第1章 古書に愛し愛される少女の物語

 何だか妙にまぶしく思えて、意識が浮上した。


 のろのろとまぶたを押し上げると、鎧窓から差し込む夕日が世界を覆い尽くしていた。机に突っ伏していた顔をもたげて、私は見慣れた光景をぐるりと見渡した。私の世界。それがこの、四方向の壁を――ドア以外を――本で埋め尽くした部屋だ。


 本棚には分厚い本がぎっしりと並んでいる、かと思うと中途半端に空いていたり、倒れていたり、何なら立てられた本達の上に横にして差し込まれたりもする。床にも本があちこちに積まれていて、それが崩れたらしき惨状も隅っこにあったり。


 古い紙やインク、木の匂いに満ち満ちていてごみごみとしている。埃っぽい手狭な世界は、夕日によって濃い影を落としていて、どこか寂しげだ。


 突っ伏していた古びた机にもいくつも本が積まれていて、それらは全部現在進行形で私が読み返している本達だ。何故読み返しているかというと、ここにある本は全部読了しているから。


(……新しい本、入荷してくれないかなぁ)


 そんなことを思いながら、ふわっとあくびを漏らした時だった。


「フラン‼︎」


 怒鳴り声かと思うほどの大声と共に、ドアが勢いよく開かれた。大きく口を開いたまま、私はピタッと動きを止めてしまった。そしてその侵入者は、私のそんな動作を見逃さなかった。


「やっぱり! あんたまた仕事中に居眠りしてただろ‼︎」


「……おかみさん……」


 厄介な人に見つかってしまった。ドシドシと恰幅のいい体を揺らしながら迫り来る中年の女性は、私の雇い主の奥さんだ。名前はパトリシア。


「えぇっと、でも今起きたので」


 バンッと、目の前の机に勢いよく大きな手が置かれた音で遮られた。どう言い逃れしようかと宙を無意味に彷徨っていた手が止まる。


「そんなの言い訳にもなんないよ! 今週これで何度目だい⁉︎」


「……えーっと、5回とか」


「14回目だよ‼︎」


 きつい口調で断言されて、私は数回瞬いた。


「……すごい。ちゃんと数えていたんですね」


「あたしだって数えたくて数えてたんじゃないよ‼︎」


 また机に勢いよく手の平がふり下ろされて、ものすごい音が鼓膜を直撃した。口元が勝手に引きつった。


「いいかい、あんたは雇われてる身であって、こっちはあんたに金を出してるんだよ‼︎」


「……は、はい」


 ……それはまぁ、ごもっともだ。


「その分はきっちり働くのは当然だろ‼︎」


「はーい……」


「伸ばすんじゃないッ」


「……はい」


 ふん、とおかみさんが鼻を鳴らした。


「まったく、エドワード様の紹介じゃなかったらとっくにクビだよ、ク、ビ‼︎」


「……」


 エドワード、というのは、私の養い親だ。私はおじ様と呼んでいる。


 今おかみさんが言ったように、彼の紹介があったからこそ私はこの貸本屋の店番という天国みたいな仕事にありつけた。


「聞いてんのかいフランッ‼︎」


「は、はいッ‼︎」


 鼓膜を突き破るんじゃないかという怒声に、私は直立で立ち上がってしまった。


 ……こうやって雇ってくれているのはありがたいけれど、私はおかみさんのことが苦手だ。こうやっていちいち怒鳴ってくるから心臓と耳に悪いし、それに、


「……まったく、エドワード様の紹介じゃなきゃ……」


 ……このおじ様贔屓といったら。


「何見てるんだい!」


「い、いえっ!」


 高速で首を横に振った。ふん、とまた鼻を鳴らしたおかみさんは、全くこんなに散らかして、と悪態を吐いている。


「ちゃんと片付けておくんだよ」


「……はーい」


「文句でもあんのかい‼︎」


「ありません、ありません」

 両手の平をおかみさんに見せて振ってみせる。……とりあえず床に散らばっている本を拾わないとかなぁ……と思っていると。


「フランー! フランはいるかい!」


 陽気でご機嫌な声と共に、また勢いよく扉が開かれた。鼻の下に髭を生やした痩せっぽちの中年男性は、絶句しているおかみさんの前を通り過ぎて私の正面に歩み寄る。……何て軽い足取り。しかも床に散らばっている本達を軽やかに避けて。


