第2章 眠れぬ夜闇をまぎらわす千年だけの物語

 王都の1番外側にある、煉瓦造りの家々や大小様々な工場がごみごみと溢れた街。ところどころで煙突から煙が上がり、というかあちこちの建物や橋に生えている巨大な歯車やバルブなんかからも煙が吹き出している。


 これがまたうるさいなんてもんじゃない。昼間なら働く人達の喧騒で賑わい、昼夜問わず煙が突然噴き出す音や歯車がギシギシいいながらまわる音が喚き続ける。


 ずっとこの街に住んでいる下層階級の人間にとっては慣れたものだ。それこそ赤ん坊の鳴き声なんか、かわいいものだと思う。工場の親方らしき人や酔っ払いの怒鳴り声なんかも。どの家も壁が薄いから外のいかつい音は丸聞こえで、でもそんな中でもぐっすり眠れるという特技を持っていたら、それはずっとこのあたりで暮らしている人間だ。


 そんな稼働街の中に、我が家はある。


 旦那さんの宿屋は大通りを3本抜けたところにあって、私の仕事場である貸本屋はその地下室にあたる。……いや、完全な地下ではなくて、半地下……ううん、4分の3地下といったところか。ちょっとだけ1階部分に食い込んでいるのだ。


 だから鎧窓が何とか存在を主張できて、昼間に蝋燭をつけるようなことにならないで済んでいる。通りから見れば足元に窓がある状態なので、時々子どもがしゃがんで覗き込んでくるのだが。


 私の家は、そんな仕事場から更に2本先の通りにあって徒歩15分とかなり近い。何ていい雇用条件。


 ……だけど、今の私はというと。


「……疲れた……」


 やっとのことで辿り着いたアパートの自室で、私は力なくベッドに倒れ込んでいた。


 あまり治安がいいとは言えない夜の稼働街を、甦った死者のようにふらふらと歩いていたのはさっきのこと。おじ様からもらった(……押し付けられたといった方が正しい)上等な懐中時計を取り出すと、もうすぐ日付が変わることが分かってうなだれる。


 あの謎めいた来客――お客さんにも見えなかったけれど――の後、旦那さんが持ってきてくれた夕食をもそもそと食べて片付けに乗り出した。けれどどうしても、あの言葉が頭から離れなくて。


 ――そろそろ燃えるぞ。


 一体何がなのだろう。そうやって意識があの人に傾くと、完全に手が止まる。はっと我に返って、慌ててまた手を動かす。でもまたあの声がよみがえる。手が止まる。そしてまた――……、


 そんな風に作業していたのだから、進む仕事も進まない。


 旦那さんが夕食を持って来た時に「手伝おうか」と申し出てくれたけれど、それも断った。今日はおかみさんのご機嫌取っておいた方がいいですよと言い添えて。……おかみさんは、旦那さんが私をかわいがっているのが気に入らないから。


(……とまでは、言わなかったけど)


 あの貸本屋で働き始めて3年が経った。私ももう16歳。そういう機微には疎くない。――でも、気持ちがそのまま言動に出るのは、よくあることで。


(もう、何なのあの人)


 勝手に頬が膨らんでしまう。恨み……というほどではないけれど、ムッとした思いの丈を枕にぶつけてみる。ぼす、ぼす、と私の拳が何度もめり込んだ。


(そもそも、あの言い方が良くない)


 あんな――自分にとってはどうでもいいけれどあんたにとっては重要だろ、と言わんばかりの。


「燃える、って、何が!」


 冷やかし目的で来る迷惑な若者は何人かいたけれど、何の用で来たのかすらさっぱりな人は初めてだ。面白くない。


『何が』


「……何でもっ!」


 勝手に頭の中で彼の人をからかうような笑みと声が浮かび、私は渾身の拳を枕に叩き込んだ。気に食わない点は、まだある。むしろそちらの方が私にとっては重要だ。


 思い返されるのは、とっぷりと日が暮れた中に沈み込む書庫だ。……結局、本の配置が変わっただけで散らかったまま今日を終えた。


 何とか頑張ってみたけれど、そもそも本で溢れかえっている書庫だ。しかも1冊1冊がものすごく重いし、私は健康優良児だけれどずっと部屋にこもって読み書きだけをしている身である。捗るものも捗らない。


