どちらも合っていると言えるし、間違っているとも言える。
おじ様に保護されたばかりのまだ幼い私は、毎晩のようにあの真っ黒な世界の夢を見て泣いていた。夢と言うよりは、あの恐怖を追体験している感覚というか。いつか、目が覚めてもそこは暗闇で、おじ様に助け出されたことこそが夢だったんじゃないかと思う日が、来そうで。今となっては癪だけれど、あの時はよくおじ様にしがみついて大泣きしていた。
しかし、16歳である今、また毎晩のようにあの時の夢を見るようになって。うんざりするし、全然眠れた気はしないけれど、やはり慣れだとか学習だとかができるようになっている。つまり最近は、夢の中でも「あぁ、夢なんだな」と冷静に把握する自分がいて。
幼い頃の恐怖心を追体験しているような気もするし、セオリー通りの恐怖を夢に当てはめているような気もする。確かに心細くてえんえん泣いているのだけど、頭のどこかで、次に何が起きるかを知ってはいる感じ。だから、ハッピーエンドが約束された物語を読むように、ある種の安心感もあった。
幼い私が泣いている。おとうさん、おかあさん、ここどこ、と。決まりきった泣き言には、眉根を寄せたくなる。口減らしの為に捨てられたのは、誰の目にも明らかじゃないか。
早くこの夢が終わらないだろうか、と思う。幼心に絶望を詰め込まれたまま。
自分以外に誰もいない、音もしない恐怖に飲み込まれていく。救いの羽が舞い降りるのを待ちながら。
あの羽は、好きだ。あれが何だったのか16になった今でも分からないけれど、おじ様よりも先に私を助けてくれた存在だ。少なくとも、1番最初に心を掬い上げてくれた存在だ。
いろいろな物事を知って、すっかりひねくれてしまった私だけど、あの羽を見れることだけはこの悪夢の中で唯一、いいことだと思っていた。
さぁ、羽よ来い。早く私を救ってくれればいい。
そんな、傲慢とも取れる思いで、次の展開を待つ。そろそろクライマックスだ。
(……?)
しかし、なかなか来ない。泣きじゃくり、助けを求める子どもがただいるだけ。
まだだっただろうか。そろそろだと思っていたのだが。その間にも、子どもは覚束ない足取りで闇の中を彷徨っている。
こう何度も同じ夢を見ていると、さすがにどのあたりで展開が変わるかは分かる。……と思っていたのだが、同じ本を読み返すのと同じ夢を見るのとでは、感覚がまた変わるのかもしれない。
そういえば私は、本以外のことはてんでダメなのだった。夢の中での記憶力を過信してしまっていた。私ってば恥ずかしいな、とごまかし笑いをしたいところだ。だが私という子どもは泣きじゃくるばかり。
やだ、ここどこ、こわいよぉ。子どもが涙ながらに助けを求めている。……あれ、こんな風に泣いてたっけ。心臓が静かに、だが確実に早鐘へと変わっていく。冷たい汗が、じわりと込み上げてくる。
――おかしい。
頭のどこかが冷静であったせいで、違和感に気付いてしまった。気付いて、――幼心では感じ取れないだろうひやりとした感覚が、胸の内に滑り込んだ。
その間にも、私は黒の中をあてもなく、ふらふらと……。
「おいてかないでよぉ」
えぐっ、と何度も泣きじゃくるから、息が苦しい。小さな喉が引き絞られるような感覚を味わいながら、それでも、歩いて行くしかない。喉や肺以上に、心臓のあたりが苦しい。
「次はもっと、ちゃんと盗んでくるからぁ……いい子にするからぁ」
涙も言葉も止まらない。救いを求める言葉が、どうしてか、自分の心臓に刺さって、より押し込まれていく。
「ごめんなさい……ごめんなさいぃ……!」
耳の中が、ぐわんとなる感覚。視界は黒だけで。――呑まれていく。
あぁ私、何でこんなことになったんだっけ。せっかく死んだ人からお金になりそうな物を取って来たのに、それを知らない人に見つかって、殴られて、蹴られて、
やっとの思いで家に帰ったら、そこでもまた、殴られて、蹴られて――……
やだ、違うよ、痛くない、平気だよ、もう失敗しない、だから、やめて、捨てないで、待って、早く来て、お願い、助けて、
「おじ様……ッ‼」
――世界が突如、反転した。
肩で息をしながら、私は半ば呆然と、目に入る情報を受け入れるしかない。
見慣れた壁。クリーム色というよりは黄ばんでいて、ごつい大きな歯車がいくつも組み込まれている。ひとつしかない格子窓からは、錆びた街並みがいつものようにそこにある。雑草のように無数に生えた煙突。そこから吐き出される、曇り空よりも尚くすんだ煙。建物のあちこちから除く歯車は、部屋の中にある物よりもずっと巨大だ。
そこが自分の家の中だと把握して、息切れ以外の音も耳に届いてくる。薄い壁越しにほんのりくぐもって聞こえる、何かの機械の駆動音。無数に重なり合うこの街独特の音が、私の中に日常として入り込んできた。
妙に肌が冷えている。自分の格好を見下ろして、それはそうか、とぼんやり納得する。汗をぐっしょりとかいていて、服は薄手の寝間着。埃くさい掛け布団を、何故か下敷きにして寝ていたらしい。
「……夢……」
かすれた声でそう口にし、何とか長く息を吐き出せた。どうやら叫びながら起き上がっていたようだ。寝起きの気怠さとはまた違う疲労感が、全身にのしかかっている。
深い秋の冷たさを纏う空気の中、額の汗がやけに気になった。それを手の甲で拭っていると、ゴォン、と時計塔の鐘の音が響き渡る。1回、2回、3回……7回か。終業時間までは余裕がある。
かぶりを振ってベッドから床へと足を投げ出した私は、寝間着を潔く脱ぎ捨てた。それから、椅子にかけていたいつもの服に袖を通す。――そこでふと、机の上の目が行った。いや、正確には、その上に積まれた本の塔の更に上。
「……………………………………………………」
そこにある場違いな上等の封筒に、勝手に顔がしかめっ面を作っていた。
――『君からの返事も欲しいな』。
とても洗練された、優雅な甘い微笑が、美しい文面と共に浮かび上がる。私は封筒から視線を引き剥がし、『千年史』をカバンに詰めると朝食にありつく為に部屋を後にした。
今日はおじ様への手紙の返事を書く予定だったけど、書かないでやる。そう固く決意して。
千年記録と焚書追憶 -歴史を紐解く少女と真実を暴く偽悪魔の物語- Yura。 @aoiro-hotaru
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