「旦那さん、こんにちは」


 スカートを摘んでやや屈んでみせると、「うんうん今日もいい子だねぇ」とその男性――私の雇い主が、鼻歌でも歌いそうな陽気さでうなずいた。名前はベン。信じられないことに、そこで悪魔か何かのように睨みをきかせているおかみさんと夫婦なのだ。


「今日はフランにいいものを持って来たんだ」


 旦那さんは、そう言って脇に抱えていたものを私の前に「じゃーん!」と差し出した。


「わぁっ、『新約千年史』⁉︎」


 私が声を跳ね上げたのと、隣まで来てそれを覗き込んだおかみさんが「なっ!」と声を上げたのと、ほぼ同時だった。


「すごい旦那さん、こんなものどうやって⁉︎」


「いやーぁ、古いツテが持っていてね。学院に寄贈しようとしていたのを何とか口説き落としてやっとだよ〜」


 手渡された本を胸に抱きしめて尊敬の眼差しを向けると、旦那さんは頭をかきながら全く満更でもなさそうな表情だ。


 私の雇い主である旦那さんは、本業は宿屋だ。けれどとにかく本の収集癖があって、家の床が抜けるんじゃないかというぐらいかき集めていた。それで私の養い親であるエドワードおじ様が、貸本屋をやることを提案し私を紹介してくれた、というわけだ。おじ様と旦那さんは旧知の友人らしい。