 しかも、片付ける対象が本だとか、そんなの、――……パラパラとページをめくって、そのまま読み返してしまうに決まってるじゃないか! 普通‼


「……それすらも手につかないなんて……‼」


 そう。私としたことが、片付けの最中、まったく本をめくらなかったのだ。ただの、1度も。こんなの屈辱以外の何物でもない。本を読み返してしまっておかみさんに怒られるのはまだいい、でも、あんな人をバカにしたような態度の男の為に怒られる羽目になるとか。


「……あぁ、だめだ。落ち込んできた……」


 私はさっきまで散々殴りつけてきた枕に顔をうずめた。がっくりと、肩に今日の疲労と明日の疲労がのしかかってくる。


「おかみさんも無茶なこと言うなぁ……」


 そもそも、私は片付けが得意じゃないのだ。現にこの部屋もあちこち埃だらけで、特に机の上なんて本や紙が積み上がっている。食事をする時や何か書く時は、あれを上手い具合に脇にどけるのだ。


「……あぁ、余計なこと思い出してしまった……」


 確かに旦那さんが夕食を持って来てくれたけれど、それを食べたのだって何時間も前だ。それがきつい労働の末にとなったら、尚更お腹が空くに決まっている。


 私は食器や食料を突っ込んでいる棚にのろのろと足を運んだ。


「……何か、食べ物……」


 棚の扉を、開けてみると。


「………………………………………………………………」


 ――チーズが、ひとかけら。


「………………………………………………………………」


 私は無言で扉を閉めた。今食べてもいいけれど、今食べたらもっと虚しくなりそうな気がしたからだ。


「……あ、明日の朝食にしよう。うん」


 そして空腹を紛らわせる方法を、私はもうひとつ知っている。


「……あった」


 カバンをゴソゴソとあさり、目的の物を遂に手にした。そこには、夕方に旦那さんから手渡された宝物がある。


 ――『新約千年史』。


 表紙のその文字に、改めて胸が躍る。まだ5年前のというだけあって、紙の匂いは古びていない。古書特有の煤けた匂いが大好きだし、それに慣れていたというのもあってすごく新鮮だ。……まぁ、エドワードおじ様の家の書庫には常に最新の書物が置かれていたけれど。


 その宝物を抱きしめ、ベッドにごろりと転がった。書庫の片付けが半分も終わらなくて明日はおかみさんに怒られるだろうな、とか、お腹が空いちゃってることとかが頭から吹き飛んだ。今この世界には私と『千年史』の二人きりだ。


 逸る気持ちをおさえ、ゆっくりとページをめくった。


 ――千年の記録をここに。残されるはこの一年のみ。


 最初のページに書かれたこの文言を初めて見た時、心をぐわっと嵐が駆け巡ったのをよく覚えている。『千年史』の最初のページには、必ずこの文言が書かれているのだ。


 千年という果てしなく長い歴史が、自分の中に染み込んでくるような思いがする。何度読んでも、興奮に身震いするというもの。


 心動かす文言をゆっくりと指でなぞってから、私は更にページをめくった。


「あー……、やっぱりこのあたりは消えてるよね」


 空白のページが何ページも続いているのを見て、私は苦笑いしてしまった。



 歴史の保管は、千年が限界だ。だから千年より前のことは、記録からも人々の記憶からも全部消えてしまう。



「20年前の『千年史』は、もっとずっと真っ白なところが多かったもんね」


 それよりはずっとマシ……いや、ずっといい。20年前のも愛していると、そこは断言しておくけれど。


「……あ、あった」


 ようやく文字が現れ、期待に胸を膨らましながら、その歴史――物語を、目で追っていく。


 20年前のものと、もちろん内容が重複しているところがほとんどだ。けれど、新たに付け足された部分だってある。そこを見つけるのは、真っ暗な洞窟の中で宝石を見つけ出すくらい私にとっては価値のあることだ。