「フランが喜んでくれてよかったよ〜。まぁちょっとページが破れてるとことかもあるけど、それもまたご愛嬌だよね」


「うんうん、本当にそう思います! 旦那さん、大好き……!」


「かわいいフランの為ならいつだってお安い御用だよ〜」


「ちょっとあんた‼︎」


 旦那さんと手を取り合って小躍りしてるところに、おかみさんがまた怒鳴り声を張り上げた。


「どうしたんだいパトリシア。君も入る?」


「そんなわけないだろう‼︎」


 腰に当ててた手の内右手が、勢いよく私を指差した。


「この子はね、また仕事中に居眠りしてたんだよ!」


「そうなのかい、フラン?」


「す、すいません……最近妙に眠くて」


「それは大変だ! さては夜更かしして本を読んでいるな?」


「そうとも言います」


「はっはっは、ならまだ背が伸びるんじゃないのかな?」


「あんた‼︎」


 ちっとも私を叱る様子のない旦那さんに、おかみさんが声を張り上げた。まぁまぁ、と旦那さんは呑気に笑ってる。


「そんなにお客さんも来ないんだし、ちょっとくらいいいんじゃない?」


「ベン、どれだけこの子を甘やかす気だい⁉︎ もう14回も寝てるってのに‼︎」


 旦那さんがおかみさんを見つめて、瞬きした。


「すごいなパトリシア、数えていたのか!」


 さっきの私と同じことを言うものだから、思わず吹き出してしまった。途端、おかみさんがものすごい勢いでこちらに首を向けた。


「フランチェスカ‼︎」


 びくっ、と勝手に体が凍りついた。


「とにかくあんたは部屋を片付けておくこと。今日中だよ‼︎ それと次寝たら給金は3割下げるからね!」


「パトリシア、何もそこまで言わなくても」


「あんたもあんただよ‼︎ 役に立たない、読みもしない本なんて集めて、こんな子雇うだなんて‼︎」


 旦那さんを遮っての怒鳴り声に、しんと書庫が静まり返った。さっきまであんなにうれしかった本の重みが、そのまま心の重りとなってしまいそう。


 旦那さんが困ったように眉根を寄せたのが分かって、私は慌てて2人の間に割り込んだ。


「あ、あのっ! 片付けやっておきますから。それにもう居眠りしません、ごめんなさい」


 頭を下げて謝ると、おかみさんがつまらないものでも見たと言わんばかりにまた鼻を鳴らした。


「今日中だよ」


 それを合図にしたかのように、時計塔の鐘の音が厳かに響き渡った。1回、2回、3回……6回。夕方の6時だ。


 足音荒くおかみさんは出ていき、乱暴に扉が閉められる音がとどめのように鼓膜を直撃する。書室はしんと静まり返った。


 気まずい沈黙を破ったのは、旦那さんの方だった。


「ごめんねフラン、うちの奥さんが」


「いえ、そもそも私が悪いんで」


 そう言って笑いながらも、声に元気が出ないのが分かる。旦那さんは更に困った顔になってしまった。


「片付け、明日に持ち越してもいいからね」


「はい。でも、できるだけ頑張ってみます」


「後で夕食を持って行くから」


 大丈夫です……と言おうとすると、それを遮るように旦那さんが「あっ」と言って私の手にある本を指差した。


「この千年史、5年前に出たもので最新ではないんだ。流行になかなか追いつけなくてごめんねぇ」


「前のやつは20年以上前に発行された物だったじゃないですか。それに比べたらかなり進歩していますよ」


「それはそうなんだけどね! ……でも、フランには最新版をやっぱり見てもらいたいんだよ」


「……ありがとうございます」


 1000年分の歴史を収めたこの『千年史』は、毎年新しいものとなって更新されていく。最新版を手に入れられるのなんて、お貴族様ぐらいだ。


「5年前のを手に入れるのだって大変だったでしょう? 大事に読みます」


「フランは本当にいい子だねぇ」


 旦那さんが、また人好きのする笑顔を見せてくれた。


「その本、1番に読んでいいからね! 読み終わったらまた感想を教えておくれ!」


 そう言い置いた旦那さんが、朗らかに手を振って書室を出て行った。乱暴ではないけれど、朗らか故にドアの閉まる音は元気良く響き渡った。


 旦那さんは、宿屋の主人というだけあって階級が低い。だから、読み書きもそんなにできない。なのに『本』というものが大好きらしく、さっきおかみさんが言っていたように読めない癖に集めまくっている。


 エドワードおじ様から読み書きを充分に教え込まれた私からすれば、旦那さんは相当な変わり者だ。でも、不思議と嫌な気持ちにならない。


 初めて会った時、私が字の読み書きができて本が好きだと知るや旦那さんは目を輝かせていた。「じゃあ私の自慢のコレクションを読んで、是非感想を聞かせておくれ!」……なんて言葉と共に、熱烈な握手までされて。


 少々困ったところと言えば、宿屋の仕事をほっぽり出して本の収集に明け暮れるところ。宿屋も決して大儲けじゃないのに、すぐに本にお金を注ぎ込んでしまう。だからおかみさんも毎日ご立腹なのだ。


 ――フランチェスカ‼︎


 先程の怒鳴り声が耳の奥で破裂して、私は千年史を机に置いたまま動きを止めた。


 ――フランチェスカ。それが私の名前。


 けれど、私はこの名前が嫌いだ。確かに私を育ててくれたエドワードおじ様は伯爵で、でも私の本当の出自は墓掘りの娘だった。こんなお姫様みたいな名前は似合わない。


 けれど、それまでの名前を使うよりもこっちの方がいいと、おじ様は勝手に私を『フランチェスカ』にした。私を捨てた実の親からもらった筈の名は、その時に捨てられた。


 前の名前で呼ばれたいかというと、正直分からない。でも、とにかくフランチェスカという名前は好きじゃなくて、おかみさんはあぁやって時々その名を怒鳴るから苦手だ。


 小さくため息を落として、私はすぐ足元に山となっている本を手にしていった。


「うっ……、重い」


 おじ様は本の形状も愛していて、分厚ければ分厚いほどいいらしい。だからここの本は、どれも重量が凄まじい。5冊自分の手に積み上げてみたけれどもう限界だ。


 よっと、とよろめきながら立ち上がった私は、本棚の側面にかけられた鏡の中の自分と目が合った。


 一応客商売なのだから身なりを整えな、とおかみさんがかけた物だ。縦に長く、数歩下がれば全身が映り込む。


 鏡の中の少女は、肩を少し越える長さで垂らした焦げ茶色の髪をしている。サイドを編み込んで黒いリボンを垂らしているのはせいいっぱいの女の子らしさのつもり。瞬くその目は、茶色っぽさなんて少しもなく、真っ黒で――……。


「……っ」


 ……焦げ茶の髪はまだいい。でも、この目だけは。鳥肌が立つほどの寒気を覚え、鏡から目を背けた時だ。



「よほど自分の姿がお嫌いと見える」



「……っ⁉︎」


 突然降って湧いた声に、私は弾かれたようにふり返った。


 店の出入り口となるドアは1つだけ。そこに、男が1人立っていた。


 元々このドアはそれほど高く作られていないけれど、ドアがはまる四角い穴……という表現でいいんだろうか? とにかく、その上部分に余裕で右手をかけている。


 左手はズボンのポケットに突っ込んでいて、やや猫背というか、姿勢が良くない。老人めいたというよりは、ゴロツキとか傭兵っぽさがあった。


(……ドア、いつの間に……?)


 確か、旦那さんはドアを閉めていった筈だ。それにこのドアは古い木材で作られているから結構軋むし、この部屋の狭さなら奇跡的に音を立てなかったとしても開く気配に気付く筈。


「なぁ、ここで何してる?」


「……え……?」


 事の異様さに眉をひそめた私に、その男が更にわけの分からない問いかけをしてきた。


(ここって何? じゃなくて、ここで何してる……?)


 それではまるで、店についてじゃなく私自身について問うているみたいじゃないか。私は更に男を観察した。


(……上流階級じゃない。絶対)


 帽子を目深に被っていて目がほとんど見えないが、会ったことのない人であることは確実だ。錆色に近い赤毛を無造作に後ろで結んでいる。20代? ……うーん、10代にも見える。町工場で働いてる若者がよくするような格好をしていて、その服は割とボロボロだ。その格好自体は珍しくも何ともない。


 ……でも何だろう、この粗野なのにどこか人を食ったような感じは。貴族じゃなさそうなのに、貴族に負けない威圧感がある。


 八重歯の見える口元は笑んでいた。


「なぁ、質問に答えろよ」


「え……えっ、と、」


 しかも上から目線。でも、見下してるのともまた違うような。


 持っていた本の山を、ひとまず机の上に置く。唐突な命令に戸惑いながらも、私は何とか言葉を押し出した。


「ここは、貸本屋です。……あ、でも手紙の代筆や写本や翻訳も承っています」


 さすがに貸本屋のお給金だけでは生きていけない。この階級にしては珍しく私は字の読み書き、それと隣国の言語ならある程度は読み書きできる。……さすがに発音が難し過ぎて、喋るのは無理だけど。


 とにかく、字の読み書きができることを活かしていくつも仕事を掛け持っているのだ。


「何でまた」


「何でまた⁉︎」


 まさかそこでそう返されるとは思っていなかった。思わず素っ頓狂な声を上げた私に、男は首をひねっただけだった。それも私の発言に疑問を持ったからというより、気分でその仕草をしただけ、という感じで。そして何も言わない。


 私の答えを待っているようだ。


(……どう説明しよう)


 確かに養い親は伯爵だったけれど、私自身は下層階級の人間だ。だから下層階級で独り立ちすると決めた。……おじ様を好きになれないというのもある。けれども、それを見ず知らずの怪しい青年に説明する義理はない。


 初対面の人間に話すには、私の経歴は複雑怪奇で変わり過ぎている。


「……字の読み書きが、好きだからです」


 結局、そうとしか言いようがない。


「好きなことでお金を稼いで生きていけるって、幸せなことじゃないですか」


 そう付け足したのは、また何か変なことを訊かれそうな気がしたからだ。しかし、本心の筈なのに、自分でも胡散臭い発言だったな、と思った。羞恥で、勝手に頬が赤らんだ。


「幸せねぇ」


 男がまだ笑い混じりにくり返す。……子どもの言い訳をうんうん聞いているような態度に、少しムッとした。


「あの、今日はもう閉店なので」


「へぇ」


 へぇって。


「本の貸出や返却、急な代筆等の依頼でないのでしたらお帰りください」


「なぁあんた」


「あの、本当にもう今日はおしまいなので」


 私の主張を気にも留めない態度に、思わず語気が強くなる。無理矢理にでも閉め出そうかと真剣に悩んだ時だ。



「そろそろ燃えるぞ」



 ――何が?


 唐突過ぎる報せに、私は苛立ちを忘れ彼の顔を見た。帽子の影から、チラリと赤く光るような目と視線がかち合う。


 鎧窓から差し込んだ夕日は赤みを増し、私の影を長く伸ばしていた。それはそのまま、彼の足元にまっすぐ繋がっているように見える。


「じゃあ」


 瞬きの間の出来事だった。短い別れの言葉と共に、男はあっさり踵を返し去って行った。


「……」


 私はそのまま、ずるずるとへたり込んでしまった。


(……何、今の)


 奇妙な男だった。大人なような大人になりかけのような。粗野なようで卑しくはない。上流階級ではなさそうなのに、只者でもなさそうで。


 会ったことのない人種。……ううん、2人目と言うべきなのか。


 旦那さんがこっそり夕食を持って来てくれるまで、私はそうして動けなかった。

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