 さすがに愛して止まない『千年史』ともなれば、効果は絶大であった。疲れも不安も空腹も忘れ、歯車やバルブや煙の音も消えていく。私は私の意識を手放すまで、その宝探しを続けていた――……。




 ――そうして私は、恐ろしい世界の夢を見る。


「……っ‼︎」


 飛び起きた。するとそこは恐ろしい世界なんかじゃなくて、見慣れた部屋にベッドに机に棚……と、私の安寧の場所であることが分かる。


「……また、夢……」


 額をおさえると、汗でぐっしょりと濡れていた。秋も深まったこんな季節に、明らかにおかしい。ひんやりと漂う冷たい空気が心地良かった。


(……やっぱりおかしいのかな、私)


 そんなことを、思う。最近、どうも眠くて仕方がないのだ。……いや、それ自体はおかしいことではない。


 でも、やっぱりおかしいとしか言いようがないのだ。


 本を読みふけっていて夜更かし・徹夜をしてしまうことは、私にとって日常茶飯事だ。けれど、だからといって昼間に書庫で寝こけてしまう、なんてことは、今までなかった。だって本に囲まれているのだ、どうしたって意識が覚醒する。


 ……それなのに、最近眠くて眠くて仕方がない。


 さっき『千年史』を読んでいた時もそうだ。確かに片付けをやらされて疲労困憊だったけれど、いつもならもっと読み進めてから意識が途絶えていた。なのに私の顔のすぐ横で広げられている『千年史』は、たった20数ページの地点。いつもだったら、絶対、少なくとも50ページ近くは読めていた筈なのに。


 こんな現象が起こるようになったのは、2ヶ月ぐらい前から。最初は、「私としたことが……!」なんて、悔しがるだけで済んでいた。


 けれど体調を崩すでもなくそんな状態がずっと続くのはさすがにおかしい、と、一ヶ月が経つ頃にはさすがに気付いていた。


 ……けれど、何よりもおかしいのは。



 ――夢を見るのである。幼い頃の夢を。何度も。



 それは私にとって最古の記憶と言っても過言ではない。突き落とされた恐ろしい世界。何もできない幼い私。救いをもたらす白。


 どこか、立ち入り禁止の工場内にでも迷い込んだのだろう。それを助けてくれたのが、たまたまそこにやって来ていたエドワードおじ様だった。とにかく、その時の夢を頻繁に見るようになったのである。


 私にとっては怖い記憶だ。怖いだけではなかったけれど、それでも何度も見て気分のいい夢じゃない。


(……や、やめよう)


 思い出すだけでまた汗が噴き出そうだ。目をつぶり、私はゆっくりと深呼吸をした。日常を体に取り入れなくては。


 プシューと煙が吐き出される音、人々の賑わい、巨大な歯車がまわるいかつい音が、壁越しにいつも通りの朝が来たことを知らせていた。おじ様のいた屋敷だと小鳥のさえずりが朝を知らせてくれたものだが、このあたりで呑気に歌う小鳥なんていない……、


「……。朝?」


 ……ものすごいことに気が付いてしまった。サーッと血の気が遠ざかる。ベッドの上に放り出していた嫌に豪華で品のある懐中時計が、私に時間を教えてくれる――……、


「……ッ‼︎」


 とんでもないことに気付いてしまった私は、『千年史』を押し込めたカバンを手に駆け出した。――すっかり寝坊、勤務開始時間はとうに過ぎている‼︎




「何で昨日の今日で遅刻できるんだい‼︎」


 ――案の定、おかみさんにしこたま怒鳴られる。


「ごっ、ごめんなさいごめんなさい! その分遅くまで働くから!」


「当たり前だよ‼︎」


 ぴゃっと、さすがにこれには肩も跳ねた。ここは宿屋の食堂。お客さん達は、「またやってる」と言わんばかりにこちらを見たり肩をすくめたりだ。おかみさんの隣で旦那さんがオロオロしてるのも、まぁよく見る光景といえば光景だ。


「まぁまぁ、そのへんにしといてやれよおかみさん」


「そうそう、ただでさえおっかない顔だってのに更におっかない顔になっちまってんぞ」


「アンタ達は黙ってな‼︎」


 ……お客さん達にも怒鳴るおかみさんって一体。けれどお客さん達も気にした様子はなく、「おぉ怖」とわざとらしく身震いするばかりだ。


 おかみさんが怒鳴らない相手なんて、1人しかいない筈だ。そう、それこそが……、


「まったく、これはもうエドワード様にご報告するしかないねぇ」


「‼︎」


 その名前に、私は今度こそ本気で恐怖を覚えた。


「待ってください、もう遅刻しない! 絶対しないから‼︎」


「そんなこと言って、アンタ先月も遅刻しただろ‼︎」


「本当に、もうしませんから……!」


「嘘をつくんじゃないよ‼︎」


「きゃあッ‼︎」


 思わずおかみさんの腕に縋りついていた私は、思い切り振り払われてバランスを崩した。私が特別細いわけではないんだけれど、おかみさんとの体格差は一目瞭然だ。予想通り無様に転倒した私に、周囲のお客さんがおっと嫌に色めいた。私は慌てて、スカートを整えるようにして座り直す。


「何だよ、減るもんじゃないだろ」


 お客さんの1人が、まるで正論であるかのように主張する。私にとっては減るんですと、言い返してもよかったのかもしれない。けれどとにかく不快で、会話をするのも嫌だと思った。


「パトリシア、今のは危ないだろう」


 旦那さんが困り眉のままおかみさんを嗜めた。フン、と鼻を鳴らして、おかみさんはそっぽを向いてしまう。


「とにかく、エドワード様には報告するからね‼︎」


 前言撤回する気のないおかみさんに、私はうなだれる。それから私に今度こそ今日中に片付けを終わらせることや、そうじゃなかったら給金を減らすことを告げて、厨房へとズンズンと戻って行く。


「かわいそうぶった声出すんじゃないよ」


 あたしは騙されないからね。――そう言い残して。




 ――そうしてまた、昨日と同じ作業をする羽目に。でもそれ以上に憂鬱なのは、エドワードおじ様に私の失態が知らされるということだ。


「はぁ……」


 遠慮なく、大きくため息を吐き出して、私は床に積まれた本を1冊、手に取った。


 私を拾ってくれたエドワードおじ様は、決して悪人なんかではない。下層階級の捨て子である私を衣食住に困ることなく育ててくれたし、教育もしっかり施してくれた。どころか、私を無理やりどこかに嫁がせることもなく(……下層階級出身で美人でもない私が嫁げるところなんてないと思っていた可能性もあるが)、こうして貸本屋という職を与えてくれた。


 だから感謝している、すごく感謝している……けれど。


(……何か……苦手なんだよなぁ……)


 はぁーと、またしても露骨にため息が漏れてしまった。片付けもなかなか、進まない。


 お客さんが来たから最後までできませんでしたと言えば、おかみさんも大目に見てくれたかもしれない。けれど今日のお客さんはゼロ。悲しいことに珍しいことではない。


 そもそも、こんな下層階級が住まう稼働街で貸本屋なんてやる方がどうかしているのだ。


 床に積まれた本をまるまる持ち上げようと、私は屈んだ。何の気なしに顔を上げた私は、本棚の側面にかけられた縦長の鏡――その中にいる少女と目が合う。


 ……これも昨日と同じだ。反射的に顔を背け、次に私は……、ドアの方をふり返っていた。


「――……」


 鎧窓から差し込む赤い日差し。足元から視線の先へとまっすぐに伸びる、黒々とした影。しかし、そこには――……、昨日の青年の姿は、ない。ただ閉じられた扉だけが、ひっそりと佇んでいた。


「……あぁ、もう」


 ただでさえうんざりしている時に、どうしてあんな人を思い出してしまうんだろう。


 これはもう後で『千年史』に読みふけるしかない、と結論付けて、私は一向に進まない片付けへと乗り出した。


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